漂着の浜辺から

囁きのような呟き。

月の雪原 / 第一部・雪原 / 2・トゥーリ・1

2007年06月11日 | 月の雪原
 2.トゥーリ
 
 ツァーヴェの父は、名をトゥーリと言った。小都会であるミスクの街で教師をしていた両親の間に生まれ、この国ではまあ裕福といっていい生活の中で高い教育を受けた。大学では流体力学を学び、そのまま助教授となった。やがて大学の学生だった女性と知り合い、順調に交際を重ねて結婚した。それがツァーヴェの母であるオルガだった。そのまま行けば何の問題もない人生を送れたのかもしれなかった。
 だが転機がやってきた。国家の主導による、ひとつの巨大なプロジェクトが持ち上がったのだ。科学の振興によって国力の強化を図るというのがその趣旨であった。多くの優秀な科学者が、有史以来ほとんど手付かずの、それだけに大きな可能性を秘めた広大な原野を切り開いて建設された新しい街、ビスクに召集された。トゥーリもそうして集められた科学者の一人だった。いや、集まった中の一人というべきか。というのは、その召集は決して強制的なものではなく、任意によるものだったからだ。まだ若いトゥーリは、その希望に満ちた題目に共感した。そして、給料は安いが安定した大学での地位を棄て、クルーヴに向かうことにしたのだ。トゥーリは、流体力学を応用して、永久凍土を剥ぎ取る研究をしたいと考えていた。
 しかしそのプロジェクトは、掛け声だけは壮大な理念のもとで実施されたが、多分に非現実的であった。研究の大半は、手っ取り早く経済的な利益を産むことはできない。そのことについては、計画が持ち上がった当初から多くの学者たちによって指摘されていたことであったが、無知から来る楽観性によって無視された。当時は次から次へと新しい技術が開発されていたから、そうした意見はただの杞憂だと政府は笑い飛ばしていたのだ。プロジェクトは、当初は大きな期待もかけられ、人々の熱狂も後押しして街は瞬く間に大きくなった。実際、幾らかの成果も無かったわけではなかった。だが、実用には程遠いものが大半を占め、中には全く見当外れのものも多かった。やがて政府にも、それが何の目先の利益ももたらさないということが分かってきた。もともと豊かとはいえない国の財政の中では、プロジェクトに投資される予算が削られるのはすぐだった。それが本来の科学の進歩の姿であり、この少ない予算では給与を払うことが精一杯で、まともな研究など何も出来ないと科学者たちは主張したが、無駄だった。そもそも、そのプロジェクトそのものが思いつきのようなものだったのだ。予算が削られると、工業的な方面からの出資を期待して、小手先でもいいからとりあえず何らかの成果を出そうとやっきになった。その結果、基礎科学にまで予算が廻らなくなったが、それは悪循環で、研究はますます停滞した。当初は、科学者達は自分達の給与よりも研究を優先しようと頑張ったが、それも自ずと限界があった。気がつくと、街には仕事にあぶれた、行き場のない科学者が溢れていた。
 ツァーヴェの父もその行き場のない科学者の中の一人だった。彼の研究は、上手くゆかなかった。研究所は慢性的な財政難で、給料も満足に払われなくなった。所員の中には、半年も給与が払われていないものもいた。妻と三歳の息子を抱えたトゥーリは、いよいよ仕事に見切りをつけざるを得ないと結論した。それで、次の仕事を探すことにしたのだが、その時彼の頭の中に、研究のために何度も訪れた広大なタイガの森が思い浮かんだ。それは広大な啓示のように、彼の頭の中をみるみるうちに占めていった。トゥーリが闘おうとしていた永久凍土の上に根を下ろし、どこまでも深く広がっているタイガの森。彼は思った。俺の遥か先祖は森を越えてやってきた。豊かな森があったから、我々は生きて行くことが出来るのだ。これまで俺はその森と闘おうとしていたが、それは過ちだったのかもしれない。俺がこれからしなければならないことは、森へ帰ることではないだろうか。
 知人のつてをあたり、運良くトゥーリは、ビスクから数百キロ東にある小さな町クルーヴの中等学校に教職を見つけることができた。給与は三人がやっと食べて行けるだけのものだったが、それでもそのままビスクに留まるつもりはなかったし、仕事があるだけでも幸運というべきだった。それにクルーヴという町は広大なタイガの森の中にあって、いまだ森との結びつきが強いと聞いていたから、彼が抱き始めていた「森へ帰る」という思想とも一致していた。