唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 煩悩の心所 (21) 根本煩悩の体と業について (19) 悪見の心所

2014-05-19 21:18:22 | 心の構造について

 薩伽耶見の種類について

 「此の見の差別なること、二十句と六十五との等(ゴト)き有り、分別起に摂む。」(『第六』・十四左)

 この薩伽耶見の種類は、二十句と六十五等が有る。これらはすべて分別起の煩悩である。10256806_431686416968061_5130052853

  •  二十句薩伽耶見 - 自己は存在するとみる二十種の見解。五蘊に対する二十種の見解を云う。五×四=二十。四とは、色についてみますと、
    (ⅰ) 色は我である    - 我見
    (ⅱ) 我には色がある。
    (ⅲ) 色は我に属する。  } 我所見
    (ⅳ) 我は色の中にある。
    これが他の四蘊についても当てはまりますので、総じて、二十句薩伽耶見と云われています。

 色・受・想・行・識は我であるというのが我見になり、他の十五が我所見になります。
 『述記』には、「謂く、色は是れ我、我は色有り、色は我に属す。我は色の中に在りと計するが如し。一蘊に四有り、五蘊に二十句なり。即ち二十句の中に五は是れ我見なり。十五は是れ我所見なり。」と説明しています。

  •  六十五見 - 「謂く、色(蘊)を以て我と為すとき、余の四蘊に於て各々三所有るが如し。謂く、是れ我の瓔珞(ヨウラク)と我の僮僕(ドウボク。しもべ・使用人)と我の器となり。即ち十二有り。色を一の我と為り、即ち十三なり。是の如く五蘊に六十の我所と五の我見有るなり。」

 我見と、我の三種×四蘊=十三(一蘊に十三有る)×五蘊=六十五。五の我見と六十の我所見になると説明しています。

 そして、これらが分別起か倶生起かとう問題がありますが、

 「此は皆行じて蘊を縁じることを分別し、亦所起の処を分別す。又此は是れ分別の所起なり。是れ倶生に非ず。」とし、二十句及び六十五見はすべて分別起の煩悩であるとされます。後天的な煩悩であるということですね。分別は、邪師・邪教・邪思惟の三縁を以て生起されるといいます。先天的な煩悩の他に、外からの影響を受けて起こってくるものなのです。ですから、分別起の煩悩は麤重であることから、見道に於て断じられます。見惑ということです。

 但し、薩伽耶見には、分別起のものと、倶生起のものも存在するのですね。これは後述されます。10305409_431686393634730_7571527127