唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

煩悩ー随煩悩について

2010-01-21 23:31:56 | 心の構造について

随煩悩は根本煩悩に付随して起きる煩悩のことです。「論」には小・中・大の随煩悩として三類に分けています。「小」は各別に起きる、各々別々に働く煩悩です。「中」は遍不善つまり六識の不善の働きに必ず見られる煩悩のことです。「大」は染心に遍ずといわれ、六識と七識つまり七識全体に働くといわれているのです。不善は善にあらずということですから悪です。それに対し染心は煩悩に染まっているということですから悪でもあるし、第七識の有覆無記・無記だけれども我執に覆われているということですね。我執に染まっているのであるということです。

 『成唯識論』より.    テキストデーターベースはhttp://www.l.u-tokyo.ac.jp/~sat/
を参照(大正新脩大蔵経テキストデーターベース)

諸隨煩                                                                      諸々の随煩悩の其の相何ん。
惱其相云何。頌曰                   頌に曰く
    隨煩惱謂忿 恨覆惱嫉慳<vbr></vbr>             随煩悩とは謂く忿(ふん)と恨(こん)と覆(ふ             
    誑諂與害憍 無慚及無愧<vbr></vbr>             く)と悩と嫉(しつ)と慳(けん)と誑(おう)と
    掉擧與惛沈 不信并懈怠<vbr></vbr>             諂(てん)と害(がい)憍(きょう)と無慚と及
    放逸及失念 散亂不正知             無愧と掉挙(じょうこ)と惛沈(こんじん)と
論曰。唯是煩惱分位差別。等流性故名隨煩   不信と并びに懈怠と放逸と及び失念と
惱。此二十種類別有三。謂忿等十各別起故   散乱と不正知となり。「論に曰く」唯是れは
名小隨煩惱。無慚等二遍不善故名中隨     煩悩の分位(ぶんい)の差別(しゃべつ)なり
煩惱。掉擧等八遍染心故名大隨煩惱。      等流性(とうるしょう)なるが故に随煩悩と名
                             く。此の二十種は類別なること三有り。謂く忿等の十は各別に起こるが故に小随煩悩と名け。無慚等のニは不善のみに遍ぜるが故に中随煩悩と名け。掉挙等の八は染心に遍ぜるが故に大随煩悩と名く。

                              唯識とは                                                          唯識(ゆいしき)
聴きなれない言葉ですが、2000年以上も前から仏教の世界では連綿として伝わってきた思想です。是は「ただ識のみあり」、ただ心だけがあるということです。いうなれば心の解明になろうかと思います。「唯識」とは、私たちの苦悩の解明に心血を注いで発見した珠玉の名言です。
 ただ心のみがあるとはどういうことでしょうか。私たちは私と周りの外界(環境)、あるいは私と私とは無関係に存在すると考えている外界の二つがあると考えています。所謂、主客二元論です。具体的には私が意識してもしなくても山があり、川があると思っています。唯識はそれを誤りだと指摘するのです。では何があるのかといいますと、私の心が作り出したもの、私の心の映像(影像ーようぞう)といえるでしょうか。一つの絵画を鑑賞しても私の捉え方とあなたの捉え方は違います。山を見ても、川のせせらぎを聞いても人それぞれの捉え方があります。それは絵画があり、山があり、川があるから見ているのではありません。見ている私が作り出した映像なのです。そこにポイントをあて、心のあり方を追求してきたのが唯識といえます。中国、唐代、孫悟空でお馴染みの三蔵法師=玄奘三蔵によって天竺、今のインド、カシミール地方からもたらされたものです。弟子の慈恩大師基(じおんだいし き)とともに天竺より持ち帰った経、論を整理して『成唯識論』(じょうゆいしきろん)を編纂しました。また慈恩大師基を第一祖として法相宗が開かれました。日本には遣唐使の道昭(どうしょう)によって661年頃持ち帰られました。奈良の元興寺、法隆寺、薬師寺に伝えられ、それから717年には玄肪(げんぼう)が入唐して智周に学び734年、奈良、興福寺に法相唯識を伝えました。以来仏教徒は仏教の基礎学として、「倶舎論」(くしゃろん)とともに唯識を研鑽しました。学ぶといいましても学問として学ぶわけではありません。あくまでも学仏道として、佛になる道を学ぶのです。道元禅師も「仏道をならうとは自己をならうなり。自己をならうとは自己をわするるなり」とお教えくださっています。親鸞聖人は「念仏成仏是真宗」と、仏教を学ぶということは佛になる道を学ぶのです。佛とは「本当の自己に目覚め、その目覚めの道をお教えくださった人」と私は理解をしています。それでは私たちは、なぜ本当の自己に目覚めることができないのでしょうか。何が障害になっているのでしょうか。それを唯識を学ぶことによって明らかにしていこうとしているわけです。(「親鸞に学ぶ」HPより抜粋)