唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

分別起の法執について (1)

2013-09-23 22:24:47 | 心の構造について

 分別起の法執も、分別起の我執と同じ文章ですね。我執が法執に置き換えられただけです。

 倶生起は「身と倶なり」と云われていましたが、分別起は「身と倶にしも非ず」と云われています。分別は何によって起こってくるのか、それは『論』に「要ず邪教と及び邪分別を待ちて、然して後に方に起る」と説かれています。

 邪教・邪分別が外縁になるわけです。邪分別は自分が起こすものですが、邪教は邪師に依って起こされるものです。蓬茨先生が、教化ということで、「人間は教化される存在である」ということを仰っていられました。教えによってはいかようにもなる、どんな色にも染まってしまう質を持った存在ということでしょう。

 「分別の法執は、亦た現在の外縁力にも由るが故に、身と倶にしも非ず。」(『論』第二・七左)

 「論。分別法執至非與身倶 述曰。顯由外縁。及自内種二因力起故言亦由。」(『述記』第二末・四十八左。大正43・293c)

 (「述して曰く。外縁と及び自の内種との二の因力に由って起こると云うことを顕す。故に亦た由と言う」)

先の分別起の我執の項を参照していただければと思いますが、転載し、今一度学んでみたいと思います。

 「分別の我執は亦現在の外縁の力にも由るが故に、身と倶にしも非ず。要ず邪教と及び邪との分別を待って然して後に方に起こるが故に分別と名づく」
分別の我執は、「亦」といわれていますように、虚妄熏習の内因力と、現在の外縁の力にも由るのである、と。内因力の種子と邪教等の外縁との二縁に由って生起するということなのです。『述記』には「内縁には必ず籍る。兼ねては外縁にも斥る。故に外縁の於に亦の字を説く」と説明されています。
内因とは、阿頼耶識の中の種子を内的な原因で内縁といい、それより他の外的な原因を外縁といいます。そして「内的な因(自の種子)と(現在の)外縁とより生じるが故に縁生と名づく」、因を縁起、果を縁生と分けられて説かれていますが、生まれるということは、自の業種子と父母を縁として生まれてきたということなのです。生まれながらにして外縁を待ってということが分別が起こるということは必然なのです。
 「要ず」以下は分別の義を顕しています。「分別」は、邪教の分別と邪思惟の分別という後天的な分別を待って起こる、これが分別起の我執である、と。

 「唯だ第六意識の中のみに有ること在り」と説かれています。
 分別起の我執は、唯だ第六意識のみに存する有間断にして麤猛のものである、ということです。これは執の所在を明らかにしています。「間断なり、麤猛なり、故に此の執有り」と。(『述記』第一末・十五右)

 そして第六意識以外の諸識は、浅であり、浅は前五識・第八識を指し、細(第七識)なり、及び相続(第八識)するから、横計(おうけ)という、間違って考えるという邪分別を起こすことは無い。邪分別は必ず間断し麤猛である。第八識は浅にして間ではない、前五識は間では有るが浅である。第七識は倶に無い、従って分別起この我執は第六意識のみに在る我執である。

 法執は上に述べています我執を根本的に成り立たせている執なのです。ですから我を法に置き換えて、根本我執と言う意味をもった執なのですね。

 「要ず邪教と及び邪分別を待ちて、然して後に方に起る」(『論』第二・七左)

 「論。要待邪教至故名分別 述曰。正顯外縁釋分別義。」(『述記』第二末・四十九右。大正43・293c)

 (「述して曰く。正しく外縁を顕して分別の義を釈す。」)

 分別は、自の内種と外縁とに由ることを顕しています。

 次に、分別起の法執の所在を明らかにしています。第六意識の中のみに有る、と。   (つづく)