前回より、まとめて結ぶ。(護法正義)
以上によってまさに知るべきである。第六意識の慼受の純苦処(地獄)にあるのは、苦根のみであるということを。
「論。由此應知至亦苦根攝 述曰。五總結也。故知意慼受在純苦處亦名苦根。亦餘時意慼受憂故。若地獄中無樂等者。如何彼得有段食耶。以生喜・樂方成食故。六十六等。約餘趣處生喜・樂方名食。如大論第四等説。地獄中腑藏間風以爲段食。資養於身但令不壞相續名食。生其捨受非謂要生喜・樂。喜・樂者通雜受處語。下第七卷更有異釋。應引彼文。」(『述記』第五末・九十六左。大正43・426c)
(「述して曰く。五に総じて結すなり。故に知る、意の慼受の純苦処に在るをば亦苦根と名づく。余時の意の慼受の憂に亦するが故に。若し地獄の中に楽等無しといわば、如何ぞ彼しこに段食(だんじき)有りと云うことを得る耶。喜・楽を生じて方に食を成ずるを以ての故に、六十六の等きは余趣の処に約して喜・楽を生ずるをもって方に食と名づけたり。大論第四等に説くが如き、地獄の中には腑藏(ふぞうーはらわた)の間の風を以て段食と為すと云えり。身を資養して但だ相続を壊せざらしむを以て食と名づけたり。其の捨受を生ず、要ず喜・楽を生ずと謂うに非ず。喜・楽というは雑受処に通じて語す。下の第七巻に更に異釈有り、応に彼の文を引くべし。」)
第二の、護法正義をまとめて述べています。護法正義は五段に分けて述べられていました。純苦処においては、ただ苦受のみがある、純苦処は、分別する余地がないからである。また雑受処は尤重ではないから憂受と苦受との二つがあると主張しています。