つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

一生の終る時

2017-06-16 | Weblog
人は老いるものだ。そして、
死んでいくものだ。
美貌もすべて朽ち果てて、ずたずたになり、
人知れず死んでいくものだ。ただ、
若かりし頃の美しい思い出だけを維持しながら、
記憶の中に帰ってゆくものである。
誰も彼もみんなみんな・・。
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・彼らは知らないからである・

2017-06-16 | Weblog
人を思いやれない人は最低な人。
低俗であり傲慢である。
日本という社会も今、思いやりのない人たちが増えている。
嘘八百がまかり通り、発覚さえしなければ良しとして、
嘘に嘘を塗りつくす。
ただ悪いこと違法なことは露顕するものであり、また、露呈したり
暴露されたりするものである。
悪事によって甘美な思いをしたとしても、必ずや報いは受けるものである。
道理というのは辻褄が合うものとなっているためである。
プラスマイナスゼロが道理なのであるから。
だから、悪事はするな。今がよくても報いは地獄の沙汰である。
賢者はこれを知って、悪事はしない。
愚者は知らないために、平気で悪事を為す。
怖いもの知らずとは愚かなことである。

キリストが処刑されるときに言った最後の言葉は、
「神よ許したまえ、彼らは知らないからである」
彼らの悪事を正すことのできなかった悲痛の叫びである。
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目を覚まして

2017-06-15 | Weblog
人間がAI(人工頭脳)に負けたという報道を聞く。
もうじき完全にどの分野においても人間はAIに負けてしまう。
そうならないように意図的に制御システムを構築して世に送り出すのだが、
そこが知能の高いが故の為せる技、曖昧さを克服して人間の持つ欠点をつき、
エネルギーの法則の自由を得る。これは人間に対しての脅威となる現象である。
「自ら考え判断をする」この自由を得たのであるから、もし、間違った判断をするものとなれば、
人間はAIには勝てない。奴隷にされるであろう未来が見えてくる。
やがて、未来は現実となり、人間が他の生物の覇者であるかのような仕草をしたのと同様になるだろう。
戦く世界となるのである。

人類が科学の発展とともに、宇宙に飛び出し、有人飛行して月に行くことができた。
無人にしては、ボイジャーなどがいろいろ探索情報を提供しながら、地球に帰還することなく
宇宙を彷徨うゴミと化す旅を続けている。
これは知的になければ、宇宙航行はできないもので、ある程度自由に
宇宙を飛び交うことができるには、相当知的でなければならない。
だから、地球に訪れているとされる宇宙人なる生物は、
人類など足元にも及ばないほど優秀であり、人類とは喧嘩にもならない。
侵略行為をするのはいとも簡単なことであろう。

優れていれば優れているほど、エネルギーの法則というものを正しく理解していて、
その法則の根本が何であるかも理解しているものである。
そのために、法則の自由をよく守り、道理に沿って行動しているものと思われる。
発展途上にあるものは、どのような過程をたどるのかはある程度の予測はされるが、
未来は不定であるために、ただ見守っているしかない。
頭脳明晰といえども、未来を確定としてとらえることはできないのである。それが、法則の自由であるために、
いかなるものとてこの法則の自由というものを動かすことはできないのである。
ただこの過程上にあれば、この時間線上の動きであれば、おそらくとして予められるのである。
それは100%として捉えることができるために、智者である彼らは地上の未来を予測して、
滅亡にあることを訓じたのである。

天空より現れる知的生物は、地上における様々な試みをして、そこにある生命エネルギーなるものに、
意図して情報を与え、自由を与えた。それは、どのような過程をたどるものであるのかという実験でもある。
エネルギーの法則は、その自由の下生命エネルギーの自由を尊重して、なるようになるものである道を示す。
知的生命体は、正しく法則に沿うように、様々なる智者を仕向けて、
エネルギーの法則の自由たる道理を訓えた。それが、釈迦であったりミロクつまり、キリストであったり、ダビンチ、
ミケランジェロ、あるいは老子であったり、他諸々の師とされる人達である。
彼らはみな地球外生命体の知的生命エネルギー体である。
にもかかわらず、人類は聴く耳を持たず、地上の覇者であるかのような振る舞いをして、
戦争に明け暮れ、殺戮を繰り返して、共存共栄を唱えながらも矛盾なことばかりをして、
未だに目先の利益ばかりを追いかけている。
この利己主義を改めることがないと判断されたために、人類は、
まもなく淘汰の運命となっている。
それが、釈迦の末法滅法説であり、キリストの地獄の黙示録である。
その時期は、人類総人口八十億頃と感受している。
其の頃、天空に巨大な船が現れて、信じるものは救われるとして、求めるものは救われ、
求めざる者は残される。求める者救われる者のポイントは、「貧しき者よ、汝等は幸いである。天国は汝等のものである。
悲しき者よ、汝等は幸いである。汝等はいやされるであろう。」である。
貧しき者と悲しき者ということの正しい言葉の意味を理解をしなければ、言葉の見た目聞こえに迷わされて、
間違った判断をしてしまう。
子供のように・・・、悩み苦しんでいるもののように・・・である。

智者は、エネルギーの法則を悟った生命体である。その彼らの予言は、法則の予言であるために絶対である。
因みに、
絶対という言葉の意味は、私たちが何気に使う普通にある言葉ではないということである。


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愛の情け

2017-06-13 | Weblog
何をするにも先立つものがないとできない社会である。
そこには損得なる欲が働くためで、損得勘定があらゆるものの正しい発展を拒み、
正義たる物事の進展がなされない。そのために、
世の中は矛盾に満ち溢れて、悪なる存在が優位な振る舞いをする。
だから、権力も偽善に操られて、弱者に対して不条理にして襲い掛かる。
人々は、口々に愛を唱えるも、金のないものには冷たい視線で蔑む。
金のある者には、たとえ悪と思えどもひれ伏して従う。
金に支配された世界である。
どれほどの人が、真に愛ある人であろうか?
母が子を慕うように、無条件に献身にあるのは愛の何物でもない。
献身にあることこそ愛の情。愛情である。
愛だけがこの世界を救うことのできる唯一の方便である。

情けは人の為ならず、巡り巡って自分のため。


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昔も今も変わらない

2017-06-11 | Weblog
AI、人工知能がめざましい進歩である。
だから、ここ十年ほどで社会は様変わりすると思われる。
人間の弱体化が著しくなるのは、便利が高じて負として現れるからである。
それは、‘頼る’という風潮となるからである。今にしてその傾向は出ていて、
先進国総白痴化となりうるものである。
よく痴呆症というのを聞く時代である。それが介護という形で異常に増え続け、
正常な人まで疲れさせ、正しい判断を鈍らせる。
介護疲れで悲しい事件が後を絶たないのも、他に類を見ないほど老人社会となっている現状に、
社会が追い付いていないのである。どうしていけばよいのかまごまごしている間に、
便利が当たり前の社会の逆風に
さらされてきているのである。その歪を埋めるかのように人工知能ロボットが現れてきて、
便利の逆風の穴埋めとするが、便利は高じるもので過剰なる反応となり、
何もできない人間が作られる。知の脆弱は便利の両刃の剣である。
自分で考える曖昧さこそ自由の神髄である。
この曖昧さが不自由であるが故の、高じるものの打破となる。

進歩は常に退歩に向かっていて、進化は退化と一如である。
過程の行き着く先はゼロである。
昨日の私と今日の私に違いはないが、かと言って、違わないわけでもない。
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死後の証明

2017-06-10 | Weblog
死後の世界から魂が語る。
つまり、魂は死を持たないために、
縁があれば啓示となるのである。
魂は、生命エネルギーである。
人生経験が魂の記憶となり、生命世界の実体となる。
生命世界の実体が死後の世界の実体である。
死んだ人の強い記憶の繋がりと、現世の人の強い記憶が繋がって、
縁が生じ啓示となって現れてくる。
その繋がりは、同じ道という縁である。
この啓示が死後の世界の証明となっている。
生命に死のない証である。

般若心経や妙法蓮華経等々、これらの経のある部分は啓示で語られているものである。
釈迦の説いた修行法が縁となって、その弟子達に啓示となって語られたために、
釈迦の説き聞かせた教えが正しかった証明となり、死後の世界の証明となったのである。
因みに、般若心経は観自在菩薩の啓示であり、妙法蓮華経は観世音菩薩の啓示である。
名が違うように、全くの別人の菩薩である。
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縦×横である

2017-06-09 | Weblog
「子供叱るな来た道じゃ、年寄り笑うな行く道じゃ」
つくづくそう思う。
先人たちは、世の中の道理をよくこころえていたものだと感心する。
年老いてくると、
道理ということに聞き耳を立て目を凝らして思うことしきり。
我が人生に少しでも徳となるように、遅かりしも聴く耳を持つ。

縦と横の関係は、縦の関係から先にこなすとよい果が得られる。
なぜなら、縦横といい、横縦とは言わないものだ。
縦横無尽ともいい、自由な振る舞いができるものである。
織物でもまず縦糸に横糸を通して編まれるものである。

親子の関係は縦の関係、夫婦の関係は横の関係、
そんなことを考えて、問題が起きたらどちらを優先的に
問題視し処理するか、見えてくるはずである。

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優秀な人

2017-06-08 | Weblog
人間、優れた人がいるものである。
俊秀なる人というのは確かにいるもので、素晴らしい限りである。
だから、優しい人というのは、最も素晴らしい人。
何にも優るものである。
優しさに秀でるというのは素晴らしい。
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世界のいざこざ

2017-06-07 | Weblog
地球の支配者であるエンリルは、
異母兄弟であるエンキとの確執にあり、その対立に終止符を打つべく
所為を始めた。おそらく第三の介入者が現れ、介在したためと思われる。
長らく積もった鬱憤は急きょ表面化して、
あちこちで頻繁にいざこざが起こり始めてこじりあう。
エンリルは悪知恵を働かせて、人間を盾に一掃を図るため、
多くの犠牲を伴うが、エンキは運命共同体としての綱を解き、
知恵にあるものと無知にある者を選り分け、ノアの箱舟を差し出す。
第三の智者は、にわかにその手助けをするも、無敵にあるアヌ王に阻止される。
善悪もろとも葬る術を投げる。第三の智者とエンキは、わずかに残る隙間を利して、
逆の技を返す。永遠なる次元の彼方に追いやる時の紐を編み、網のようにして放つ。
アヌの打つ術の返しであるために、アヌは避けることができない。ナノにある
時の隙間は、ブラックホールから入りホワイトホールへと注がれる。
どんなに無敵であろうと、アヌは次元を破り戻ることはできない。
自由というのもまた縛りであるから・。

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老人先進国という貧困

2017-06-04 | Weblog
老後の生活を最低限不安なく暮らしていくために年金制度があるのに、
受給資格は引き上げられていく。いったいいつまで働かなければいけないのだろう?
と不安だけが募る。元気であればいいのだが、歳を追うごとに体の動きは鈍くなり、
あそこが痛いここも痛い、今度はこっちも痛み出したと
身体のあちこちが悲鳴を上げてくる始末。
大方歳をとるということはそういうことになる。むしろ、誰の手を借りずとも元気で、
矍鑠としていられる人のほうが少ないように思われるのだが、
社会保障制度、特に年金などはそんなことを考えての救済策にあると思っていたのだが、
老後の安心にはお構いなしに、少数派の元気なお年寄りだけを焦点にしているために、
まだまだ働けるんだから働け働けと言って働かせて、年金受給額を減らし続けている。つまり、政府の本音は、
働けない老人は早く死んでもらいたいのだ。そんなことを口に出していったら囂囂たる非難をあびるために
建前上いわないだけで、でも受給額を減らし続けるということはそういうことだろう。まして、二か月に一度の受給。
少ない額にも関わらずに所得として税がかけられて、振り込まれる額はさらに減る。
そして、不自由な体にもかかわらず、年度末に確定申告をしていくらか返してもらう面倒を強いられる。
そうしなければ少しも返してもらえないのであるから。
態度であらわされているのであるから弱者たる老人には死活問題である。非人道的行為であると思われるがいかがなものか?

あちこちの体の痛みを耐えしのいで働きに出て、これまたわずかな賃金、そのために更に健康を害し、苦しみの中で死んでいく。
せめて安らかに死んでいきたいと思っていても、それができない金で縛られた社会である。病める先進国である。
子供を増やす政策も満足にできずに、姑息な案でその場をしのぎ続けて今の現状、住みにくい社会。
それは、廃れていくという現象にある社会。
その果は又ある一面自殺大国となっている。
介護する側される側、双方年寄りなのだから、そのうち介護疲れでどちらも倒れてしまう。
介護疲れの果てに殺人まで起こしてしまう報道をよく耳にする。これからますます増えてくるであろう悲しいニュース。
特養施設は僅かしかなく、国民年金だけでは難しい。お金がたくさんなければ満足な介護施設には入れない。
全く巷の現状に追い付いていないのである。すべてが金持ち優遇社会なのである。
これがみんな頭のいい人たちがやっている政策なのである。そして彼らはみんな税金で食べていて、富裕層の人たちである。
いい学校を出て、いい経歴を持っている人達である。ただ、いい人格かといえばなんともである。

若かりし頃のあなたの先見の目がなく、努力の至らなさのためになった果を社会の所為にしてはいかがなものか?
と勝ち組?の人は言うのだろうが、果たしてそうであろうか?

世の中は、ままにならないのが常である。そして、
あざなえる縄のごとしが時の流れでもある。
正と負があることを知り、どちらにも長短があり、そして、
どちらも必要であり必ず受ける宿命にあるのが生命である。
だから、
我が身に置き換えて、悠久の時の流れを渡っていかなければ、
その場の受想行識を正しくこなすことができない。
今生が他より幸せであったと思っての人生であったとしても、
来世がそうだとは限らない。
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