『感の教学』 - ものがちがう -
安田理深述 (1)
私は話をすると何遍も繰り返すのですが、それはさまざまなことを言おうという訳ではなく、ただ一つの問題についてはっきりしたいと思う。曽我先生を通して我々はどういうことを教えられたか、端的にいってそれは感の教学というものでないかと私は思う。知るという智の教学に対して感の教学、そこに理知的には表象的にしか解らなかったものが、明証的に覚証的に始めてはっきりしてくる。これ迄遠く自己の外に対象的に捜し求めておったものが、近く自己内面の事実として見出されてくる。それもやはり知られるには違いないが、理知的に把握して知るのではなく感知する、感というのは近く内面の事実としてなるほどこれであったか、と知られることである。知るといっても主観的に構成するのではなく、ものそのものを直下に承認するまでのことである。真に直接的な最も具体的な知り方が感知、近いものも理知的に対象的に知ろうとすると却って遠くを求めることになる。
近いが故に却って遠い、そういうところから感の教学というのは、親鸞に別に感という言葉が使用されてあるわけではないが、感情感情という現代語は如何にも新鮮な迫力をもつ。
私では実は先生の教学を親鸞の教学と区別して思想することが出来ない。どこ迄が先生が言われたか、どこ迄が親鸞か、そういうことは区別がつかないが、先生を通して始めて親鸞の言葉が、生気溌剌たる意味が明瞭になったということが曽我先生の感の教学、曽我教学というのは他からいうのであって、先生御自身の考えを自ら曽我教学をいっておられる訳ではない。このこと関して非常に照応的であるのが道元禅師、越前といえば道元禅師を思わずにいられないのですが、言はば知の教学というものを最も純化したもの、純粋知性の教学というものが道元禅師であるのでないか、その知は勿論単に理知的の知ではない。
却って逆の方向に於てふれられた根本的自覚としての証知である。それに対して親鸞の教学は純粋間隔であると言い得るのでないか。感覚といえば心理学の用語であるが、一般的には痛いとか熱いとか冷たいとかいう外部の感覚、そういう現代の心理学の用語をもって人間存在の自覚を表現しようというのである。
たとえば宿業という仏教語、宿業と古典には言われておるが、その意味が思想的によくわからぬ、森厳な感銘がありつつ思想的に限定された意味がどうもはっきりしない。現代に生きておる人間にとってはっきりしないうらみがある。業というのはいわば既に死んだ過去の言葉であり、それがまた多くの誤解を含む面倒な言葉である。しかも人間の現存在の厳粛さの自覚といったものを表現する極めて重要な意義をもつ言葉である。解らぬというだけで放っておけない言葉である。人間の社会的境遇は外的な運命であると、封建的身分を基礎づける一つの教理の如く考えられるほど誤解され利用されておる。その危ない言葉に生きた意味を見出してくる、危ないものは負傷することもあるけれども、またそれは深い全体的責任感の自覚に目ざますような生きた意味を含蓄していて、他に代用語を求めてみようもない言葉である。それを感覚的自覚の内容としてみるとき、古い表現の中に新しく知られてくるものがあるのではないか。とにかく業所感というが如く、業は感と結び付く言葉であって、知的理解とは異なる意味の言葉である。(十回にわけて掲載させて頂こうと思います。次回は3月4日になります。)