この宇宙の存在は、エネルギーの法則によって作られている。
エネルギーは量子であり自由にある。
その自由は、エネルギーの円運動となっている。
全てが巡る動きの変化が刺激となって存在している。その刺激に反応し現象となってくる。
だから、この世界は受の世界となっている。
反応するしないは自由である。だから、なぜ?というのの答えは自由だから。
たとえば、私の好き嫌いは自由という理由である。なぜそれが好きで、あるいは嫌いなのかは
その人の自由意識による。ほかに理由などない。自由が理由である。この自由という意味を理解できなければ、
真に答えは得られない。疑問ばかりに終始する。
自由がエネルギーの性質であるために、この自由は道理にして、いかなる力でも動かすことはできない。
核の力でも及ばない。存在のそのものが、どのようにして刺激を受けたかに由って初めて変化する。
全てが「受」の世界となっての存在である。だから、個々によって違いが出てくる。
同じことを見聞きしても、まったく同じとして受け取られることはない。
似てはいても非なることとしてある。どのようにこのことを理解するかは自由。
ただ、統一できるのは、エネルギーの法則が、存在としている自由が、
善悪などない存在であることを理解して、そのことをどのように受け止められたかによって、
現象世界が変わってくる。円運動は巡るという正義だけである。
存在の正しい義(いみ)があるための現象世界である。
エネルギーの法則は、善悪のない法則であることを、どのように解釈するかで違ってくる。
人の意識にある善悪は、その人の自由にあるために、悪人と善人が存在してしまう。
どちらも正義であるために存在し、方や楽が現れ、方や苦が現れる。
天国と地獄である。それが、自身の受け方で行き来する。
苦しみの世界に喘ぐのは、善悪を意識するからである。法則には善悪は無い。
だから、人の意識にある善悪を捨て去って、法則の「無い」を意識することである。
何もないことが幸せであると、日常として存在となっている。
天国に起伏はなく、ただ平。
人の常識は非常識でもある。
自身の意識を改めよう!
エネルギーは量子であり自由にある。
その自由は、エネルギーの円運動となっている。
全てが巡る動きの変化が刺激となって存在している。その刺激に反応し現象となってくる。
だから、この世界は受の世界となっている。
反応するしないは自由である。だから、なぜ?というのの答えは自由だから。
たとえば、私の好き嫌いは自由という理由である。なぜそれが好きで、あるいは嫌いなのかは
その人の自由意識による。ほかに理由などない。自由が理由である。この自由という意味を理解できなければ、
真に答えは得られない。疑問ばかりに終始する。
自由がエネルギーの性質であるために、この自由は道理にして、いかなる力でも動かすことはできない。
核の力でも及ばない。存在のそのものが、どのようにして刺激を受けたかに由って初めて変化する。
全てが「受」の世界となっての存在である。だから、個々によって違いが出てくる。
同じことを見聞きしても、まったく同じとして受け取られることはない。
似てはいても非なることとしてある。どのようにこのことを理解するかは自由。
ただ、統一できるのは、エネルギーの法則が、存在としている自由が、
善悪などない存在であることを理解して、そのことをどのように受け止められたかによって、
現象世界が変わってくる。円運動は巡るという正義だけである。
存在の正しい義(いみ)があるための現象世界である。
エネルギーの法則は、善悪のない法則であることを、どのように解釈するかで違ってくる。
人の意識にある善悪は、その人の自由にあるために、悪人と善人が存在してしまう。
どちらも正義であるために存在し、方や楽が現れ、方や苦が現れる。
天国と地獄である。それが、自身の受け方で行き来する。
苦しみの世界に喘ぐのは、善悪を意識するからである。法則には善悪は無い。
だから、人の意識にある善悪を捨て去って、法則の「無い」を意識することである。
何もないことが幸せであると、日常として存在となっている。
天国に起伏はなく、ただ平。
人の常識は非常識でもある。
自身の意識を改めよう!