唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

煩悩ー(6)貪・瞋のまとめ

2010-01-13 23:25:55 | 心の構造について

親鸞聖人は煩悩の身を生きる者を凡夫といわれていました。「凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとえにあらわれたり。」(『一念多念文意』真聖p545)と凡夫の心の内実を自身の身の上に於いて明らかに指し示してくださいました。この心の状態は日常的に起こっているもので、私の心のあり方を言い当てられています。鋭く厳しい指摘は「ひまなくして」ということです。いつでもですね、真実を知ろうとする心を徹底的に妨げるのです。欲もおおく、貪欲です。怒り、腹立ち、そねみ、妬む心は瞋恚ですね。それが臨終の間際まで絶えず、きえずといわれていました。煩悩の天敵は求道心・菩提心なのです。真実を知られたくないのです。ですから徹頭徹尾真実をしろうとするこころを妨害します。そして真実でないものを真実と思い込ますのでね。私はそれを頼りに生きているのです。この間の事情は善導の二河白道の譬えが絶妙に語っています。「月日は百代の過客にして、いきかう年もまた旅人なり」といわれますように人生は当てのない放浪の旅のようです。その中から一筋の光を求めて自分探しをするのも人生の大切な事ではないかと思うのです。自分探しをする時「自己とは」という問いの前に道を塞ぐように貪・瞋の煩悩が行く手を遮るのです。私の人生の中で初めて具体的に煩悩が問題になるのですね。二河白道は貪・瞋の煩悩を水火の譬えで言い表しているのです。「一切往生人等に白さく」と。求道心を持って道を歩む人ですね。真実を求めて歩いた途端、自分の中から障碍する貪・瞋の煩悩が頭をもたげてくるのです。ですから私の中から「能生清浄願往生心」(能く清浄なる願往生の心を生ぜしむる)が起こって来るわけは無いのです。「生ず」とは云われていませんね。「生ぜしむ」と云われ、ここに法蔵願心を思わずにはおれません。「設我得仏・若不生者・不取正覚」という願心ですね。私が目覚めるまで、どこまでも、地獄のそこまでも、あなたと共に流転していきましょう、という願心に限りない慈愛を感じますし、限りない恩徳を感ぜずにはおれないのです。親鸞聖人はこの「心」を「無上の信心、金剛の真心を発起するなり。これは如来回向の信楽なり。」と如来回向の信を明らかに指し示してくださいました。「一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染(えあくおぜん)にして清浄の心なし。虚仮諂偽(こけてんぎ)にして真実の心なし」(真聖P225)は私のことを言い当てているのですね。この心に「今」決着をつける時なのではないかと思います。決着をつけた時、一つの白道が開かれてくるのではないでしょうか。この道を歩めというわけですね。なぜかといいますと、「我今回らばまた死せん、住まらばまた死せん、去かばまた死せん」と。いずれの道を選んでも「死」とまぬがれることは無いと云うことです。仏法不思議といいますが、聞法の縁ははかりしれないのです。縁無量ですね。よき人とのち値遇によって「我が身」が問われることになるのです。この時、死の問題が眼前に迫ってくるのです。死の問題はイコール生の問題であるわけです。生きることの意味が問われているのです。三定死の眼差しから歩むべき道が見いだされるのではないかと思います。それが「往生極楽の道」を問うということであり、「すでにこの道あり、必ず度すべし」ということに頷くことなのではないでしょうか。そして「我寧くこの道を尋ねて前に向うて去かん」という歩むべき道が定まるのです。「本願力にあいぬれば/むなしくすぐる ひとぞなき/功徳の宝海みちみちて/煩悩の濁水へだてなし」

       『二河白道の喩』(真聖P219~220)

「忽然として中路に二つの河あり。一つにはこれ火の河、南にあり。二つにはこれ水の河、北にあり。また一切往生人等にまうさく、いまさらに行者のために一つの譬喩を説きて、信心を守護して、もつて外邪異見の難を防がん。なにものかこれや。たとへば人ありて、西に向かひて行かんとするに、百千の里ならん。忽然として中路に見れば二つの河あり。一つにはこれ火の河、南にあり。二つにはこれ水の河、北にあり。二河おのおの闊さ百歩、おのおの深くして底なし、南北辺なし。まさしく水火の中間に一つの白道あり、闊さ四五寸ばかりなるべし。この道、東の岸より西の岸に至るに、また長さ百歩、その水の波浪交はり過ぎて道を湿す。その火焔(焔、けむりあるなり、炎、けむりなきほのほなり)また来りて道を焼く。水火あひ交はりて、つねにして休息することなけん。この人すでに空曠のはるかなるところに至るに、さらに人物なし。多く群賊・悪獣ありて、この人の単独なるを見て、競ひ来りてこの人を殺さんとす。死を怖れてただちに走りて西に向かふに、忽然としてこの大河を見て、すなはちみづから念言すらく、〈この河、南北に辺畔を見ず、中間に一つの白道を見る、きはめてこれ狭少なり。二つの岸あひ去ること近しといへども、なにによりてか行くべき。今日さだめて死せんこと疑はず。まさしく到り回らんと欲へば、群賊・悪獣、漸々に来り逼む。まさしく南北に避り走らんとすれば、悪獣・毒虫、競ひ来りてわれに向かふ。まさしく西に向かひて道を尋ねて去かんとすれば、またおそらくはこの水火の二河に堕せんことを〉と。時にあたりて惶怖することまたいふべからず。すなはちみづから思念すらく、〈われいま回らばまた死せん、住まらばまた死せん、去かばまた死せん。一種として死を勉れざれば、われ寧くこの道を尋ねて前に向かひて去かん。すでにこの道あり、かならず可度すべし〉と。この念をなすとき、東の岸にたちまちに人の勧むる声を聞く、〈きみただ決定してこの道を尋ねて行け。かならず死の難なけん。もし住まらばすなはち死せん〉と。また西の岸の上に、人ありて喚ばひていはく、〈なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ〉と。この人、すでにここに遣はし、かしこに喚ばふを聞きて、すなはちみづからまさしく身心に当りて、決定して道を尋ねてただちに進んで、疑怯退心を生ぜずして、あるいは行くこと一分二分するに、東の岸の群賊等喚ばひていはく、〈きみ回り来れ。この道嶮悪なり。過ぐることを得じ。かならず死せんこと疑はず。われらすべて悪心あつてあひ向かふことなし〉と。この人、喚ばふ声を聞くといへども、またかへりみず、一心にただちに進んで道を念じて行けば、須臾にすなはち西の岸に到りて、永くもろもろの難を離る。善友あひ見て慶楽すること已むことなからんがごとし。これはこれ喩(喩の字、をしへなり)へなり。
 次に喩へを合せば、〈東の岸〉といふは、すなはちこの娑婆の火宅に喩ふ。
〈西の岸〉といふは、すなはち極楽宝国に喩ふ。〈群賊・悪獣詐り親しむ〉と
いふは、すなはち衆生の六根・六識・六塵・五陰・四大に喩ふ。〈無人空迥
の沢〉といふは、すなはちつねに悪友に随ひて真の善知識に値はざるに喩ふ。
〈水火の二河〉といふは、すなはち衆生の貪愛は水のごとし、瞋憎は火のごと
しと喩ふ。〈中間の白道四五寸〉といふは、すなはち衆生の貪瞋煩悩のなかに、
よく清浄願往生の心を生ぜしむるに喩ふ。いまし貪瞋強きによるがゆゑに、
すなはち水火のごとしと喩ふ。善心、微なるがゆゑに、白道のごとしと喩ふ。
また〈水波つねに道を湿す〉とは、すなはち愛心つねに起りてよく善心を染汚
するに喩ふ。また〈火焔つねに道を焼く〉とは、すなはち瞋嫌の心よく功徳の
法財を焼くに喩ふ。〈人、道の上を行いて、ただちに西に向かふ〉といふは、
すなはちもろもろの行業を回してただちに西方に向かふに喩ふ。〈東の岸に人
の声の勧め遣はすを聞きて、道を尋ねてただちに西に進む〉といふは、すなは
ち釈迦すでに滅したまひて、後の人見たてまつらず、なほ教法ありて尋ぬべき
に喩ふ、すなはちこれを声のごとしと喩ふるなり。〈あるいは行くこと一分二
分するに群賊等喚び回す〉といふは、すなはち別解・別行・悪見の人等、妄り
に見解をもつてたがひにあひ惑乱し、およびみづから罪を造りて退失すと説く
に喩ふるなり。〈西の岸の上に人ありて喚ばふ〉といふは、すなはち弥陀の願
意に喩ふ。〈須臾に西の岸に到りて善友あひ見て喜ぶ〉といふは、すなはち衆
生久しく生死に沈みて、曠劫より輪廻し、迷倒してみづから纏ひて、解脱する
に由なし。仰いで釈迦発遣して、指へて西方に向かへたまふことを蒙り、また
弥陀の悲心招喚したまふによつて、いま二尊の意に信順して、水火の二河を
顧みず、念々に遺るることなく、かの願力の道に乗じて、捨命以後かの国に生
ずることを得て、仏とあひ見て慶喜すること、なんぞ極まらんと喩ふるなり。
 また一切の行者、行住座臥に三業の所修、昼夜時節を問ふことなく、つね
にこの解をなし、つねにこの想をなすがゆゑに、回向発願心と名づく。また回
向といふは、かの国に生じをはりて、還りて大悲を起して、生死に回入して衆
生を教化する、また回向と名づくるなり。
 三心すでに具すれば、行として成ぜざるなし。願行すでに成じて、もし生ぜ
ずは、この処あることなしとなり。またこの三心、また定善の義を通摂すと、
知るべし」と。以上