第二能変 所依門 (19) 因縁依
ー 護法の正義を述べる(3) ー
『瑜伽論』の内容について
「又雖無常法爲無常法因。然與他性爲因。亦與後自性爲因。非即此刹那。」(又無常の法は無常の法の因と為ると雖も、然も他性の與に因と為る。亦後の自性の與に因と為れども、即ち此の刹那に非ず」(巻五・大正30・302b・08)
『瑜伽論』の原文は上記に示している通りです。種子生現行と種子生種子を述べていることは周知のことですが、この一文が難陀・最勝子と護法の解釈が違ってくるのです。『論』には「非即此刹那」が省略して述べられていますが、此の刹那ではない、ということは同一刹那の出来事ではないということですね。「非即此刹那」が『瑜伽論』の前文のどこまでにかかるのかが、両者の解釈の相違になって説かれているのです。難陀・最勝子は「然與他性爲因。亦與後自性爲因。」のが「此の刹那に非ず」と理解しているのですね。従って種子生現行と種子生種子は異時であると解釈しているのです。
護法の解釈は「亦與後自性爲因」が「非即此刹那」であるとし、異時因果の論証としているのです。そして「與他性爲因」は「非即此刹那」にはかからないとしているのです。ですから種子生現行は同時因果であると解釈しています。傍線部分の「與後」と「與他性」が護法の解釈の要因になっているのではないでしょうか。後は時間的経過を指し、他性の與に、には時間的経過はないとして同時であると理解を示しています。詳細は初能変の種子の六義(刹那滅・果倶有・恒随転・性決定・待衆縁・引自果の六つ、大正31・b)において述べられています。尚この一文は種子の果倶有を述べています。
論証の第二は『攝大乗論』と無性の釈を引用します。 (つづく)