唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

阿頼耶識の存在論証 滅尽証(8)

2017-10-25 22:01:19 | 阿頼耶識の存在論証
  
 ブログの更新ができていません。ここしばらく聖典と向き合う時を持つのより先に寝込んでいます。疲れからなのですが、年度末決算からずっと忙しさが続いておりまして、特にここ二三日自分の能力を超える量の仕事が舞い込んできました。有難い事で喜ばなければならないのですが、これがですね、喜べないんです。実に勝手です。残業をして帰宅をしたら、食事をとって風呂に入って寝るだけ。これもご縁なのでしょう。嫌なら断ればいいだけの話です。それが出来んという所に、ご縁によって自我分別の心がはっきりしてきますね。
 必死ぶりの投稿です。
 護法の正義を述べ、諸部派の主張を論破します。「此れは正義を述して諸部を遮しつ」(『述記』)
 「若し微細に一類に恒に遍して、寿等を執持する識在ること有りと許さずんば、何に依ってが識は身に離れずと説ける。」(『論』第四・四右)
 (もし微細に一類に恒に三界に遍く存在し、寿等を執持する識が存在することを認めなかったならば、何の識に依って、経典には「識は身を離れない」と説かれているのか。)
 この「何の識に依って」という識は、「常に無記一類にして性変易せず、復是れ恒にして断ずること無し。體三界に遍じて処としてあらずということ無きを以て」という識こそ、第八識であり、第八識の存在を認めないのであれば、経典に説かれている「識は身を離れない」という説明がつかないことになる。大筋はこういうことだと思います。
 先の科段でも説明しましたように、滅尽定では六識は滅せられているのです。しかし滅尽定でも、「識は身を離れない」といわれていることは、六識は滅せられても、滅せられていない識が存在するというわけですね、そうでないと、滅尽定の説明ができないですね。
 「識は身を離れない」という識の定義は、
 微細である。 - 麤に対します。
 一類である。 - 動に対します。
 恒には恒相続、絶えまなく相続していること。
 遍は三界に遍く存在していること。
 そして、
 寿等を執持していること。
 寿は命根。
 等は、等取のことで、根、煖、種子を等取する。
 五色根、種子は第八識の所縁の相分ですね。これに由って、六識が滅せられている滅尽定でも、生命が宿っているのは第八識の存在があるからだと論証しているのです。生命が宿っているのは暖かさ(体温)があるということですが、生命は五根と体温によって保持されているということになります。