つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

あっちもこっちも偽、疑、擬

2016-05-29 | Weblog
昭和4,50年頃は高度成長期にあり、働いてさえいれば飯は食えたものだ。
豊かな時代になってこの現代、日本は経済大国になってはいるが、
反面貧困層も増えて、
働いていても飯が食えない人たちが大いに増えだした。
東京都民の生活保護者より
巷で働いている人の生活レベルが低くなっている。
働いているのに生活が成り立たない社会になってきているのである。
労働の割には賃金が安い為である。
働いていても生活が苦しくなる一方とはこれ如何にである。
もらえる年金では満足に生活はできず、税金は上がる一方で、
大の大人が懸命に働いていても、賃金はその上昇に見合わないほど微々たるものであるのが大半である。
病院には縁が無いほど健康に気を使っていて、社会の医療費に貢献していても、取られる健康保険料は
賃金に見合わず高いと思う。安い給料では、ひどく痛いものである。
かと言って、健康保険が無ければ、病にかかった時、それこそ高額高額な医療費が請求される。
年老いれば老いるほど病にかかる率は高くなるのに、
収入の無い老人でも保険料はとられ、しかも病院にかかれば一割二割、或は三割、医療費は負担を強いられる。
当たり前なんだよそれはと言われても、どうも腑に落ちないものである。
所謂、、戦力(働けない)にならないただ消費だけにある者は、
金が無かったら早く死んでくださいと言われているようなものだと思う。
裕福にある人は、貧困というものを頭では理解していても、
真に理解はしていない。自業自得にしてあるものとしか思っていない。
そのために、実に他人事なのである。
だから、働いているものが生活保護者よりも低レベルの賃金で暮らしているのなら、
生活保護者の生活レベルを下げて、辻褄を合わそうとする。
おかしなものである。生活保護はそれだけのお金がなければ暮らせないとして試算された額であるにもかかわらず、
それを下げるのだから、甚だ非情である。
労働者の賃金を生活できるレベルまで引き上げるのが本来であるのに、弱者を苛めるのが経済大国である。
弱者は、死ねとあからさまに言っているようなものである。
ほんの少し前までは、日本は人情味があったものだ。仕事を探して面接に行っても、
仕事が無いのだから大変だと言って、面接に来た人に足代くらいはだしてくれたものである。
今の世、皆無に近い。
今では、豊かになっている社会なのに、経営者の資質、人格の無いものがなっているために、
企業は人なりということを知ってか知らずか、人をただの道具として扱う企業が多くなっている。
使い捨てである。だから、ブラック企業などという悪名まで流行り、それがまた、経営者たるものが、
国会議員までやっているものまでいる。そういうことを是正する立場にあるものがしているのでは何とも世も末と思うものだ。
金が貯まればたまるほど欲しがるものだとはよく言ったものである。灰皿と金はたまればたまるほど汚くなると、
よく人の心理をついている。
まさに浅ましい限りである。
税金で仕事をしている人達が、私利私欲に使ったのでは、多くの民、企業が税金逃れに走るのも
分かる気はするものである。

頭がいいのに、お金が無い為に進学できないという。
奨学制度があっても、日本では後返さなければならない。それが返せない人が増えているという。
何を意味しているのか、裕福にある人は知っているのであろうか。まさに自業自得としか思ってないのだろう。
お金が無い為に勉学ができないということは、国としての損質であるはず。
それだけ優秀な人材がありながら活かせないのだから。東大進学率も、親の資産によっていると数字に出ている。
金があればよい教育を受けられるからである。
教育費に金がかかるのでは、進歩は牛歩の歩みである。
経済大国は、格差をはっきりさせるためにあるのではない。
格差が広まれば、根本からすべてが崩れてしまうことを知るべきである。
だって、皆繋がって生きているのであるから。
裕福の土台までが、足元から崩れかけていくのである。
他人事ではない。各自に繋がっていることである。
人は、
助け合いで生きられているものであるのだから。

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全知全能を司るもの、自由

2016-05-29 | Weblog
エネルギーの法則が繰り返しの法則である為に、
始まりは終わりとなって、終わりは始まりとなっている。
その様にして進んではいくが、進むことは退くことに繋がっているために、
常に元の状態に戻るものとなっている。
だから、歴史は繰り返す。
人の命も生死を繰り返す。
生命は皆生死を繰り返すものとなっている。
その期間という長さはそれぞれの性質でもって長短となっているが、
必ず元の状態に戻るものとなっている。
それがゼロの状態である。シュウーニャと言われている。
中がうつろで膨らんでいるという容である。
そのエネルギー、
人知計り知れない速さで廻っているが、まるで静止しているかのようである。
真円となっているためである。
それがエネルギーの容、ゼロの状態という容である。自由でもって成り立っている。
陽炎の様にゆらゆら揺らいで見えるも、幻の如くの様である。
それは、私が、これといって私であると認識できるものが何一つなく、
幾つもの微細なものが寄り集まって構成されて、とりあえず私という物体を作り上げているのと同じである。
そして、儚くもという様にあり、無常の常住として成り立っているものである。
何もかも、エネルギーの自由においてである。
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