唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

初能変 第五 三性分別門 (5) 別答 (三因をもって答す。その第三の因。)

2015-10-30 23:16:59 | 初能変 第五 三性分別門
 

 第三の理由が述べられます。(「第三因に云く」(『述記』)
 「又此の識は是れ所熏性なるが故に、若し善と染とならば、極めて香と臭との如く、熏を受けざるべし。」(『論』第三・五右) 
 「述して曰く、前に已に説けるが如し。唯だ、無記性なるは熏習を受くべし。薩多婆等若し復難じて言はん。熏習の識無しと云はば、亦た何の過か有る。」(『述記』第三末・三十一左)
 「前に已に説けるが如し」、熏習について、所熏の四義・能熏の四義が説かれていました。熏習論につきましては、2014年4月23日~26日、所熏の四義(経験の蓄積される場所を明らかにする)につきましては、2014年4月28日~5月02日の投稿を参照してください。
 第八阿頼耶識は所熏処であることが既に考究されていましたように、第八阿頼耶識は現行識の熏習を受ける所熏の識なんです。現行の識が能熏になります。阿頼耶識に経験の種子を植え付ける働きをもつものです。そして植え付けられる場所が所熏処である阿頼耶識なんですね。阿頼耶識が善もしくは染であるならば、熏習を受けることは出来ないと言っているのです。熏習を受ける性質をもっていることが所熏性ということになります。
 喩が出されています。
 「極めて香と臭との如く、熏を受けざるべし。」と。これは、阿頼耶識が善或は染という独自の性質を持ったものであれば熏習しないということを述べているわけですが、「極めて」とありますから、麝香とは沈香といういいお香は心を浄化する働きをもっているわけですから、そこに臭(悪臭)をもった臭いを染み込ませることは出来ないですね。つまり、心を浄化する働きを持っているお香に、心を散乱させる悪臭を熏ずる(染み込ませる)ことは出来ないんだと。また、悪臭に薫香することもできないであろうと、阿頼耶識が善という性質、或は、染(悪)という性質のものであれば、この喩と同様になり、熏習を受けることはない、と。阿頼耶識は善であれ、悪であれ、無記であれ、すべてを受け入れる所熏処でありますから、無記という性質を持ったものなんですね。
 私たちは、このような無記という性質の上に、善悪の種子を植え付けているのだと教えているわけです。
 熏習することがありませんから、
 「熏習無きが故に、染浄の因果倶に成立せず。」(『論』第三・五左)
 「述して曰く、此れ論主の答。・・・若し熏習無くんば染浄の因・果倶に成立せず。既に熏習無くんば即ち種子無くなんぬ。種子若し無くんば即ち是れ因無くなりぬ。因既に無くなりぬるが故に其の果も亦無くなりぬ。」(『述記』第三末・三十一左)
 熏習することは無いと説いているわけですから、熏習がなかったなら因果は成立しないわけです。現行熏種子、現行が因、熏種子が果という因果関係が不成立になるわけです。私たちは無記性の上に善悪を植え付けていきますから、還滅が成り立っているのですね。菩提・涅槃と流転は果ですね。因である現行が問われてくるわけです。
 このような問いが出されてきた背景には、有部の教説があるのですね。有部は「所熏の識など無くてもいいではないか」という論難に対して、論主が答えるという形をもって対論されているのです。熏習がないと、染浄の因果が成立しなくなる。」と。
 「故に此は唯だ是れ無覆無記なり。」(『論』第三・五左)
 私達、人間の迷妄の事実から見つめられてきた問いだと思いますね。私は何故悩み苦しんでいるのか。悩みにも、苦しみにも意味があるということでしょう。大きな意味を持って生まれてきたということなのでは。苦から目覚めへ、、「しかれば、念仏もうすのみぞ、すえとおりたる大慈悲心にてそうろうべきと」。阿頼耶識は無覆無記であるからこそ言えることではないでしょうか。
 

初能変 第五 三性分別門 (4) 別答 (三因をもって答す。その第二の因。)

2015-10-30 00:03:33 | 初能変 第五 三性分別門
 

 font size="4">第二の理由が述べられます。
 「又た此の識は是れ善と染との依なるが故に、若し善と染とならば互に相い違へるが故に、二が與に倶に所依と作らざる応し。」(『論』第三・五右) 
 「述して曰く、此の識は既に是れ果報の主として、善染法の所依止と為り、既に恒に是れ善ならば悪が依と為らざる応し。是れ悪ならば亦善が依と為らざるべし。互に相違せざるが故に。」(『論』第三・五右)
 第八阿頼耶識が無覆無記であるには三つの理由があることの第二の理由を示しています。此の識、第八阿頼耶識は七転識の所依である。第八阿頼耶識に依って前七識は善・悪・無記の所依止と為る。つめり、第八阿頼耶識を所依として善・悪・無記のいずれの心にも転じ得る。しかるに、若し所依の第八阿頼耶識が善または染であるならば、つまり、恒に善であるならば、悪の所依にはならないであろうし、もし悪ならば善の所依とはならないであろう。互いに相違し合って三性の識が生ずることができなくなる。
 私達のいのちの依り所は第八阿頼耶識なんですね。ここは非常にわかりにくいところだとはおもいますが、命の根底に在って命を支えているのが阿頼耶識なんです。ですから、阿頼耶識は能蔵・所蔵・執蔵という意義を持つものであると説かれているわけですね。そして三蔵を依り所をして現実の心は動いているわけです。迷うことも、菩提を求めることも、第八阿頼耶識が無覆無記であるから行い得ることができるわけです。もし、阿頼耶識が善なる性質であるならば、悪行をするはずはないのですね。深く言えば、業縁が成り立たないのです。悪を為すことはなく、迷うということもないわけです。
 面白ですね、私たちは苦悩のない世界を求めて彷徨っているわけです。苦悩があるから清らかなに禅定の世界を求めることが出来るのですが、阿頼耶識が善性でありましたら、迷うことがありませんから意味をなさないですね。その逆は、もし阿頼耶識が恒に不善であるとしまうすらば、菩提を求めるということが起こってこないのです。「人生楽あれば苦もあるさ」は無常を教えているのですね。有為有漏の存在であるということを教えているわけです。私たちにとって無常は苦以外にないわけでしょう。その証拠に、いつでも若々しく、地位も財産も名誉も失うことなく、できれば死を迎えることなく生きていたいとの望んでいるのではないですか。ここが鍵になりますね。僕にとってはですよ。生きていることは、こうありたい、ああなりたいと思っているわけでしょう。これが菩提を求める印なんですね。いのちの根柢が無覆無記だから、迷うことも、目覚めることも出来るわけです。迷うことにおいて慚愧の心をいただき、目覚めることにおいても慚愧の心をいただくことができるのですね。
 反面、無覆無記だから、悪行に染まるということも起こってくるわけです。しかし、私たちのいのちの根源は無常であり、無我を生きているわけです。無常を知り、無我を生きよと教えているわけですね。二の重い障礙、菩提と涅槃を障えるのは煩悩障と所知障であると教えられていました。菩提と涅槃は善悪を超えた世界ですね。善悪はいつでも退転するかもしれない対立の世界の出来事です。
 なんかね、僕の立てる場所は、善悪を超えた彼岸の世界、そこが依り所だと。不可知の世界ではありますが、竊に推求すれば「ここに帰ってこい。ここが汝の居場所だ」と。浄土の世界からの呼び声が聞こえてくるような感じがします。
 善か悪か決定されていたら私の進むべき道は閉ざされてしまいますね。現実の諸問題から、第八阿頼耶識は無覆無記であると意味づけられているのでしょうね。