唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第二能変 所縁門 (10) 末那識の所縁について

2011-08-17 20:22:46 | 心の構造について

 (安慧)自説を述べる。

 安慧の説は、第七末那識は第八識の現行及び種子を所縁とするという。現行を縁じて我とし、種子を縁じて我所とするというものです。

 「応に説くべし、此の意は、但蔵識と及び彼の種子とを縁じて、次での如く執じて我及び我所と為すと。」(『論』第四・二十七右)

 (まさに説くであろう。この第七末那識は、ただ第八阿頼耶識の現行とその種子とを縁じて、そして執して我・我所とするということを。)

 現行頼耶と種子頼耶の関係です。現実に働いている第八識と、あらゆる可能性を秘めた種子は潜在的に末那識を対象として働いている、そして我・我所として執着をするというのである、と安慧は主張します。

 「述して曰く、此れは但彼の現行の蔵識と及び種の蔵識とを縁じて、次いでの如く執して我と及び我所と為すが故に。)(『述記』第五本・二十四左)

 自説を述べ、次に自説の正当性を説明する。

 「種は即ち是れ、彼の識が功能にして、実有物に非ずというを以て、聖教に違せずという。」(『論』第四・二十七左)

 (種子はかの識(第八識)の功能(くうのう - 第八識に備わった力、働きをいう)であり実有の存在ではないから聖教に相違しないのである。)

 『瑜伽論』等には「第七識は第八識を縁じて境とし我と執する。」と説かれ、種子を縁じるとは説かれていないという問題です。その答えがこの科段になります。

 「種子は是れ彼の識の現識の功能なり実有物に非ず。体は是れ仮有なり。論に識を縁ずと言へるは正しく二種に當る。種子をも現行をも皆識と名づくが故に。諸論の中に於て現行ぞ及び種子ぞとは簡ばざるが故に。故に種をも縁ずることを得。即ち識を円ずるが故に、余の法を縁ぜざれば聖教に違せず。我所と名づけたるが故に。明けし彼の種を縁ずと云うことを。識を縁ずと言うが故に余の法をば縁ぜず。」(『述記』第五本・二十四左)

 種子は仮法であって実有ではない。第八識の功能である、と説明します。聖教に説かれていることは現行と第八識の功能であり仮法である種子の二つを含めているのであって聖教とは相違しないのであるという。

次に護法正義を述べます。