唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

『阿毘達磨倶舎論』に学ぶ。 本頌 (4)  第一章第一節

2012-09-09 19:58:08 | 『阿毘達磨倶舎論』

「又諸の有為法は 謂く色等の五蘊なり 亦は世路と言依と 有離と有事等となり。」(第七偈)

 (諸の有為法とは、色等の五蘊である。亦(有為法の異名)は世路と名づけ、有離と名づけ、有事等という。)

 初めに色等の五蘊が有為法であることを述べます。五蘊の中には無為法は入らないのです。七十五法の内七十二法が五蘊です。次に有為法の異名(同義語)を挙げます。

  •  世路(せろ) - 世は、「時」の意、三世(過去世・現在世・未来世)をあらわし、路は所依で有為法を指します。有為法はすべて三世の為に所依となり、世の路となる(依主釈)。三世は有為法を別にしては存在しないということから、世路は有為法の別名になります。
  •  言依(ごんえ) - 「言」とは語られた言葉、「依」とはよりどころという意味。有為法は言葉が生じるよりどころとなるという意味で言依という。
  •  有離(うり) - 有為法は有(煩悩)を離れることによって涅槃を得ることができるから有離という。
  •  有事(うじ) - 事は因のこと。因を有するもの。有為法は因より生じ、因を有することから有事という。

  有為法の異名を挙げ、次いで有漏の異名を説きます。

 「有漏を取蘊と名づく 亦は説いて有諍と 及び苦と集と世間と 見處と三有等と為す。」

 (有漏を取蘊と名づける。亦は有諍と名づけ、苦と集と世間といい、見處という。そして三有とも称する。)

  •  取蘊(しゅうん) - 「取」とは煩悩のこと。五取蘊の取蘊。「蘊」(自己存在を構成する五つの要素の集まり。)は、取より生じる、或いは取に属する、或いは取を生じるから有漏法を取蘊という。
  •  有諍(うじょう) - 煩悩を諍といい、煩悩を有するものという意味。善を排除し自己と他者とに損害を与え、闘争を増大するもの。煩悩を増大するものが有漏法であり、有を増大という意味で解釈されます。
  •  苦 - 有漏法は聖者の心に違することから苦という(苦諦)。
  •  集(じゅう) ―有漏法は苦果を集めることから集という(集諦)。自己へ執着し欲を起こして苦を生じる原因を集積することから、集という。
  •  世間 - 世間・出世間の世間のこと。時間と空間とに束縛される現象的存在を世間という。三界からなる世界のことで、この三界は、言葉が通用する世界、煩悩が渦巻く世界、真理が覆われている世界のことで有漏法の別名となる。
  •  見處(けんじょ) - 見は、あやまった見解のこと。根本煩悩の中の悪見のことで、薩伽耶見・辺執見・邪見・見取見・戒禁取見の五つで五見のこと。有漏法は五見の所依であることから見處という。
  •  三有(さんう) - 三界のこと。欲界・色界・無色界における迷妄的生存をいう。

 私たちは、三有生死ともいわれる迷いの境涯を住処としているのですが、三有生死を離れるというのが仏道の目的になります。親鸞聖人は「信巻」横超断四流釈において「断」ということを特に強調されています。「断」ということは真宗の教学の中では余りいわれることはないように思うのですが、三有生死は断ずべきものとして語られています。

 「断」と言うは、往相の一心を発起するがゆえに、生として当に受くべき生なし。趣としてまた到るべき趣なし。すでに六趣・四生、因亡じ果滅す。かるがゆえにすなわち頓に三有の生死を断絶す。かるがゆえに「断」と曰うなり。「四流」は、すなわち四暴流なり。また生・老・病・死なり。」(「信巻」真聖p344)

 『浄土文類聚鈔』の『念仏正信偈』には「三有生死の雲が晴れる」と教えてくださっています。

         弥陀仏日普照耀、已能雖破無明闇、
      貪愛瞋嫌之雲霧、常覆清浄信心天。
      譬猶如日月星宿、雖覆煙霞雲霧等、

 

      其雲霧下明無闇、信知超日月光益。
      必至無上浄信暁、三有生死之雲晴、 (真聖p411)