つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

三が示す選択の自由、今という曖昧

2016-07-01 | Weblog
人間社会というもの、
矛盾だらけである。
それでも、答えというのを見出して、
納得する人はいるものだ。

世の中は、対等にしてあるもので、
どちらが正しいか、正しくないかということではない。
どちらも理に適って存在する世界である。
それが、現時点で存在としてあるものではなく、
かと言って無いものでもない。
それは、絶え間ない流動である為に、
今という瞬間を捉えどころがないのである。
始まりが終わりであるように、終わりが始まりであるように、
どちらでもあるものなのである。
今は過去を含むと同時に未来を含む。それを今として、
過去と未来を分け繋いでいるものである
曖昧という言葉が似合いそうだが、曖昧にしてあるわけではない。

対極にして巴となっているが、三つ巴でもある。
そこが、矛盾という対等を打ち破る事でもある。
見える事物は相対してあるが、見えない物事は
曖昧が関与する。

二度あることは三度ある。仏の顔も三度まで。三度目の正直。
再三にわたって・・・。

さて、三という数字を見る人が、
矛盾という社会を抜け出すが、
一と二どちらを選ぶかは自由である。
常に選択して今という曖昧な時を駆けぬけているものである。
一と二、どちらも理に適ってある世界である。
今をもってどちらを正しいとするかは、自由という曖昧である。
常に選択しての人生という今である。
今を確定するのも今である。
その今は過去と未来。
コメント
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