唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

酒井のり子さんの謝罪会見について

2009-09-20 20:04:47 | 依存症

覚せい剤にまみれてしまったノりピー。覚せい剤の誘惑に負けてしまったのですね。しかしこれからが大変。謝罪会見で見せた涙は本物だったと言わしめてください。これは意識と無意識の闘いになります。意識では「もうx絶対にやらない」と決めていても、心の深いところにある誘惑、この誘惑は過去の経験を蓄積し、すべて取捨選択することなく取り込んでいるのですね。ちょうど私なんかは夏のとても暑い日など仕事が終わるのを待ちわびて、のどの渇きを潤すためのビールが待ちこがれているような誘惑があるのです。まして一度覚せい剤の誘惑に負けてしまったらその魅力を知っている心の渇きが誘いをかけてくるのです。心の深いところでは私の知らない私をコントロールしている心の渇きがあるのですね。この渇きを潤したい・潤したいと誘惑してくるのです。この誘惑を断ち切るためにはこの渇きがどこから来ているのかを見極めないといけません。覚せい剤があるから手をだすのではないのです。覚せい剤に限りませんが私の心の飢え・渇きが求めるのです。酒井さんにとっては今、自分を厳しく見つめるという目が必要なのではないでしょうか。しかし自分で自分を見つめるということとは不可能です。闇を晴らすのが光であるように、酒井さんには今「光」が必要です。「光」とは「智慧」の形です。しかし光という実体的なものはありません。禅を組まれることもよいのかわかりませんが、私は親鸞の語録である『歎異抄』を熟読されることを薦めます。そしてそこから「智慧」をいただくのです。「生かされてあった命に反逆をして自分の思いだけで生きてきた私」と頭が下がったとき私という呪縛から開放されると思いますよ。