教証(証拠の文献を引く)
「決択分(ケッチャクブン)に、十の善の心所は、定と不定との地にて皆善心に遍せり、定地の心の中には軽安を増すと説けるが故に。」(『論』第六・十一右)
決択分 - 『瑜伽論』巻第六十九・摂決択分。「善心に遍じて起こるものに復十種あり、謂く慚・愧・無貪・無瞋・無癡・信・精進・不放逸・不害・捨なり。是の如き十法は若しは定地、若しは不定地の善心に皆有り。定地の心中に更に軽安、不放逸等を増す、・・・」(大正30・684a)
『瑜伽論』巻第六十九・摂決択分に、「十の善の心所は、定地と不定地において、すべて善心に遍在する、また定地の心の中では軽安が増す」と説かれているからである。
これを以て、護法の説が正義であるとする証拠の文献になります。
「論。決擇分説至増輕安故 述曰。下引證。六十九末説十善心所定地・不定地皆遍善心。定地之中増輕安故。十恒遍善。有時増十一 問此言定地増輕安。何者是定地。」
(「述して曰く。下は証を引く。六十九末に、十の善の心所は定地と不定地に皆善心に遍す、定地の中には軽安を増すと説く。故に十は恒に善に遍す。有る時には増して十一あり。
問。此は、定地に軽安を増すと言う。何者が是れ定地なりや。」
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問いをうけて、軽安についての異説を批判し、正義を述べる。
第一義
「有義は、定の加行(ケギョウ)も亦定地という名を得、彼も亦微(スコ)しく調暢(ジョウチョウ)なる義有るが故に。斯に由って欲界にも亦軽安有り、爾(シカ)らずんば便(スナワ)ち本地分(ホンジブン)に、信等の十一は一切地(イッサイジ)に通ずと説けるに違(イ)しなむ。」(『論』第六・十一左)
問いをうけて二つの解釈をあげていますが、問の内容から、「定地に軽安を増す」ということの背景には、不定地であっても軽安は存在するという解釈が成り立ちます。しかし、護法は前科段に於て不定地には軽安は存在せず、定地には軽安が増すと説いていました。では定地とは何を指していわれているのかという問いが出てきます。これに対して二説あるというのです。
第一師の主張は、「欲界にも軽安は存在する」、心が散漫であっても軽安は存在すると解釈しています。
(第一師は、定の加行(欲界の聞・思の時の修行。定の前の修行のこと)もまた定地という名を得ることができる。定の加行もまた微妙ではあるが少し調暢ということがあるからである。このような理由から、欲界にも軽安は存在するというべきである。そうでなければ、すなわち『瑜伽論』本地分・第三巻に「信等の十一は一切地に通ずる」と説かれていることに違背することになる。)
- 一切地 - 三界九地を有尋有伺地(ウジンウシジ・欲界と色界の初静慮、初禅ともいう)と無尋有伺地(色界初静慮の大梵天)と無尋無伺地(色界第二静慮乃至無色界)の三地に分類して一切三地何れにも存在することをいう)
『瑜伽論』本地分・第三巻の記述は、「(信等の十一の善の心所は)一切地に通じる」と説かれているのは、三界九地には必ず十一の善の心所は存在し、軽安もまた欲界にも存在するということである、というのが第一師の主張です。
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(追記)
「善」について
「能く此世・他世に順益するに為(おい)て、故(かれ)名づけて善と為す。人天の楽果は、此の世には能く順益を為すと雖も、他世に於いてするに非ず。故に善と名づけず。」(『論』)善の定義が示されていますが、此の世の楽果だけを求めるのではなくニ世に亘って順益(利益=安楽)をもたらすものを善というのですね。『述記』をみてみますと「此れと(現在)他(過去・未来)とのニ世を順じ益せしむるを、方に名づけて善と為す。謂く有漏の善は前世(過去。現在に対す)にも益し、今世(現在・未来に対す)にも益し、後世にも益し、倶に楽果を得、人・天の仰ぐ所なり。無漏の有為・無為も亦爾なり。」と。即ち有漏(煩悩をもつもの)の善は三世にわたって、有情を利益し、楽果を得させるといい、また、同様に無漏の有為・無為の善も亦有情を利益し、楽果を得させるといいます。無漏有為の善は悟りの智慧です。無漏智のことで煩悩に汚されていない智慧のことです。因縁によって生起するのが有為ですが、その有為が無漏であることの善ですね、それと無為無漏の善、すなわち生滅変化せず煩悩の汚れのないこと(真如・涅槃)の善は、有情をして生死を超える智慧をもたらすものなのです。ここで大切なことは有漏の善、煩悩にまみれて行う善行もまた善に入ると云われていることです。煩悩にまみれてはいても、小さな、些細な善も大切にしていかなければばらないと思います。そうだからこそ「雑毒の善・虚仮の行」という慚愧も生まれてくるのでしょう。無漏の善が有漏の善になっていく第七末那識の働きを見つめる眼差しがありますね。「此世と他世とに生・死に違越せり。得あり、証あり、及び涅槃に由ってニ世の益を獲。」と説明されています。生死を超えさせる得が有り(無漏智は得るもの)、涅槃は証するもので有り、その涅槃に由って此世(現世)と他世(当来世)のニ世の利益を獲て、もはや悪趣に生まれることはない。
「人・天の楽果は唯一世のみを順益してニ世に非ざるが故に、名づけて善と為さず。是れ無記の果法なり。故に体是れ善に非ず。後世の中に於いて衰損を作すが故に。」(『論』)
ここに何故このようなことを論じるのかというと、順益を以って善というのであれば、人・天の楽果も亦現に順益するから善と名づけなけらばならない。此の疑問に答える為に「人・天の楽果」は善とは名づけないというのです。六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)の中にあってですね、人・天に生をうけたこと自体が楽果なのですね。「それ、一切衆生、三悪道をのがれて、人間に生るる事、大きなるよろこびなり」(『横川法語』真聖p961)といわれますね。人として生を享け共に生を享受することができることは人間だからでしょう。しかし私たちは生をうけた途端に忘れているのです。「我は善し、他は悪し」の論理をもって自己肯定し、苦にさいなまれているのですね。無色界の最上界である非想非非想処であっても無限ではなく有限の楽なのですから、迷いを払拭することはできません。楽果としての人・天は後世に楽をもたらすとはいえないのです。「無記の果法」といわれています。人・天の果法は無記であるということです。果として人として生をうけたということですね。ここは大切なことを教えています。生まれたこと自体は無記だということです。厳密には無覆無記です。人は生まれながらにして無覆無記なのですね。人だけではありません、六道の異生すべてが無覆無記の存在なのです。差別し差別される所以はないのです。善因の果は善ではなく楽という果を感得されるのですし、悪因の果は悪ではなく苦という果を感得するのです。善を作しても永遠ではなく、悪を作しても永遠ではない輪廻の主体なのですから、ニ世にわたって利益をもたらすものではないといわれるのです。
「能く此世・他世に違損するに為(をい)て故(かれ)不善となづく。悪趣の苦果は此世には能く違損を為すと雖も他世に於いてするに非ず。故に不善と名づく。」(『論』)
これは「無記の苦果」といわれています。「身をして苦しましむが故に」と。私たちの善悪業の行為の結果がいずれにせよ、その業果は深層の阿頼耶識に種子として薫習されるわけですね。しかし阿頼耶識に蓄積された種子は無覆無記なのです。善悪業の増上縁(間接原因)をともなって現行するのですが、現行した阿頼耶識は何ものにも覆われていない無覆無記の存在なのです。こういうところに私たちは何か大きな過ちを犯していると思はざるを得ないのです。今の世間は不況に喘いでいますし、環境の変化も苦脳をもたらすのですが真実はどのなのでしょうか。私は「思いの執着」が真実を覆い隠しているのではないかと思っているのです。「因是善悪果是無記」(因は善か悪であるが果は無記である)ということの「因」は阿頼耶識を現行させる縁(増上縁)を仮に因といわれているのです。厳密に言えば「善因無記果・悪因無記果」ということになります。このような因果関係のことを異熟因・異熟果という。
違損(いそん)は傷つけ苦をもたらすもの。不善は此の世と他の世を、違損することから、不善と名づける。しかし、悪趣の苦果は、此の世に於いては傷つけ苦をもたらすものではあるけれども、、他の世に対しては、傷つけ苦をもたらすものではない。よって悪趣の苦果自体は不善ではない、と教えています。現世・来世にわたって不利益をもたらすものを不善(悪)というのです。不利益とは苦をもたらす行為ですね。悪趣の苦果は異熟果として現行していることですが、そのこと自体は他世において苦果をもたらすことではないことから不善ではないと教えられています。
「善と不善との、益し損する義の中に於いて、記別(きべつ ・来世についての仏の予言を一つ一つ分別して予言するので「別」の字を加える。)す可からざるを、故(かれ)無記と名づく。」(『論』)
善と不善というように、順益したり、あるいは違損したりすることの意味の中に於いて、順益や違損とは記別できないものを無記という。善でもなく、悪でもない性「人・天の楽果」とありました。人として生を受けたという事は今一度涅槃に向かう人生を送りなさいと云う機会を与えられたという事なのですね。それと人・天の界は苦界なのです。「今一度」というのはその意味になります。人として生を受けたということは悪業の結果なのです。地獄・餓鬼・畜生の在り方を三悪趣といい、人・天を加えて五悪趣といいます。修羅をくわえて六道といわれますね。人として生を受けたという事は楽果でもあり、また悪趣の苦果でもあるわけです。ここに願いが隠されているのです。悪趣の果報をニ度と受ける事のない生き方が、人間として求められていることになるのです。これが善の在り方になります。「得あり・証あり・涅槃に由ってニ世の益を獲」る在り方が生まれてきます。ここをはき違えてしまいますと造悪無碍という異端が生まれてくるのですね。いわゆる「本願ぼこり」です。
「弥陀の本願不思議におわしませばとて、悪をおそれざるは、また、本願ぼこりとて、往生かなうべからずということ。この条、本願をうたがう、善悪の宿業をこころえざるなり」(『歎異抄』十三条 真聖p633)
此処に見え隠れすることは自己中心の傲慢性です。「本願を信じて助けられるのだから何をしてもかまわない」という詭弁であり、傲慢性です。唯識によって教えられることは私の深層の阿頼耶識から自己中心の末那識が生み出され、その末那識が阿頼耶識を対象として自己を汚していくという循環性が教えられているのですね。「依彼転縁彼」(彼に依って転じて彼を縁ず)と端的に述べられていますが、私の中に潜んでいるエゴイズムは外から入ってきたのではなく内的な、自己の中から出てくるのだと教えているわけです。ここをきっちりと押さえて聞法する姿勢が大切であると思います。
六識が善である場合について
「此の六転識は、若し信等の十一と相応するをば、是れ善性に摂む。」(『論』)
六識が「信・慚・愧・無貪・無瞋・無癡・勤・軽安・不放逸・行捨・不害」の善の十一の心所と相応すれば六識は善性になるということになります。六識は先にも述べました通り、三性いずれの性にもなり得るのですが、では、どのような構造をもって善となり、不善となり、無記となるのでしょうか。その問いに対して答えているのがこの所になります。善の十一の心所は唯善なのです。ですからこの善の心所と共に働きますと六識は善性を保つことになるのです。
『述記』には「善性に摂む」ことについて、厳密に述べられています。「此れが中に未だ必要(かならず)しも十一の法と倶ならず。不定の地の如きは唯十の法とのみ倶なるが故に。」何を云わんとしているのかは「不定の地とありますから、定地(禅定の境地)に於いては十一の善の心所と相応するけれども、不定地は、軽安を除いた十の善の心所と相応するのであるといわれています。(軽安の項参照)軽安は禅定の境地に於いてのみ得られるものであるから、不定地(三界の中の欲界)においては十の心所と共に働くと釈されています。
六識が不善(悪)である場合について
「無慚等の十の法と相応するをば、不善性に摂む。」(『論』)
「義をもって準ずるに、不善と善に返して亦しかなり。必ずしも十法と倶なるものには非ず。故に聚に望めて論を為す。不善の中の十は唯不善なるが故に。謂く瞋と及び忿等(等は恨・覆・悩・害・嫉・慳をいう)の七と諂・悔・憍を除いて無慚愧を取る。故に十を成すなり。」(『述記』)
無慚等の十の法、十の心所は不善の心所ですね。そして六識がこの心所と相応するときは不善(悪)となるのです。不善の心所として十の心所が数えられるのです。瞋と忿・恨・覆・悩・害・嫉・慳との七と諂・悔・憍を除いて無慚・無愧の十です。不善と有覆無記に通じる心所は除かれているのです。
「倶に相応せざるをば、無記性に摂む。」(『論』)
善でもなく、不善でもない心所と六識が相応しない時には、六識は無記性となるということです。善・不善・無記という三性分別は何故起こるのかということについて、思の心所が大きく関わっているといわれています。思とは意思のことです。意思決定ということが三性に大きく関わるわけです。善の行為か悪の行為などを行わせる心の働きです。
「思は心に正因等の相を取って、善等を造作せしむ。心が起こる位に此の随一無きことは無し。故に必ず思有り。」(『論』)
思は善業の因等の相を取り、善等を造作させる。心が起こる時には、善等の中の一つは必ず有る。ですから心が起こる時には必ず思は有ると云われています。心が働く時には必ず働いている心所なのですね。ですから、思は遍行なのです。
「正因等」正因は善・邪因は悪・倶相違因は無記と云われます。因となる認識対象のことです。問題は六識の三性分別は六識と相応する心所、すなわち善の十一心所と相応することに依って善性となる場合、不善の十の心所と相応することに於いて悪性となる場合等があるわけです。心所の三性によって決定されるという部分と思の心所・意思決定によって六識の善・悪が決定される部分があるわけです。ここのところは十二分に検討されなければならないことだと思います。
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