つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

威厳ある者

2016-05-02 | Weblog
天の川銀河、
人間の住む太陽系が属している銀河である。
この一つの銀河をとっても、人知遙かに超える多くの星があり、そこに生命が存在している。
他の銀河団も同様である。
高度な進化を遂げている生物、
未だ進化間もない生物、有能、無能、低能とさまざまであるが、
姿形はどうであれ、高度の科学技術をもってこの宇宙間を探索している生命体もいる。
道理をよく心得てはいるが、宇宙は謎が多く、まるで意識があるように物事が存在している。
道徳をおおむね理解するが、ただ浄化という円運動の自由にある為に、善悪なくして絶対善である理法を顚倒してしまえば、
悪が絶対善となって廻る世界である。
それは、有識、無識に関わらずに、意図的にというものはなく、ただ自由という刺激に対しての反応であるのだが、
私達が、それらについて「なぜ?」と思うように、意思があっての問いのように思う。
だから、主観である個人が、あると思えばある姿となって様々が問いかけられてきて、
ないと思えば無い姿となって問いかけられてくる。無というのは、すべて自分が‘いる’、‘ある’というための
在り方から成っている。もはや、存在の形をとっている自分には、
無という抽象的な存在はないものと思われる。
無というのは個人にとって不可思議なものなのである。すべてが有の存在として思うことで、
道は開かれてゆく。そこで、何事もあきらめずにやり通すことで、
無から有が生まれてくるという言い方ができる。それは、ただ、意識との葛藤に他ならない。
でも、問題にはすでに正しい答えが示されていて、その都度凌ぎ合う、相対するものとの戦いにあるもので、
‘有’するというものの中にいる自分であるために、投げやりにならないで一途に突き進むことで、答えは、
喜びというかたちで現れる。そこに善悪というのはない。
これは必然なのであるが、そこまでの途上、大まか絶望に屈するものである。
‘有’するものの存在であるために、必然‘ある’となる事柄であると信じることである。
不可能というのは、その時の条件がまだ満たされてないに過ぎないことなのである。
自分の魂が、まだその時間線上を自由に航行できていないというだけなのである。
そのためには、心つまり、魂を磨くという一言に尽きるのである。
魂には時空は存在しない。時空存在として認め隔たりを感じるのは、魂の進化が未だ完成度に無く、
自由気ままにいかないからである。眠った時に見る夢を思いなさい。
時間空間が無く瞬時場面が変化するはずである。夢を見ているという感覚も無く、
飽きるということも思わないはずである。
心を何かに囚われないで、自由であるエネルギーの本来の在り方を注視することである。
忘れてはならないことである。

エネルギーの法則に善悪は無い。一旦ゼロに帰すという‘きれい’になる、というに過ぎない。それを浄化という。
どう繋がっていくかは心次第、心の自由である。法が自由であるからである。
善悪が顚倒していればどうなっていくかは知っての通り、道理の知るところである。
だから、
人の生きる意味は、心をみがくということである。
みがかれたものは綺麗である。綺麗にして綺麗な道理が見えてくるもので、これが正しい浄化の法である。
般若心経というのは、大衆の心をみがくための経典である。だから、摩訶般若波羅蜜多心経といい、
高度に進んだ文明を持つ生命体からの訓えである。
瞳はブルーにして、髪の色もブルーである。肌は白く背はとても高い。
そして、黄金の輝きを放つものである。
威厳ある者である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする