唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

初能変 第四 五受分別門 唯捨受相応 (5)

2015-10-13 22:14:07 | 初能変 第四 五受分別門
  ダンマパダ第六品第二章より

 五受分別門、唯捨受と倶なることを釈す、三の復次(三の理由)を以て釈す一段の第一の復次(第一の理由)を釈しました。
 今日は、第二の復次(第二の理由)を説明します。この科段も大変大事なことを教えてくれます。第八識と相応する受は、現縁を待たず、過去の業の果(善悪業の果)を引いて、引き受けて現在只今の生がある、これを異熟と表しています。命そのものの歩みは無記性なんです。阿頼耶識は善悪いずれでもないということなんです。本文をみてみましょう。
 「又此と相応する受は、唯だ是れ異熟(イジュク)なり。先の引業(インゴウ)に随って転じて現縁(ゲンエン)を待たず。善・悪の業の勢力(セイリキ)の任(ママ)に転ずるが故に。唯だ是れ捨受のみなり。苦と楽との二の受は是れ異熟生(イジュクショウ)なり。真異熟(シンイジュク)には非ず。現縁を待つが故に、此と相応するに非ず。」(『論』第三・四右)
 第八識と相応する受は、ただ異熟である。過去の業の果としての生であるから、現在の縁に左右されることは無い。過去の善悪業の異熟の総報として転じている。故に、第八識の受は捨受である。
 過去の結果としての自己が今の私の姿なんです。ここには善悪の価値判断は有りません。善悪を超えて過去の業を引いている、これが異熟ですね。阿頼耶識の三相の中で果相は異熟だと云われていました。三位からみると、異熟は善悪業果位になります。善悪の業果としての現在である。現在の縁によって動いているのではないと教えているんですね。本当は、苦楽のない世界を生かされているんですね。生存の在り方は五悪趣といわれているでしょう。地獄・餓鬼・畜生・人・天ですね。羅列しますと、あたかもこのような生存の主体があるように思いますが、そうではないんです。私が地獄を生み、餓鬼を生み、畜生を生み出している。それは人としての悼みだと思います。人としての自覚が、地獄の住人であるという自覚を生み出してくるのでしょう。それは阿頼耶識に出会えた証拠なんですね。たとえ地獄の住人であったとしても、苦受は無いのですね。
 では何故、苦楽の感情があるのかです。ここに真異熟と異熟生で説明されます。
 真異熟は異熟のことですが、詳しく言うと、阿頼耶識は真異熟です。真異熟の上に分別を立てて生じてくるのが異熟生。たとえば、貴賤・苦楽・賢愚・美醜などを異熟生と呼びます。苦楽等は阿頼耶識では起こりませんが、阿頼耶識の上に分別を立てていく第七末那識以上で生じてくるのです。此処が本識と転識との関係ですね。後に説明されますが、本識は無覆無記性であり、転識は有覆無記性、無記を覆っているのが執という問題です。この執を問題にしているのが仏教ですね。執が寂静無為の楽、大般涅槃界を覆っている因になるわけです。
 執から無覆無記にいこうとする方向性をもつのが聖道という在り方です。逆に、無覆無記に逆らって生きていいる在り方は、無覆無記に触れている証拠だと気づきを得て、無覆無記の動きに順ずる、「ああそうだったんだ」という在り方が浄土という在り方でしょう。
 一切皆苦は一切皆空に於いて生じてくる。仏陀が三宝印の中で、一切皆苦と教えられたのは、一切皆空の上に立てた我執を依り所にする限り、苦は必然するものである、そこを依り所にしては駄目だと教えられているのではないでしょうか。
 いのちそのものに事実に目を覚ませと促しておられるのではと思いますね。いのちそのものの事実を無量壽・無量光で指し示しておいでなっているのではないでしょうか。それは、いのちの根源からの働きに気づきを得た者の獅子吼だといえるのではないでしょうか。
 親鸞聖人は、この感慨を『教行信証』真実証文類に於いて
 「しかるに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萠、往相回向の心行を獲れば、即の時に大乗正定聚の数に入るなり。正定聚に住するがゆえに、必ず滅度に至る。必ず滅度に至るは、すなわちこれ常楽なり。常楽はすなわちこれ畢竟寂滅なり。寂滅はすなわちこれ無上涅槃なり。無上涅槃はすなわちこれ無為法身なり。無為法身はすなわちこれ実相なり。実相はすなわちこれ法性なり。法性はすなわちこれ真如なり。真如はすなわちこれ一如なり。しかれば弥陀如来は如より来生して、報・応・化種種の身を示し現わしたまうなり。」
 と教えてくださいました。
 私は、往相回向の心行とは、いのちそのものの働きである阿頼耶識であると頂いています。