唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

阿頼耶識の存在論証 滅尽証(7)

2017-10-22 15:47:49 | 阿頼耶識の存在論証
 
 今読ませていただいています滅定証は、第七末那識の存在論証であります二教六理証の第四二定差別証と不可分の関係にありますので、その箇所を少しみていこうと思います。  
 第四の二定差別証は、無想定と滅尽定との相違から、第七末那識の存在を明らかにしているわけですが、もし染汚の第七識の存在が無いならば、染汚心を滅せない無想定と、一切染汚心を起こさない滅尽定との区別がつかないことになることを述べています。
 簡単に述べますと、
 ・無想定 - 外道や凡夫が修する定。無想天を真の解脱・涅槃と考えてそこに出離しようとする思い(出離想)によって六識の心の働きを滅する禅定。
 •滅尽定 - 心・心所が滅した定。止息想によって心の働きを滅して入る禅定。前七識が滅し、第八阿頼耶識は滅していないとされる。
 尚、護法は滅尽定では第七識の染汚面が無くなると云う立場ですが、安慧は第七識そのものが無くなると云う立場を採っています。
 小乗に於ては、無想定と滅尽定を無心定といい、もの二つを称して二無心定という。何故ならば、この二つの定は六識と相応する心所を滅することは同じであるからです。その体数は二十二(六つの心王と遍行の五と、別境の五と、善の十一)を定の体とし、「彼の二定の中、倶に六識を滅す、六識を滅することは同なり。」と、二つの定には、滅する心所の体数では異なることがない、という。しかし護法は、末那識の有無において無想定と滅尽定では異なりが有るとするのですが、小乗のように、末那識の存在を認めないという立場の小乗では、この二つの定に相違がなくなり同一の定となると批判しています。
 この二つの定の特色は無心定ということです。無心というところで共通しているわけですが、そしたらどこでその違いがあるのでしょうか。先に述べましたように、無想定は凡夫・外道の定で、滅尽定は聖者の定であるわけです。滅尽定は「阿羅漢と滅定と出世道とには有ること無し」といわれていますように、末那識は滅定には存在しないのです。ここで問題にされていることは、若し末那識の存在がなかったならば、この二つの定の区別が成り立たない、同じであると。
 又、この科段では染汚心が問題にされています。前科段では「意」という問題に答えていましたが、ここではその意について「染汚された意」として取り上げられています。『摂論』巻第一に「無想定は染意の所顕にして滅尽定には非ず。若し爾らざれば此の二種の定は応に差別無かるべし。」(染汚された心が存在すると知ることができるのか、もしこの心がなかったならば、「意」という名に意味がなくなってしまう。そして、無想定と滅尽定との区別がなくなってしまう。なぜかというと、無想定は染汚された心から現れるものであるが、滅尽定はそうではない。もしそうでないとすれば、このふたつの定に区別がなくなってしまうのである。)無想定には染汚の意が有り、滅尽定の場合には、染汚である限りの末那が滅せられるところに成り立つのです。末那識を認めなかったならば、二定を区別する根拠がなくなってしまう、ということを批判しているのです。
  『倶舎論』による無想定と無尽定の解釈は、
 前半は、無想定についてです。無想定を修した果(異熟果)として無想天という色界第四禅天の中の広果天に生れると説いています。この天に生れると、五百大劫の間無心となる、と限定されているわけです。外道・凡夫はこの無想天を真の涅槃処と誤認して、ここに至らんとするのでしょうが、これは疑いなのですね。「生死輪転の家に還来ることは、決するに疑情をもって所止とす」と、迷いから一歩も出るものではないと。しかし、誤認しているけれども、解脱を求める心にかわりはないのですから、有漏であっても、善であり、異熟ですから無記なのです。第四静慮地を涅槃地と錯誤しているわけです。
 無想定は色界第四静慮を所依地としています。善であり、無想天は異熟果であるから、無記性であることを述べています。無想定は何れの受に順ずるのであるのかというと、唯順生受である、と。若し一度この無想定を修すると、次の生に無想天に生ずるとされ、決して見道に入ることが出来ないので、この無想定は凡夫の起こす定であり、聖者の起こす定ではないとされます。ただ無心に変わりはないのですから、初得の時は一世を得し(法倶得(ほうぐとく)-善でもなく悪でもない無記の法を得るありよう)、後、第二念以後には法後得(ほうごとくー善悪の法が過去に滅した後、その法を人が得るようなありかた)もあるけれども、無心であることから、法前得(ほうぜんとくー人が善悪の法を得るようなありかた)は無いとされます。三種の得が述べられています。法前得・法倶得・法後得です。
 後半は滅尽定についてですが、『論』の記述は、
 「滅尽定も亦然り、静住の為なり、有頂なり、善なり、二受と不定となり、聖なり、加行に由って得す。成仏得なり、前に非ず、三十四念なるが故なり。」と。
 滅尽定はどうかというとですね、滅尽定もまた無想定と同様に無心であるということです。先にも述べましたが、無想定は出離想作意を先として解脱を求め修するのですが、滅尽定は止息想作意を先として静住する為に止息想を修するといわれています。無色界第四有頂天を所依地としています。これも亦善であり、何受かというと、二受(順生受・順後受)と不定(順不定受)である。聖者の修する定である、と。
 無想定の所依地は色界第四静慮     
 滅尽定の所依地は無色界第四有頂天
 共に三性では善性です。
 二定の同異については、共に不相応行であり、無心定であり、異熟果を招く、性は善である、そして加行得であるという点では同である。二定共に欲界と色界とで起こる、無想定は欲界・色界で初起するといわれるが、滅尽定の初起はただ人中であるという。
 相違点は、無想定は出離想作意といわれ、入涅槃の目的で入定するが、
 滅尽定は止息想作意といわれ、ただ静住する目的で入定する。
 末那識の存在がなかったならば、二無心間の差異もないことになる、という一段が説明されているのですが、末那識の染汚性の有無が問題とされているわけです。無想定前六識を滅しているけれども、末那識の染汚性を滅していない為に外道や凡夫は、無想定を真の涅槃と考えて無想天に生れようと修するのです。真宗の教えを聞いていてもですね。こういう問題があるのではないでしょうか。浄土を実体化して、そこに生れたい、蓮の台に座って悠々自適に暮らしたいという思いですね。このいう時の聞法は無想定で、その果は無想天なのでしょう。しかし滅尽定は末那識を滅した定なのです。ですから、聖者は、滅尽定が涅槃の寂静に似ている為に、滅尽定に入ることを欣うのである、と。
 「此れ若し無くんば、彼の因も亦無かるべし。」(『論』第五・十三右)
 (此れ(末那識)が、もし無かったならば、彼(加行の区別)の因もまた無いであろう。)
 加行の区別が生じる根拠である六識の有漏・無漏の別もまた末那識によるのである、と。
 結論は、
 「是の故に定んで、別に此の意有るべし。」(『論』第五・十三右)
 (このようなことから、必ず、他の識とは別に、この意(末那識)は存在するのである。
 このことは、私の現存在に即して述べていると思います。実際には末那識の可否によって、滅定と無想定の区別がり、加行や三界・九地・依身の区別が有るのですね、そうしましたら、末那識の存在が無かったならば、これらの区別はないことになります。原因・根拠もないことになるわけです。しかし、実際には、これらの区別はあるわけですから、現実に即して末那識の存在が証明されていると思うのです。
 この二定の相違は末那識の有無によるのです。無想天は凡夫の望む世界ですね。いうなれば無我夢中の中に身を置く状態でしょう。夢は覚めるものです。元の木阿弥という、これは無心ではあっても、無心の下で我執の染汚性をもつ末那識が働き続けているからなのです。そうですから、聖者は無想定を厭い、滅尽定を欣うのです。末那識の存在がなかったならば、聖者はなにも無想定を厭う必要はないのです。
 無想天は、すでに説明していますように、色界第四静慮・第三広果天の高勝処にある天といわれています。無想定を修して生れる天です。三界は虚妄顛倒処といわれますように、迷いの境界ですから、たとえ六識が滅せられているとはいえ、有漏であって迷っている存在なのです。これはとりもなおさず迷いを生じさせる働きを持つ末那識の存在があるということの証明になるのです。
 小乗諸部派の主張では、無想天や無想定には末那識は存在しないと述べています。末那識の染汚性(我執)は存在しないはずであるから、涅槃と同じ状態になり聖者が訶し厭うことはないことになる。しかし聖者が無想天を訶し厭うということがあるのはどうしてなのか、という問いが出されているのです。その答えが聖者が無想天を訶し厭うのは我執が有るからであり、末那識の染汚性が存在していることの証明になるということを明らかにしているのです。
 六識相応の我執は、五位無心に於て、「意識は常に現起す。無想天に生れると及び無心の二定と睡眠と悶絶とをば除く」と述べられています。意識は常に現行しているのですが、例外が有るのですね。それが五位無心といわれていることなのです。ですから、小乗のように六識のみを論ずるなら、五位無心においては、我執は存在しないことになるのですね、そうしますとね、凡夫であっても、涅槃・解脱と同じような我執の無い状態ということになってしまうのです。それに対し、末那識は「恒審思量」といわれていますように、間断することがないのです、恒に審らかに阿頼耶識の見分を対象として我であると執着する働きを持って心を染汚しているのです。そうしますと、小乗では説明がつかなかったことが、末那識の存在を認めることに於て明らかになると説明します。
 五位無心が述べられる中で、睡眠と悶絶ですね、極重睡眠と極重悶絶の時は無心であるといわれていますが、この時に末那識の存在がなかったならば、染汚心が滅せられて無漏の状態になったといわなければなりません。しかし、そうではないということが説かれているわけです。染汚の第七識は存在し我執相続しているのである、と。
 『述記』に「六識無きことは亦二の解有り。一には一生の長時なり。二には初・後を除く故に長時と言う。」と解釈されていますが、
 「一生の長時なり」というのは、無想天に生れた有情は、一生を通して心心所を滅すという意味なのですが、凡夫なのですね。夢から覚めるということが起こるのです。無想果から没してまた欲界に生れるといわれていますね。一生の間、第六意識の心心所を滅しているとはいえ凡夫である、と。無心であっても染汚である、我執が働いているのであるということだと思います。
 この科段を参考として、元に戻りますが、護法の正義を述べて、小乗諸部派が主張します六識のみの論証を論破していきます。一言でいいますと、「何に依ってか識は身に離れずと説ける」ということに答えているのです。