つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

何思う

2013-08-19 | Weblog
盆が過ぎて、
ただ形式的行事とするか、それとも、死後を信じるか。
供養とは何の為と思うも、心のこもったものに不思議は起こる。
形式的に流されてはいけない。
心の伴わないものには、儀式も役に立たないものである。
冥福も加護も無い。
ただ翻弄されるだけとなる。
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風流

2013-08-15 | Weblog
チロチロと点る迎え火から
早、めらめらと灯る送り火になる。
形なき容の人の棲み過は瞬く間であり、
互いに切なく後を引く。
君にあなたにと尋ねあぐねても、
御仏の心一つ知れず、ただ香をたく。
君はあなたは、今の今まで確かにここにいたと、
身の毛は告げる。
めらめらと灯りチロチロと風情の灯り
風に薄れて消えていく。すぐまた会える彼岸にて。
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洗練する

2013-08-14 | Weblog
何度も言うようだが、
人は行為によってのみ善悪の縁が生じる。
その行為は心に基づきなされるために、
心を正しく保つことが大事である。
心を正しく保つのは、正しい経験による。
正しい経験は取りも直さず正しい教育である。
これをしてはならない、これはしてもよいという分別は、
本能として宿るが、
エネルギーの法則そのものには、善いとか悪いとかという別はない。
ただ同じことを何度も繰り返すということで絶対となり、正しいものとなっていく。
しかも、必ず元に戻るためにゼロになり、それは、増えもしないし減りもしないということであり、
何度も繰り返すということがいわゆる、浄化となっていることがわかる。
変化をきたすことができる一点、通過点つまり、特異な点ともいえる。
そこを境に繋がっていくために、
向上という進化なのか、低下という退化なのかに分かれる。
正しく浄化された点が本来の点となっている。浄化という文字であらわされている通りであるために。

ただ思っていたとしているだけでは業は現れては来ないが、
思いはきっかけとなるために軽んじてはならない。
くれぐれもそこで正しい分別を保ってほしいものだ。
その思い、行為としてよいものか、いけないものかと。
そこに、教育という正しいことを訓え導くことが必要となってくる。
法則に善悪は無い為に絶対善となって、本能も性善となっているが、
宝石の原石もみがかなければくすんでいるように、教育というみがきをかけなければ、
心は洗われてこない。洗練することは大切である。
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願わず祈らず

2013-08-13 | Weblog
此の世は一切が皆苦であると仏は言われた。
生きていることは、生きていくことは、
ただ苦しい。
そう覚って、生まれてこないことが極楽である。
それは、
生きている間の、生まれてこないための心構えに付く行為が必要である。
その行為によってのみ、目的とされる事柄が達成されるのである。
その行為は、強い志によってなされるものである。
志あやふやにて物事の達成は危ういものである。

人の行為は何よりも心に基づいてなされるものであるから。

この一生、この世は一切皆苦であると信じられてこそ、
振り回されることなく不思議なことになる。
不思議なことになるものである。

物事は、願わず祈らず、ただ行為によってのみ通じていく。
そこに、神通力が働くために。
その一念、岩をも通す、と。
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是を知る

2013-08-11 | Weblog
法が円運動であるために、日の回りが絶対正しいとして法を是としている。
是であるために、決まった時間に決まったところを決って通る。
何もかもが狂いなく回るのである。だから、そのその昔、何月何日は晴れで、
何月何日は雨の日で、何月何日には風が強く吹く日で等、天気も決まっていた。
狂いなく回るのが法則であるための予めである。
エネルギーは廻る変化によって、変化に対応したエネルギーとなって現れてくる。
完全に変化に対応したエネルギーは、動く必要もなく完成されたエネルギーの形となっている。
鉱物などは完成されたエネルギーであるために、動く必要は無いものとなっている。
植物などもそうである。地上で一番進化した生命エネルギーといってよい。
動くものは未完成エネルギーであるために、動きながら変化に対応している。
人は動きながら変化に対応しているために動物であり、その動きはすべて法の動き円運動となっている。
だから、目をつむりながらの移動は直線的に進むことはなく、必ず曲がってしまう。
他の動物もそうである。曲線的動きをする。それは円運動が法則となっているためである。
山の中でどれも同じ景色で道に迷えば、行けども行けどもぐるぐる回り、何度も同じところに返ってきてしまう。
その広さは、その人の行動範囲の広さによって戻ってくる。
人に直線的認識が外れてしまえば、まっすぐに歩くことができないのである。
その時、法の動きとなって、ぐるぐると同じところをまわるのである。
日常的にも、人の動きは法の動きとなっていて、必ず元に戻ってくる動きとなっている。
行ってきますと家を出て、ただ今戻りましたと帰ってくる。生活のすべてが円運動となっているのである。
それはまた、元に戻るというための浄化の動きでもある。円運動というのは浄化の動きでもある。
法則が浄化の法則となっているために、人の行為も浄化の行為となっているのである。そのため、
人生正しく浄化となっていれば、法に沿うことであり、よく道理に守られていく。
事多い中でも、その巡りがよくなっていくのである。

人の体も廻っている。意識しなくとも法の動きとなって、止まることがない。それは、法が止まることがないためである。
片時も止まることなく正しくリズムを刻んでいる。
外部から取り入れた栄養でもって、良くも悪くもなる。それが変調であり、何かが起こる兆しである。
悪いものを食べれば悪く、よいものを食べればよく変化していく。
意識もそのように同じである。
だから、受想行識の世界となっている。
此の世は、外部からの刺激を受けて、想行識が作られていくのである。
受けた刺激を正しく浄化して、終には天国が作られるものである。
人という動物の生命エネルギーである。
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精霊流し

2013-08-10 | Weblog
また盆が来た。盂蘭盆会である。
回向である。死後の幸福のために、
供え物をして、死後の霊を慰めてやる。

生前、お前のような奴でも慕う人がいたのかと、鬼は苦笑う。

僅かであっても、それは慰めとなろう。
そうして、
地獄に仏を遣いて魂を救い上げる。

俗世、人の世というのは、自分が生きることに精いっぱいで、死者のことはやがて忘れ去られてしまう。が、
日々、心の中にお前を慕うものがおるのであれば、それが回向である。盆であり彼岸となる。

幾多の輪廻、お前も盆だの彼岸だのと、霊を思う時があるのだから心して生きよ。
いつか見たあの世のことと、いつかの人生とを越えてきたのだから、
助けられた僅かな思いを忘れるな。
得られた喜びを知る者であるから、与える喜びも知れる者である。
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紛れもなく分別される

2013-08-09 | Weblog
過去に経験のないほどの雨量・・
観測史上初めての酷暑・・・
世界各地で異常気象、その猛威は頻繁。
人類八十億を数えるに迫り、その数に近づき増えるほどに天の気が乱れる。
人が悪のエネルギーとなっているために、
満を持していよいよ狂いだした。
どこもかしこもぎこちなくして、その嘆きはすれ違い、
修正されることがなく崩壊となる。
今はその前兆、顕著に表れだしている。
十年二十年先瞬く間、人の悪のエネルギーの為に、自業自得としての崩壊前である。
この多くの人の聞き入れなさは、接してわかること、接しなくともわかること。
さて、助かる道は皆無。無理なことである。
此の世では、悪い人でも良い目にあうように、善い人でも悪い目にあうように、でも、終には
悪は悪い目に善は善い目にが道理である。

終には悪には悪いことしか起こらない。
地上の生命、運命共同体である。

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徳を積む

2013-08-08 | Weblog
道理が無い為に無理といい、
無理な事はどんなことをしても成り立たない。
何をどうしてもかなうということはない。
だから、
道理を知り道理に沿えば、かなわないということは無くなる。
道理を行っていれば
よく道理に守られて、ことごとく物事は都合がついていく。
その道の理を味方につけることである。

是が道理である。諸々の法則である。自然という。
だから、
よく自然を見て自然に学べ。そして、自然に沿え。
それが人生経験である。
人生経験豊かにして知恵がつき、徳を積む。
ただ無駄に年老いるな。
知識豊かでは無く、知恵一つである。
識者とか、専門家などというのは俗に等しい。

知恵が身に付けば、誰に教わることもなく、習うことも無く、
真実が見えてくるものである。
こうすればこうなる、あーすればあーなる。
こうしなければ、あーしなければと先が読めてくるものだ。


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智慧の心

2013-08-07 | Weblog
一日という道理をみる。朝起きて夜眠る。
こうして一日が区切られて明日に繋がる。
昨日もそうして繋がってきた。
眠る姿は死んだときの姿と同じに見える。その時見るのが夢の世界。
朝が来れば夢から覚める。そうして、一日がまた始まっていく。
この現象が生命の輪廻と同じとなっている。眠っている時に見る世界があの世と同じ世界。
心の記憶の現象の世界である。だから、夢を判断すればあの世の判断がついてくる。
怖い夢を多く見れば、あの世は怖い世界、地獄であると知れてくる。

記憶に強く刻まれた事柄は、気になって夢の世界となって現れてくる。
これが夢想の世界、気の現象である。
夢を見たり見なかったりという日があるが、実のところ、眠れば必ず夢は見る。
見なかったと思うのは、完全熟睡となって一切の反応を示すことがないから。それは、
あの世が一切の反応しないのと同じである。だから、知ることができない。

夢想の世界に悪を思わないこと。恐怖を思わないこと。
悪をつくらなければ怖がることも無い。地獄となることがない。
地獄でなければ天国、極楽である。
あの世は、気の世界、心の世界、法則の世界そのものである。
曖昧ということの無い世界。絶対世界であるために、どちらか一方である世界である。
一つに正反対を持たないもので、
完全に相対が分離してある世界である。
善は善、悪は悪、天国の中に地獄は無く、またその逆もそうである。
それが法則の絶対世界である。そのようにして対立してあるものである。
生命は、天国を目的として生きているものである。
心に悪を抱かない、相手を悪としないで生きること、そのために、
愛すること、愛する者として生きよということである。すべては
自分の為である。
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ガキ

2013-08-06 | Weblog
損得に生きる人がいて、
愛情さへ損得勘定。
好きとか嫌いとかも金勘定で動いて、
金がなければ縁の切れ目と薄情なもの。
金さへあれば愛も芽生える。
経済社会というのは心が荒む。
荒む世の中、よくなるわけがない。
ますます荒れて絶望的、
じりじりと生き苦しくなるばかりでも尚
騙されて、損得勘定を離れない。
大人になれない餓鬼のまま。
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