四遍善師は自説の主張の中で、信について、「事理を推尋するとき、たとえ善心であっても、未決定の境、即ち事理をよく推尋していない時には、善心に信は遍在しない」と説いていましたが、護法菩薩は、信が遍在しないならば、それは善心ではない、何故ならば、浄信が無いからである、と論破しています。喩ていうならば、「染心等の如し」と。等は無記の心を指し、染心と無記の心のようなものである。
事理を推尋していなくても、法を求め、聞法する姿勢は善心であり、善心には必ず信は存在するというように思います。聞法する姿勢は、たとえそこに信は存在していなくても、聞法する姿勢を支えて働いているのが信であり、信は心澄浄という働きを持つものであろうと思います。無根の信といわれる所以ではないでしょうか。
第二の解釈をみますと、
(宗) 「善心には、定んで信起こること有るべし」。(善心には必ず浄信がある。)
(因) 「善心に摂むるが故に」。(善心だからである。)
(喩) 「定時の善心の如し」。(境を決定している時の善心のようなものである。)
と、護法は解釈していますが、この解釈をみる限り、護法の立場は、未決定の境に対しても信は生じるということではないであろうか。
第二は、慚と愧とは同類である為に、並列し起ることはないという四遍善師の主張を論破します。
「慚(ザン)と愧(キ)とは類異(ルイコト)なり、依(エ)は別なれども境は同なり、倶(トモ)に善心に遍ぜりということは前(サキ)に已に説きてしが故に。」(『論』第六・十左)
四遍善師は、慚と愧とは同類である為に、依処は各々別々ではあるが、一つが起こった時には他のものは起こらない、並列し起ることはないという主張でありました。同類の心所は並存することはないというものでありましたが、護法は慚と愧は並存するという。
論破の要旨は、体は異類であり、この二法は各々の別相があるが、境は総相で同じである。これは前に説いてきた通りであり、この論旨を以て四遍善師の説を論破しています。
「善心の起る時には、随って何れの境を縁ずるにも、皆善を崇重(スウジュウ)し及び悪を軽拒(キョウコ)する義有り、故に慚と愧とは倶に善心に遍して、所縁別なること無し」、と。
「論。慚愧異類至前已説故 述曰。此之二法各有別相。體是異類。崇善拒惡故。依於自他増上雖別。而境是同。一時倶起遍善心有。前自體中已成立訖。」(『述記』第六本下・三十九左。大正43・441c)
(「述して曰く。此の二法は各々別相有り、体是れ異類なり。善を崇め悪を拒むが故に。自他に依って増上なることは別なりと雖も、境是れ同なり。一時に倶に起こって善心に遍じて有るということは前の自体の中に已に成立し訖る。」)
別相 所依 所縁
慚 - 善を崇重する。 自に依る。 同一の境
愧 - 悪を軽拒する。 他に依る。 同一の境