唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 善の心所  第三の五 倶起分別門 (14) 護法正義 ④

2014-01-21 21:15:34 | 第三能変 善・ 第三の五 倶起分別門

 善の心所は一切地に有りということの、一切地の地は何を指しているのかを説明し、欲界には軽安は存在しないことを証明する。

 「一切地に十一有りと説けるは、有尋伺等(ウジンシトウ)の三地(サンジ)に通じて皆有るが故なり。」(『論』第六・十一左)

 「論。説一切地至三地皆有故 述曰。此等皆通有尋伺等三地。有何失也。初禪・中間・上地之定有輕安故。但諸心所無不皆然。然自於有尋伺等有長短也。然返覆文理。不言欲界有定得有輕安故。後師爲勝。此中餘義同故。更無異説。」(『述記』第六本下・四十三右。大正43・442c) 

 (「述して曰く。此れ等は皆な有尋伺等の三地に通じてあり。何の失有るなり。初禅(ショゼン)と中間(チュウゲン)と上地(ジョウチ)との定に軽安有るが故に。

  •  初禅 - 初静慮ともいう。色界の四つの静慮の最初。尋求(浅くおおまかに追及する心)と、伺察(深く細やかに追及する心)がある。
  •  中間 - 初静慮の根本定と第二静慮の近分定との中間にある禅定。無尋有伺地を指す。
  •  上地 - 第二禅以上。無尋無伺地を指す。
  •  有尋有伺地(ウジンウシジ) - 欲界と初禅の二つの地をいう。
  •  三地は、有尋有伺地・無尋有伺地・無尋無伺地を指す。

 但だ諸の心所は皆然らずと云うこと無し。然るに自ら有尋伺等に於て長短有るなり。然るに文理を返覆すること欲界に定有り、軽安有ることを得と言わざるが故に。後師を勝と為す。此の中余義同なるが故に、更に異説無し。」)

 「然るに自ら有尋伺等に於て長短有るなり」を『演秘』(第五本・三十右)は釈して、「三地に遍じて有るを之を名づけて長と為す、三地に有りと雖も、遍者(遍有)に非ざるが故に説いて短と為す。即ち軽安は初の尋伺地にして遍有にあらざるが故に名づけて短と為すが如し。」

 「後師を勝と為す」という義は、十一の善の心所は、一切地に遍ずと云われているが、この場合に二説あり、一つは三界九地を指し、二つには、有尋等の三地と為すという二解があるが、善の心所の中の軽安は、欲界に遍ぜないから、後説である有尋等の三地を以て勝と為す、ということになります。

 意味としては、『瑜伽論』巻第三に述べられている一切地の地とは、三界九地の地ではなく、有尋有伺地・無尋有伺地・無尋無伺地の三地の地を指すと述べているのである、と。この場合、有尋有伺地は、欲界のすべてと、色界初禅を指す為に、色界初禅は定地になる為に、有尋有伺地に含まれる欲界にも軽安は存在しえるといえるので、『瑜伽論』巻第三の記述の「一切地に存在する」と述べられているのと、護法が主張する、軽安は定にのみ存在し、欲界には軽安は存在しないというのは矛盾しないとといえるのである、と。


第三能変 善の心所  第三の五 倶起分別門 (13) 護法正義 ③

2014-01-20 22:14:58 | 第三能変 善・ 第三の五 倶起分別門

  第一師の主張に対する『述記』の釈は下記の通りです。欲界でも、定の前の加行として聞・思の時をいい、坐禅などを修めることを定におさめて定地という、と。

 「論。有義定加行至通一切地 述曰。上來是總。下子段異説解疑。如聞・思位修定之時。未得上定。定前近加行。亦名定地。此時微有調暢義故。除遠加行餘散善位。今坐禪者。雖不得定亦有調暢故。即是欲界亦有輕安。若欲無者。便違本地分第三卷説信等十一法通一切地。若言從多地説言通。一切非實通者。應從多分説彼倶起。十恒倶故。既不許爾。故知欲界亦有輕安。其五十六・六十三卷・顯揚第六皆云不定地者。謂無輕安地。欲界者。謂除輕安倶定等。彼云謂若根本上界勝妙輕安無故。作如此説。非説無欲界輕安。如説無色界無色。彼非無定色故。」(『述記』第六本下・四十一左)

 (「述して曰く。上来は是れ総なり、下は子段(シダン)、異説を以て疑を解す。聞思の位の如く、定を修する時に未だ上定を得ざれども、定前の近加行(ゴンケギョウ)を以て亦た定地と名づく。此の時に微しく調暢の義あるが故に。遠加行(オンケギョウ)の余の散善の位を除く。今、坐禅する者は定を得ずと雖も、亦た調暢すること有るが故に。即ち是れ欲界にも亦た軽安有り。若し欲界に無しと云わば、便ち本地分の第三巻に、信等の十一の一切地に通ずと説くに違す。・・・・・・」)

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 第二師の釈、これが護法の解釈になり、正義とされます。

 第一師の解釈は誤りである(然らず)。

 「有義(護法正義)は、軽安(キョウアン)は唯だ定のみに有ること在り、定に滋養(ジヨウ)せらるるに由って調暢(ジョウチョウ)なること有るが故に。」(『論』第六・十一左) 

 護法正義は、軽安はただ定にのみ存在すると主張します。その理由は、定に養い育てられることに於て調暢ということがあるからである。

 「論に、欲界の諸の心心所は軽安を闕きたるに由って不定地と名づくと説けり。」(『論』第六・十一左)

 定にのみ、ということですから、欲界には軽安は存在しないということになります。第一師とは解釈の異なりがありますが、護法は、軽安という場合の定は、上界上地の定に限られ、欲界の斂心(レンシン)は実の定ではないという立場になります。
 斂心は、斂は「おさめる」、斂心は、欲界の禅定を指します。この斂心は上界の軽安を闕くといわれています。即ち、定地といわれる状態のものではなく、不定地である、というのが護法の解釈になります。

 ここで問題が発生します。『瑜伽論』に「軽安を含め、十一の善の心所は一切地に通ず」と説かれているのか、という問題です。

「論。有義輕安至名不定地 述曰。不然。輕安唯在上界定地中有。所以者何。由定滋潤所長養故。有調暢故。欲界斂心決非實定。故無滋潤名調暢也。何以得知。六十三等説欲界諸心・心所闕輕安故名不定地。不爾應言闕上界輕安故。名不定地 若爾如何説通一切地。」(『述記』第六本下・四十二左) 

 (「述して曰く。然らず。軽安は唯だ上界の定地の中のみに有ること在り。所以は何ん。定の滋潤(ジジュン)に長養(チョウヨウ)せらるるに由るが故に。調暢(ジョウチョウ)すること有るが故に。欲界の斂心(レンシン)は決して実の定に非ず。故に滋潤(ジジュン)するを以て調暢と名づくること無し。何を以て知ることを得るとならば、六十三等に、欲界の諸の心心所は軽安を闕くが故に、不定地と名づくと説く。爾らずんば、上界の軽安を闕くが故に、不定地と名づくと言うべし。
 若し爾らば、如何ぞ一切地に通ずと説くや。」)


第三能変 善の心所  第三の五 倶起分別門 (12) 護法正義 ②

2014-01-19 19:38:37 | 第三能変 善・ 第三の五 倶起分別門

 教証(証拠の文献を引く)

 「決択分(ケッチャクブン)に、十の善の心所は、定と不定との地にて皆善心に遍せり、定地の心の中には軽安を増すと説けるが故に。」(『論』第六・十一右)

 決択分 - 『瑜伽論』巻第六十九・摂決択分。「善心に遍じて起こるものに復十種あり、謂く慚・愧・無貪・無瞋・無癡・信・精進・不放逸・不害・捨なり。是の如き十法は若しは定地、若しは不定地の善心に皆有り。定地の心中に更に軽安、不放逸等を増す、・・・」(大正30・684a)

 『瑜伽論』巻第六十九・摂決択分に、「十の善の心所は、定地と不定地において、すべて善心に遍在する、また定地の心の中では軽安が増す」と説かれているからである。

 これを以て、護法の説が正義であるとする証拠の文献になります。

 「論。決擇分説至増輕安故 述曰。下引證。六十九末説十善心所定地・不定地皆遍善心。定地之中増輕安故。十恒遍善。有時増十一 問此言定地増輕安。何者是定地。」

 (「述して曰く。下は証を引く。六十九末に、十の善の心所は定地と不定地に皆善心に遍す、定地の中には軽安を増すと説く。故に十は恒に善に遍す。有る時には増して十一あり。
 問。此は、定地に軽安を増すと言う。何者が是れ定地なりや。」

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 問いをうけて、軽安についての異説を批判し、正義を述べる。

 第一義

 「有義は、定の加行(ケギョウ)も亦定地という名を得、彼も亦微(スコ)しく調暢(ジョウチョウ)なる義有るが故に。斯に由って欲界にも亦軽安有り、爾(シカ)らずんば便(スナワ)ち本地分(ホンジブン)に、信等の十一は一切地(イッサイジ)に通ずと説けるに違(イ)しなむ。」(『論』第六・十一左)

 問いをうけて二つの解釈をあげていますが、問の内容から、「定地に軽安を増す」ということの背景には、不定地であっても軽安は存在するという解釈が成り立ちます。しかし、護法は前科段に於て不定地には軽安は存在せず、定地には軽安が増すと説いていました。では定地とは何を指していわれているのかという問いが出てきます。これに対して二説あるというのです。

 第一師の主張は、「欲界にも軽安は存在する」、心が散漫であっても軽安は存在すると解釈しています。

 (第一師は、定の加行(欲界の聞・思の時の修行。定の前の修行のこと)もまた定地という名を得ることができる。定の加行もまた微妙ではあるが少し調暢ということがあるからである。このような理由から、欲界にも軽安は存在するというべきである。そうでなければ、すなわち『瑜伽論』本地分・第三巻に「信等の十一は一切地に通ずる」と説かれていることに違背することになる。)

  •  一切地 - 三界九地を有尋有伺地(ウジンウシジ・欲界と色界の初静慮、初禅ともいう)と無尋有伺地(色界初静慮の大梵天)と尋無伺地(色界第二静慮乃至無色界)の三地に分類して一切三地何れにも存在することをいう)

 『瑜伽論』本地分・第三巻の記述は、「(信等の十一の善の心所は)一切地に通じる」と説かれているのは、三界九地には必ず十一の善の心所は存在し、軽安もまた欲界にも存在するということである、というのが第一師の主張です。

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 (追記)

 「善」について 

 「能く此世・他世に順益するに為(おい)て、故(かれ)名づけて善と為す。人天の楽果は、此の世には能く順益を為すと雖も、他世に於いてするに非ず。故に善と名づけず。」(『論』)善の定義が示されていますが、此の世の楽果だけを求めるのではなくニ世に亘って順益(利益=安楽)をもたらすものを善というのですね。『述記』をみてみますと「此れと(現在)他(過去・未来)とのニ世を順じ益せしむるを、方に名づけて善と為す。謂く有漏の善は前世(過去。現在に対す)にも益し、今世(現在・未来に対す)にも益し、後世にも益し、倶に楽果を得、人・天の仰ぐ所なり。無漏の有為・無為も亦爾なり。」と。即ち有漏(煩悩をもつもの)の善は三世にわたって、有情を利益し、楽果を得させるといい、また、同様に無漏の有為・無為の善も亦有情を利益し、楽果を得させるといいます。無漏有為の善は悟りの智慧です。無漏智のことで煩悩に汚されていない智慧のことです。因縁によって生起するのが有為ですが、その有為が無漏であることの善ですね、それと無為無漏の善、すなわち生滅変化せず煩悩の汚れのないこと(真如・涅槃)の善は、有情をして生死を超える智慧をもたらすものなのです。ここで大切なことは有漏の善、煩悩にまみれて行う善行もまた善に入ると云われていることです。煩悩にまみれてはいても、小さな、些細な善も大切にしていかなければばらないと思います。そうだからこそ「雑毒の善・虚仮の行」という慚愧も生まれてくるのでしょう。無漏の善が有漏の善になっていく第七末那識の働きを見つめる眼差しがありますね。「此世と他世とに生・死に違越せり。得あり、証あり、及び涅槃に由ってニ世の益を獲。」と説明されています。生死を超えさせる得が有り(無漏智は得るもの)、涅槃は証するもので有り、その涅槃に由って此世(現世)と他世(当来世)のニ世の利益を獲て、もはや悪趣に生まれることはない。

 「人・天の楽果は唯一世のみを順益してニ世に非ざるが故に、名づけて善と為さず。是れ無記の果法なり。故に体是れ善に非ず。後世の中に於いて衰損を作すが故に。」(『論』)

 ここに何故このようなことを論じるのかというと、順益を以って善というのであれば、人・天の楽果も亦現に順益するから善と名づけなけらばならない。此の疑問に答える為に「人・天の楽果」は善とは名づけないというのです。六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)の中にあってですね、人・天に生をうけたこと自体が楽果なのですね。「それ、一切衆生、三悪道をのがれて、人間に生るる事、大きなるよろこびなり」(『横川法語』真聖p961)といわれますね。人として生を享け共に生を享受することができることは人間だからでしょう。しかし私たちは生をうけた途端に忘れているのです。「我は善し、他は悪し」の論理をもって自己肯定し、苦にさいなまれているのですね。無色界の最上界である非想非非想処であっても無限ではなく有限の楽なのですから、迷いを払拭することはできません。楽果としての人・天は後世に楽をもたらすとはいえないのです。「無記の果法」といわれています。人・天の果法は無記であるということです。果として人として生をうけたということですね。ここは大切なことを教えています。生まれたこと自体は無記だということです。厳密には無覆無記です。人は生まれながらにして無覆無記なのですね。人だけではありません、六道の異生すべてが無覆無記の存在なのです。差別し差別される所以はないのです。善因の果は善ではなく楽という果を感得されるのですし、悪因の果は悪ではなく苦という果を感得するのです。善を作しても永遠ではなく、悪を作しても永遠ではない輪廻の主体なのですから、ニ世にわたって利益をもたらすものではないといわれるのです。

 「能く此世・他世に違損するに為(をい)て故(かれ)不善となづく。悪趣の苦果は此世には能く違損を為すと雖も他世に於いてするに非ず。故に不善と名づく。」(『論』)
 

 これは「無記の苦果」といわれています。「身をして苦しましむが故に」と。私たちの善悪業の行為の結果がいずれにせよ、その業果は深層の阿頼耶識に種子として薫習されるわけですね。しかし阿頼耶識に蓄積された種子は無覆無記なのです。善悪業の増上縁(間接原因)をともなって現行するのですが、現行した阿頼耶識は何ものにも覆われていない無覆無記の存在なのです。こういうところに私たちは何か大きな過ちを犯していると思はざるを得ないのです。今の世間は不況に喘いでいますし、環境の変化も苦脳をもたらすのですが真実はどのなのでしょうか。私は「思いの執着」が真実を覆い隠しているのではないかと思っているのです。「因是善悪果是無記」(因は善か悪であるが果は無記である)ということの「因」は阿頼耶識を現行させる縁(増上縁)を仮に因といわれているのです。厳密に言えば「善因無記果・悪因無記果」ということになります。このような因果関係のことを異熟因・異熟果という。
 
違損(いそん)は傷つけ苦をもたらすもの。不善は此の世と他の世を、違損することから、不善と名づける。しかし、悪趣の苦果は、此の世に於いては傷つけ苦をもたらすものではあるけれども、、他の世に対しては、傷つけ苦をもたらすものではない。よって悪趣の苦果自体は不善ではない、と教えています。現世・来世にわたって不利益をもたらすものを不善(悪)というのです。不利益とは苦をもたらす行為ですね。悪趣の苦果は異熟果として現行していることですが、そのこと自体は他世において苦果をもたらすことではないことから不善ではないと教えられています。

 「善と不善との、益し損する義の中に於いて、記別(きべつ ・来世についての仏の予言を一つ一つ分別して予言するので「別」の字を加える。)す可からざるを、故(かれ)無記と名づく。」(『論』)

 善と不善というように、順益したり、あるいは違損したりすることの意味の中に於いて、順益や違損とは記別できないものを無記という。善でもなく、悪でもない性「人・天の楽果」とありました。人として生を受けたという事は今一度涅槃に向かう人生を送りなさいと云う機会を与えられたという事なのですね。それと人・天の界は苦界なのです。「今一度」というのはその意味になります。人として生を受けたということは悪業の結果なのです。地獄・餓鬼・畜生の在り方を三悪趣といい、人・天を加えて五悪趣といいます。修羅をくわえて六道といわれますね。人として生を受けたという事は楽果でもあり、また悪趣の苦果でもあるわけです。ここに願いが隠されているのです。悪趣の果報をニ度と受ける事のない生き方が、人間として求められていることになるのです。これが善の在り方になります。「得あり・証あり・涅槃に由ってニ世の益を獲」る在り方が生まれてきます。ここをはき違えてしまいますと造悪無碍という異端が生まれてくるのですね。いわゆる「本願ぼこり」です。 

 「弥陀の本願不思議におわしませばとて、悪をおそれざるは、また、本願ぼこりとて、往生かなうべからずということ。この条、本願をうたがう、善悪の宿業をこころえざるなり」(『歎異抄』十三条 真聖p633)

 此処に見え隠れすることは自己中心の傲慢性です。「本願を信じて助けられるのだから何をしてもかまわない」という詭弁であり、傲慢性です。唯識によって教えられることは私の深層の阿頼耶識から自己中心の末那識が生み出され、その末那識が阿頼耶識を対象として自己を汚していくという循環性が教えられているのですね。「依彼転縁彼」(彼に依って転じて彼を縁ず)と端的に述べられていますが、私の中に潜んでいるエゴイズムは外から入ってきたのではなく内的な、自己の中から出てくるのだと教えているわけです。ここをきっちりと押さえて聞法する姿勢が大切であると思います。

 六識が善である場合について

 「此の六転識は、若し信等の十一と相応するをば、是れ善性に摂む。」(『論』)

 六識が「信・慚・愧・無貪・無瞋・無癡・勤・軽安・不放逸・行捨・不害」の善の十一の心所と相応すれば六識は善性になるということになります。六識は先にも述べました通り、三性いずれの性にもなり得るのですが、では、どのような構造をもって善となり、不善となり、無記となるのでしょうか。その問いに対して答えているのがこの所になります。善の十一の心所は唯善なのです。ですからこの善の心所と共に働きますと六識は善性を保つことになるのです。
 
『述記』には「善性に摂む」ことについて、厳密に述べられています。「此れが中に未だ必要(かならず)しも十一の法と倶ならず。不定の地の如きは唯十の法とのみ倶なるが故に。」何を云わんとしているのかは「不定の地とありますから、定地(禅定の境地)に於いては十一の善の心所と相応するけれども、不定地は、軽安を除いた十の善の心所と相応するのであるといわれています。(軽安の項参照)軽安は禅定の境地に於いてのみ得られるものであるから、不定地(三界の中の欲界)においては十の心所と共に働くと釈されています。

 六識が不善(悪)である場合について

 「無慚等の十の法と相応するをば、不善性に摂む。」(『論』)

 「義をもって準ずるに、不善と善に返して亦しかなり。必ずしも十法と倶なるものには非ず。故に聚に望めて論を為す。不善の中の十は唯不善なるが故に。謂く瞋と及び忿等(等は恨・覆・悩・害・嫉・慳をいう)の七と諂・悔・憍を除いて無慚愧を取る。故に十を成すなり。」(『述記』)

 無慚等の十の法、十の心所は不善の心所ですね。そして六識がこの心所と相応するときは不善(悪)となるのです。不善の心所として十の心所が数えられるのです。瞋と忿・恨・覆・悩・害・嫉・慳との七と諂・悔・憍を除いて無慚・無愧の十です。不善と有覆無記に通じる心所は除かれているのです。

 「倶に相応せざるをば、無記性に摂む。」(『論』)

 善でもなく、不善でもない心所と六識が相応しない時には、六識は無記性となるということです。善・不善・無記という三性分別は何故起こるのかということについて、思の心所が大きく関わっているといわれています。思とは意思のことです。意思決定ということが三性に大きく関わるわけです。善の行為か悪の行為などを行わせる心の働きです。

 「思は心に正因等の相を取って、善等を造作せしむ。心が起こる位に此の随一無きことは無し。故に必ず思有り。」(『論』)

 思は善業の因等の相を取り、善等を造作させる。心が起こる時には、善等の中の一つは必ず有る。ですから心が起こる時には必ず思は有ると云われています。心が働く時には必ず働いている心所なのですね。ですから、思は遍行なのです。
 「正因等」正因は善・邪因は悪・倶相違因は無記と云われます。因となる認識対象のことです。
問題は六識の三性分別は六識と相応する心所、すなわち善の十一心所と相応することに依って善性となる場合、不善の十の心所と相応することに於いて悪性となる場合等があるわけです。心所の三性によって決定されるという部分と思の心所・意思決定によって六識の善・悪が決定される部分があるわけです。ここのところは十二分に検討されなければならないことだと思います。

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第三能変 善の心所  第三の五 倶起分別門 (10) 護法正義 ①

2014-01-18 22:02:47 | 第三能変 善・ 第三の五 倶起分別門

 第三は、正を顕わす(護法正義を述べる)。

 「応に説くべし、信等の十一の法の中に、十は善心に遍せり、軽安は遍せず、要ず定位に在ってのみ方に軽安有り、身心を調暢(ジョウチョウ)せしむることは、余の位に無きが故に。」(『論』第六・十一右)

 「応に説くべし」、本科段では、護法の正義(ショウギ)について述べられます。
 信等の十一の善方の中で、軽安を除く十は一切の善心に遍在する。しかし軽安は遍在しない。「何を以て知るとならば」、かならず定の位に在る時にのみ軽安は存在する。軽安は身心を調暢して、かならず
麁重(ソジュウ)を除くからである。身心を調暢にさせりうことは、他の位にはないからである。「余の位」とは散位を指します。散位に軽安が存在しないということは、散位には麤重があり、軽安のような身心を調暢する心の働きが無いのである。

  •  調暢(ジョウチョウ) - 身心がととのいのびやかで健やかな境地。調は整える。暢は伸び伸びとするという意味です。

 軽安は、「麁重を遠離(オンリ)し身心を調暢して堪任(カンニン)するを性と為す」、といわれています。麁重とは、煩悩の種子、煩悩の種を離れて、いかなる境遇にも堪えることを性とし、「惛沈(コンジン)を対治して依を転ずるを以て業と為す」と。出会う境遇に負けると昏く沈むことになりますが、惛沈の依(身体)を転じて、軽安を所依とするという在り方は大切なことだと思います。

 惛沈については、2010年2月15日の項を参考にしてください。

「論。應説信等至餘位無故 述曰。下顯正也。此中十法遍一切善。輕安不遍。何以知者。初以理證。輕安調暢要除麁重。散位麁重體不無故。無輕安也 以文證者。」(『述記』第六本下・四十一右)

 (「述して曰く。下は正を顕わすなり。此の中の十法は一切の善に遍す。軽安は遍せず。何を以て知るとならば、初に理を以て証す。軽安は調暢して要ず麁重を除く、散位には麁重の体無ならざるが故に軽安無きなり。
 文を以て証せば、」)

 次科段において証拠の文献を引き、後に、軽安の境地について問題提起されます。


第三能変 善の心所  第三の五 倶起分別門 (10) 護法の説 ⑥

2014-01-17 23:33:11 | 第三能変 善・ 第三の五 倶起分別門

 『瑜伽論』の文言についての、四遍善師の解釈について、護法が誤りであることを指摘し、四遍善師の主張を論破します。

 「論に、六の位に十一を起すと説けるは、彼彼(ヒヒ)の増せるに依って此此(シシ)の説を作(ナ)す、故に彼が所説は定んで理に応ぜるには非ず。」(『論』第六・十一右)

  •  彼彼 - 心所の数(彼彼が増すというのは、心所数が増えるという意味)
  • 此此 - 六位 

 ちょっと、解りづらいですね。六位とは、一決定時。二止息時。三作業時。四世間清淨時。五出世清淨時。六攝受衆生時を指すのですが、『述記』によりますと、『瑜伽論』の文言は、決定時等の六位に十一と説くのは、六位の一つ一つに、心所が増すと説いているのである、と。例えば、「決定時に於て信が相応する」のは、決定時には信のみが増すということであって、信のみが存在し、他の善の心所は存在しないということではない、と説いています。他の五に於いても同様に、「~のみが増す」という意味である、と護法は説き、四遍善師の説を論破しています。

 「論に」というは、『瑜伽論』巻第五十五の文言です。

 「 問善法依處有幾種。答略説有六。一決定時。二止息時。三作業時。四世間清淨時。五出世清淨時。六攝受衆生時。問何等爲自性。答謂信慚愧。無貪無瞋。無癡精進。輕安不放逸。捨不害。如是諸法名自性善。問如是諸法互相應義云何應知。答於決定時有信相應止息雜染時有慚與愧顧自他故。善品業轉時有無貪無瞋無癡精進世間道離欲時有輕安出世道離欲時有不放逸。及捨攝受衆生時有不害。」(『瑜伽論』巻第五十五。大正30・602b)

 四遍善師の『瑜伽論』の解釈は、六位に於てそこに記されている心所のみが存在すると主張しているのですが、護法は、六位に於ては、そこに記された心所が増すという意味であると釈し、他の善の心所も存在していると主張しています。そして、四遍善師が、善心に必ず存在している心所は三根と精進の四つのみであるという主張を論破しているのです。

 (「問う、善法の依処に幾種ありや。答う、略して説くに六有り、一つには決定時(ケッジョウジ)、二つには止息時(シソクジ)、三には作業時(サゴウジ)、四には世間清淨時、五には出世間清淨時、六には攝受衆生時(ショウジュシュジョウジ)なり。
 問う、何等をか善の自性と為すや。答う、謂く信、慚、愧、無貪、無瞋、無癡、精進、輕安、不放逸、捨、不害、是の如きの諸法を自性善と名づく。
 問う、是の如き諸法互に相応する義をば云何が応に知るべきや。答う、決定時に於ては信の相応する有り。雑染を止息する時には慚と愧と有り、自他を顧みるが故なり。善品の業転ずる時には
無貪、無瞋、無癡、精進有り。世間道に欲を離れる時には軽安有り。出世道にて欲を離れる時には不放逸及び捨有り。衆生を摂受(ショウジュ)する時には不害有り。此は是れ慈悲の所摂(ショショウ)なるが故なり。」)

 以上、『瑜伽論』の文言理解について、四遍善師の解釈は誤りであり、理に叶わないと護法は論破しているのです。


第三能変 善の心所  第三の五 倶起分別門 (9) 護法の説 ⑤

2014-01-16 21:44:47 | 第三能変 善・ 第三の五 倶起分別門

 八識の所依(護法正義)

 前五識  五色根・意識・末那識・阿頼耶識

 第六識  末那識・阿頼耶識

 第七識  第八識(第八無くば転ぜず)

 第八識  第七識(第七無くば転ぜず)

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 第五は、不害の数は善心に存在することを明らかにし、四遍善師が主張する不害は、無相の善心には存在しないということを論破する。

 「善心の起る時には、皆物を損せず、能損(ノウソン)の法に違(タガ)えるを以て、不害有るべきが故に。」(『論』第六・十一右)

 能損の法=害

 善心の生起する時には、みな物(自他)を損することはない。善心は害(能損の法)に違背するものなので、善心の生起している時には不害は存在するはずである。

 (能対治) 不害 → (所対治) 害

 善心は、「自他を損せざると、害の損に違うが故に。大悲心の如し。」(『述記』)

 善心が生起している時は、自分も他者も(一切有情のこと)損悩し傷つけるということはない。

 (「不害というは、諸の有情に於いて、損悩を為さず、無瞋を以て性と為し、害を対治し悲愍するを以て業と為す。」)

  •  無瞋 = 慈 (与楽)
  •  不害 = 悲 (抜苦)

 苦悩を除き(悲)、人生の目的である楽を与える(慈)ことが、仏教の大前提であるわけですね。苦を厭離するところに、大悲が語られ、大悲心の成就が、安楽とか大安をもたらしてくるのでしょう。

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 「善ノ十一ト云ハ是也。誰モミナ善心起ス時ハ、此十皆必ズ起ナリ。定ヲシタル人ハ軽安モ起ル、此故ニ十一皆ナ起ル。」(『二巻鈔』)

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「論。善心起時至有不害故 述曰。不害之數善心皆有。不損自他違害損故。如大悲心。但説大悲不害爲體。豈餘善位遂亦無也。理必應倶。精進等四以義同故所以不説 若爾六位起十一文如何通。」(『述記』第六本下・四十左。大正43・442a)

 (『述して曰く。不害の数は善心に皆有るべし。自他を損せず、害の損に違うが故に、大悲心の如し。但だ、大悲は不害を体と為すと説く。豈に余の善の位に遂に亦た無きなり。理必ず倶なるべし。精進等の四は義同なるを以ての故に、所以に説かず。
 若し爾らば、六位に十一を起す文如何が通ず。」)

 「若し爾らば、六位に十一を起す文如何が通ず」という問に対して、次科段で答えられます。


第三能変 善の心所  第三の五 倶起分別門 (8) 護法の説 ④

2014-01-15 22:39:31 | 第三能変 善・ 第三の五 倶起分別門

 軽安覚支は仏位に存在するという護法の釈は、利他に関係するものだと思います。仏は自利・利他円満という、満清浄者ですから、無漏位である仏位には軽安という「惛沈を対治し依を転ずるを以て業と為す」、潜在的な阿頼耶識の中の雑染の種子を取り除く作用があるわけです。若し、無漏位に軽安がなかったならば、無漏位である仏には利他行が無いものになるのでしょう、このような観点からも、四遍善師の説は誤りであるといえるのではないでしょうか。

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 行捨と不放逸が世間道には存在しないという四遍善師の主張を論破する。

 「若し世間道は捨と不放逸と無しというを以て、寂静にも防悪修善(ボウアクシュゼン)にも非ざる応きが故に。又、掉(ジョウ)と放逸とを伏せざる応きが故に、有漏の善心にも既に四の法を具せるを以て、出世道の如く、二有る応きが故に。」(『論』第六・十一右)

 行捨(ギョウシャ)- 「云何なるか行捨。精進と三根との、心を平等に正直に無功用(ムクユウ)に住せしむるを以て性と為し、掉挙(ジョウコ)を対治し静に住せしむるを以て業と為す」。

  •  心を平等に
  •  心を正直に     }  寂静の境界に住せしめる。
  •  心を無功用に

 不放逸(フホウイツ) - 「不放逸とは精進と三根との、所断・修の於に防し修するを以て性と為し、放逸を対治し一切の世・出世間の善事を成満するを以て業と為す」。また『二巻鈔』には「罪ヲフセギ善ヲ修スル心ナリ」。と説かれています。

 意味としては、「もし、世間道には、行捨と不放逸がないというのであれば、世間道には、寂静もなく、防悪修善もないことになり、この論理でいうならば、世間道では、掉挙と放逸を対治することができないということになる。しかし、有漏の善心にも、すでに四の法(精進と三根)をそなえ、世間道である散心にも、出世道のような二つ(行捨と不放逸)が存在していることがわかる。」
 

 「世間道には、寂静もなく、防悪修善もない」という主張を論破しているのです。従って、護法の主張は、世間道(有漏の善心)にも、行捨・不放逸は存在する(寂静もあり、防悪修善もある)とし、四遍善師の主張を排斥します。

 「論。若世間道至應有二故 述曰。若捨・不放逸唯出世道有。世間道心應非寂靜。以無捨故。如染等心。亦應不能防惡修善。無不放逸故。亦如染等心。既有寂靜等故。有捨・不放逸 又世間善心。應不伏掉擧。及伏放逸。無能治故。如染心等。既知世間道。准散善亦有。然有比量。散善等中應有此二。是善心故。具四法故。如出世道。」(『述記』第六本下・四十右。大正43・442a) 

 (「述して曰く。若し捨・不放逸とは唯だ出世道のみに有らば、世間道の心は寂静に非ざる応し。捨無きを以ての故に。染等の心の如し。亦た悪を防し善を修すること能わざる応し。不放逸無きが如し。亦た染等の心の如し。既に寂静等有るが故に、捨と不放逸と有るべし。又、世間の善心は掉挙を伏し、及び放逸を伏せざる応し。能治無きが故に。染心等の如し。既に知る、世間道に准ずるに散善にも亦有るべし。然も比量有り、散善等の中にも此の二有る応し。是れ善心なるが故に。四法を具するが故に、出世道の如し。」)

 世間道においても、行捨は掉挙を対治し、不放逸は放逸を対治する、要するに、散善の状態でも、行捨と不放逸は存在するのである。

 以上の論点から、護法は四遍善師の説を論破し、有漏の善心にも行捨及び不放逸は遍在すると主張しています。


第三能変 善の心所  第三の五 倶起分別門 (7) 護法の説 ③

2014-01-14 23:00:01 | 第三能変 善・ 第三の五 倶起分別門

 第三は、軽安の存在についての護法の説を述べる。

 四遍善師の説における軽安の存在は、「要ず世間道をもって煩悩を断ずる時に軽安有るが故に。」と主張し、善心であっても散心と無漏道には軽安は存在しない、と述べていました。この主張を護法は論破していきます。

 「若し出世道に軽安(キョウアン)生ぜずといわば、此の覚支(カクシ)は無漏(ムロ)に非ざる応きが故に。」(『論』第六・十左)

  •  覚支 - さとりを助ける修業のこと。七つ数えられる(七覚支) この科段における覚支は軽安覚支を指し、身心が爽快で自由に活動できることをいう。「此の覚支」は無漏位である仏位の覚支をいう。

 護法は、軽安覚支は無漏位でも存在するという。何故ならば、仏には軽安覚支は存在する、即ち無漏位にも存在するのです。従って、四遍善師が主張するように、無漏位には存在しないと云うのは誤りである、若し無漏位に軽安覚支が存在しないと云うのであれば、仏には覚支が存在しないことになってしまう、と論破しています。

 「論。若出世道至非無漏故 述曰。無漏之位若無輕安。應輕安覺支非無漏攝。前師若言散心無此輕安非遍。誰謂無漏輕安不倶。深爲錯難。然以前師輕安覺支。非在無漏觀。有無漏觀後有漏觀時生。然亦名覺支。體非無漏説爲無漏者。無漏定遠引故。如苦根無漏 若爾佛應無此覺支。」(『述記』第六本下・三十九左。大正43・441c~442a)

 (『述して曰く。無漏の位に、若し軽安無しと云わば、軽安覚支は無漏に摂むるに非ざるべし。前師若し散心には此の軽安無きを以て遍ずるに非ずと言わば、誰か謂ふや、無漏の軽安倶ならずと。深く錯難と為すなり。然るに前師は軽安覚支は無漏観に在って有るに非ざるを以てなり。無漏観の後、有漏観の時に生ずること、亦覚支と名づく。体は無漏に非ざれども説いて無漏と為すことは、無漏定に遠く引かれたるが故なり。苦根を無漏というが如し。若し爾らば、仏にこの覚支なかるべし。」)


第三能変 善の心所  第三の五 倶起分別門 (6) 護法の説 ②

2014-01-13 21:34:13 | 第三能変 善・ 第三の五 倶起分別門

 四遍善師は自説の主張の中で、信について、「事理を推尋するとき、たとえ善心であっても、未決定の境、即ち事理をよく推尋していない時には、善心に信は遍在しない」と説いていましたが、護法菩薩は、信が遍在しないならば、それは善心ではない、何故ならば、浄信が無いからである、と論破しています。喩ていうならば、「染心等の如し」と。等は無記の心を指し、染心と無記の心のようなものである。

 事理を推尋していなくても、法を求め、聞法する姿勢は善心であり、善心には必ず信は存在するというように思います。聞法する姿勢は、たとえそこに信は存在していなくても、聞法する姿勢を支えて働いているのが信であり、信は心澄浄という働きを持つものであろうと思います。無根の信といわれる所以ではないでしょうか。

 第二の解釈をみますと、

 (宗) 「善心には、定んで信起こること有るべし」。(善心には必ず浄信がある。)
 (因) 「善心に摂むるが故に」。(善心だからである。)
 (喩) 「定時の善心の如し」。(境を決定している時の善心のようなものである。)

 と、護法は解釈していますが、この解釈をみる限り、護法の立場は、未決定の境に対しても信は生じるということではないであろうか。

 第二は、慚と愧とは同類である為に、並列し起ることはないという四遍善師の主張を論破します。

 「慚(ザン)と愧(キ)とは類異(ルイコト)なり、依(エ)は別なれども境は同なり、倶(トモ)に善心に遍ぜりということは前(サキ)に已に説きてしが故に。」(『論』第六・十左)

 四遍善師は、慚と愧とは同類である為に、依処は各々別々ではあるが、一つが起こった時には他のものは起こらない、並列し起ることはないという主張でありました。同類の心所は並存することはないというものでありましたが、護法は慚と愧は並存するという。

 論破の要旨は、体は異類であり、この二法は各々の別相があるが、境は総相で同じである。これは前に説いてきた通りであり、この論旨を以て四遍善師の説を論破しています。

 「善心の起る時には、随って何れの境を縁ずるにも、皆善を崇重(スウジュウ)し及び悪を軽拒(キョウコ)する義有り、故に慚と愧とは倶に善心に遍して、所縁別なること無し」、と。

 「論。慚愧異類至前已説故 述曰。此之二法各有別相。體是異類。崇善拒惡故。依於自他増上雖別。而境是同。一時倶起遍善心有。前自體中已成立訖。」(『述記』第六本下・三十九左。大正43・441c)

 (「述して曰く。此の二法は各々別相有り、体是れ異類なり。善を崇め悪を拒むが故に。自他に依って増上なることは別なりと雖も、境是れ同なり。一時に倶に起こって善心に遍じて有るということは前の自体の中に已に成立し訖る。」) 

 別相               所依        所縁

  慚 - 善を崇重する。   自に依る。     同一の境
  愧 - 悪を軽拒する。   他に依る。     同一の境
 


第三能変 善の心所  第三の五 倶起分別門 (5) 護法の説

2014-01-12 23:56:20 | 第三能変 善・ 第三の五 倶起分別門

 後半は、護法の正義を述べる。(十遍善師の説)

 この科段は五分科して説明される。『述記』によりますと、「下の文に五有り。一に前を破し、二に難を釈し、三に正を顕わし、四に証を引き、五に疑を解す。」と述べています。

 これ以下の文は五つに分けられる。第一に、前科段で述べられている四遍善師の主張を論破する。第二に、四遍善師が証として引用している『瑜伽論』の文言理解は誤りであることを説明せる。第三に、正義である護法の説を述べる。第四に、証を引く。第五に、疑問点を解く。

 今は初の四遍善師の主張を論破する。

 「有義は、彼が説くこと未だ理に応ずと為すべからず。事理(ジリ)を推尋(スイジン)するに未だ決定(ケツジョウ)せざる心(シン)に信若し生ぜずといわば、是れ善に非ざるべし、染心(ゼンシン)等の如し、浄信(ジョウシン)無しというが故に。」(『論』第六・十左)

 「事と理を推尋するに」ということは、経論等に説かれている事(現象的存在、或は有為)と理(真理、或は真如)を推測し考察すると、という意味になります。

 彼(四遍善師)が説くことは未だ道理にかなわない。事と理を推尋すると、未だ決定しない心に信がもし生じないというのであるならば、これは善ではないであろう。これは、染心等のようなものである。なぜならば、浄信がないというからである。従って、善心であるかぎり必ず信はある、というべきである。

 十遍善という説は、善の十一の心所の中、軽安を除いた十の善の心所は必ず遍在するというものです。軽安は何故存在しないのかという疑問が生じますが、軽安は、禅定を修することによって心が浄化され、身心ともに軽やかな状態になったことであって、散心には存在しない心所であるから除かれるのです。

 「論。有義彼説至無淨信故 述曰。下文有五。一破前。二釋難。三顯正。四引證。五解疑。此初也。前義不然。汝言推事未決有三性心。汝言彼善心中無信者。應非是善。無淨信故。如染無記心。染等者等取無記也。又云。善心定有信起。善心攝故。如定時善心。」(『述記』第六本下・三十九右。大正43・441c)

 (「述して曰く。・・・・・前義然ず。汝が事を推するに未だ決せず、といわば、三性の心あるべし。汝はかの善心のうちに信なしといわば、これ善にあらざるべし、浄信なきが故に、染無記心の如し。染等とは無記を等取す。又云く、善心には定めて信が起こることあるべし。善心に摂するが故に。定の時の善心の如し。」)

 護法の論破の要旨

 第一の解釈 「未だ決せず、といわば、三性の心あるべし。汝はかの善心のうちに信なしといわば、これ善にあらざるべし、浄信なきが故に、染無記心の如し。染等とは無記を等取す」

 第二の解釈 「善心には定めて信が起こることあるべし。善心に摂するが故に。定の時の善心の如し」

 護法の、四遍善師の説を論破する『述記』の解釈については後に述べます。   (つづく)