唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 煩悩の心所 (18) 根本煩悩の体と業について (16) 悪見の心所

2014-05-14 22:27:25 | 心の構造について

 前回までに、「疑」の心所について述べてきました。今回より、悪見の心所について説明してまいります。

 「云何なるか悪見と云う。諸の諦理の於(ウエ)に顚倒(テンドウ)に推度(スイタク)する染(ゼン)の慧を以て性と為し、能く善の見を障え苦を招くを以て業と為す。」(『論』第六・十四右)

 どのようなものが悪見の心所で有るのか。
 (答) 諸の諦と理に於いて、顚倒して推度する染の慧を以て、性と為し、能く善の見を障碍し、苦を招くをもって業と為す心所である。
 

 2010年1月19日の投稿より。

 「疑」は縁起の理に対して「本当かな」と躊躇し疑う心でした。その疑う心をもって真理を見ますと間違った見方が出てきます。正しい見解を障碍すのですね。これを「悪見」とよんでいます。正しくない見解は苦を招くはたらきであるといわれて、生死に執着し生死に翻弄されるのです。これによって生死輪廻するといわれています。「九十五種世を穢す」とはこの悪見のことですね。九十五種は仏道の内観の道に対して外なる道のことです。環境を変えることに於いて満足を得ようとする道を総称して九十五種の外道というのです。仏陀在世当時には六師外道ともいいました。(無道徳論・唯物論・運命論・快楽主義・懐疑論・相対的価値観)

 

 「諸の諦と理とに於いて顛倒に推度(すいたく)する染の慧を以って性と為し。能く善の見を障へて苦を招くを以って業と為す」と。

 

 諸の真理と道理においてさかさまに見ていく穢れた智慧を本質として、苦を招くのである、と。穢れた智慧というのが悪見です。五つの見解が述べられています。(1)薩迦耶見(さつがやけん)(2)辺執見(へんじつけん)(3)邪見(じゃけん)(4)見取見(けんしゅけん)(5)戒禁取見(かいこんじゅけん)というものですが、親鸞聖人は悪見を邪見で見ておられます。因果否定論ですね。無我・無常の理を否定する立場です。「縁起を見るものは法を見、法を見るものは縁起を見る」という真理を否定し、顛倒の見解に依って苦を招いてきてしまうのです。「邪見憍慢の悪衆生」といわれています。この悪衆生は「信楽受持すること、はなはだもって難し。」といわれるのです。

 

 『涅槃経』に言わく、世尊常に説きたまわく、「一切の外は九十五種を学びて、みな悪道に趣く」と。 已上 (法事讃) 光明師の云わく、九十五種みな世を汚す、ただ仏の一道、独り清閑なり、と。」(真聖P251)

 悪見はですね。自己中心に見ていく見解なのです。我と我が所有物であるという執着や断見・常見という執着、関係的存在であることの否定、自分の見方が最勝であるという見解、最後は自分の行っている戒律が最高のものであるという思い込みですね。以上が根本煩悩といわれるものです。このように煩悩は自分が一番正しいと執着を起こして苦を自分で招いてくるのです。苦の因を他に求めながら実は自分の中から起こしているのですね。よく見つめなければならないと思います。

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 煩悩の最後に語られる心所が、悪見の心所になります。悪見の悪は、『述記』によりますと、善と悪とを比べての悪ではなく、ただ不善である、と。そして悪とは、毀責(キセキ。そしりせめること)であり、有覆無記に通ずる。悪見を開いて五見とすれば、「毀訾」(キヨ。そしりとほまれ)という意味になると述べています。間違っているという意味ですね。悪見は間違った見解で、総じては悪見であり、開くと五見になります。

 「諸の諦と理」とは、諦とは事実を表し、理とは道理、ことわりのこと。四諦のことわりです。それに対して、「顚倒して推度する」のが悪見である、と。推度は思考することですから、さかさまの見解、道理に背いて考えていることを「見」で押さえています。

 諸の諦と理の於に顚倒して推度するのは、即ち唯だ道理に迷うのみである。縁に親所縁縁・疎所縁縁あるといっても、理に迷うのが悪見といわれているのです。

 そして、悪見の性は染の慧、即ち不正見(まことの道理をしらざる心なり)であり、正見に対するわけです。染の慧を性とすることが五見に通じ、そして悪見そのものが、苦を招来してくるのですね。