論主(護法)の答え
「若し爾らば真如も是れ仮有なるべし。許さば則便(スナワ)ち真勝義諦(シンショウギタイ)無くなんぬ。」
もし、安慧さんのいうように種子が一異に非ずということで仮有というならば、真如と諸法とは一に非ず異に非ずとされますから、真如もまた仮有というべきである。このことを、認めてしまうならば(真如を仮有とすれば)真勝義諦が否定され、無くなってしまうであろう。
四に、二諦分別を説く。
「然も諸の種子は、唯世俗に依ってのみ説いて実有と為す。真如には同じからず。」
前提として、問いが出されます。「種子は実有であると説かれましたが、その実有とは、世俗諦で説かれるのか、或は勝義諦で説かれる実有なのか」、という問いですね。
答えは、「唯世俗に依ってのみ説いて実有と為す。」ということを明らかにしています。
ここは、種子の実体化を否定し、実体化を批判されている所になります。勝義諦でいうと、法そのものの真実は、言説の及ばない空性、離言の法になりますから、名言をもって真実を顕わされているのですね。
真実を表わすのに、真実そのものは離言の法ですから、離言の法を、迷いの言葉を以て迷いを超える方便として説く、ということなのでしょう、それを「世俗によって説く」といいあらわされているのだと思います。
方便というと、善巧方便ですね、実体化を破る為に仮に説かれているのですが、ここに執するとですね、種子は有るんだということになってしまいます。種子は実体としてあるわけではないのですね。働きとして有る。現行している今を成り立たしめているのは種子であるということです。こういう意味で、私の生命は、過去を背負って生きている。過去を背負って生きているという意味では種子は実有であるといっているのでしょう。
真実そのものは勝義諦で、実有なんですね。真如は仮にあるということではなく、私たちが知る・知らないということに関わらず有るということです。そういう真如のはたらきの中に私たちは生かされているということなのですね。真如の中に生かされているという自覚が、あらゆる執着・実体化を破る縁となるのでしょう。
種子は縁起の法。真如は離言の法。ものがらが違うと云うことになり「真如には同じからず」と述べているのですね。
次が四分分別が説かれます。ここは非常に大事な箇所ないなります。
四分とは、相分・見分・自証分・証自証分をいいますが、私たちがものを見る、知るという認識の構造を四分を以て捉えている教えです。造論の主旨のところでは、「自体転じて二分に似る」と説かれていました。そこを思い出していただければいいと思いますが、自体と相分と見分が有って認識が成り立っているということではありません。相分・見分の用以外に体は無いということなのです。相分は対象で境・所縁です。この境を認識するのが見分で能縁になります。三分でいいますと、自体分が能変、転じた相・見二分が所変になります。即ち、識が起こると、転じて所縁に似る相分と、能縁に似る見分とになり、見分が相分を縁じるという構造で認識が成り立っているといわれています。
さらに、識体が自証分になりますが、三分の中で、所変である能縁の見分を縁ずるのが自証分なのです。さらに、自証分を証するのが証自証分なのですね。証自証分は自証分を縁じ、証自証分を証するのが自証分であるという構造です。
この科段で問われていることは、種子は四分の中で、四分の中のいずれに当るのかを問題にされているのです。
(つづく)