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唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (46) 五受相応門 (10)

2014-08-24 20:10:40 | 第三能変 諸門分別 五受相応門

 第三に、疑と三見とを明かす。(疑と邪見・見取見・戒禁取見と四受との相応について)

 五受の苦受を除く四つの受と相応することを明かす。

 「疑と後の三の見とは、四の受と倶なる容し、欲にて苦等はは無からんかと疑うときに、亦喜受と倶なるが故に。」『論』第六・十八左)

 疑と後の三見とは、苦受を除く四つの受と倶である。欲界の疑は先に悪行を作し、苦集諦無きかと疑うときは喜受と倶である。
 つまり、疑と喜受が苦であるのは、欲界に於て悪行を作りながらも、苦諦・集諦は無いであろうと疑う時には、また喜受と相応するのである、と。

 五受相応を述べながら、何故苦受を除いた四受と相応するのかという問題ですが、これは先にも論じられましたように、極苦処には苦受は存在しないという理由からなのです。即ち、極苦処には分別起の惑は存在しないが、疑・邪見・見取見・戒禁取見は分別起の惑(煩悩)であるので、疑と三つの見には苦受は存在しないと説かれている。
 しかし、極苦処である地獄よりも逼迫が軽い人・天界には苦受は存在しないが、四つの受は存在するのである。ここまでが、本科段の第一の解釈になります。

 「論。疑後三見至亦喜受倶故 述曰。第三明疑・三見。三見謂見・戒取・邪見。四受除苦。隨意有無。唯是正義。以地獄無分別惑故。」(『述記』第六末・四十左。大正43・451c~452a)

 (「述して曰く。第三に疑と三見とを明かす。三見とは謂く見と戒取と邪見なり。四受は苦を除くなり。意に随って有無なり(第六意識の分別惑は余処には有り、極苦処には無し)。唯是れ正義なり。地獄には分別の惑無きを以ての故に。」)

 次に後半の文章です。

 「欲にて苦等はは無からんかと疑うときに、亦喜受と倶なるが故に。」

 『述記』の釈をみますと、

 「逐難解云。欲界之疑先作惡行。疑無苦・集諦等。亦喜受倶故。以後苦無故。上界即無。無惡行果故。上界疑與樂受倶故。此等皆通三界總聚。有處作法故。致極成之言。」

 (「難を逐って解して云く。欲界の疑は先に悪行を作して苦集諦等なからんと疑うとき、亦喜受と倶なるが故に、後に苦無きを以ての故に、上界には即ち無し(苦なからんかと疑うとき方に喜と倶なるものは無し)。悪行の果無き故に。上界の疑は楽受と倶なるが故に。これ等は皆三界に通じて總聚を以て有る処に作法するが如し。極成の言を致す。」)

 『演秘』の釈。

 「 論。欲無苦等者。有義簡薩婆多欲疑唯憂。故顯宗二十七云。何縁二疑倶不決定而上得與喜・樂相應。非欲界疑與喜倶起。以諸煩惱在離欲地。雖不決定亦不憂滅。雖壞疑網無癡情怡。如在人間求得所愛。雖多勞倦而生樂想。疏説上界不如欲疑有喜受者。慼欲似不得此中文意。上地何故不與喜倶 詳曰。疏意説云疑無苦果方與喜倶。上無此疑。由上無造彼惡行故。故疑苦無方喜倶者。但在欲界不障上界疑得喜倶。下麁相中疏言上界疑有喜故。自義既立他計便遮。不言成矣。此自不得疏之本意。非疏不得論之意也。」(『演秘』第五末・九右。大正43・922a~b)

 (「論に、欲にして苦等は無からんかとは、有義は薩多婆(有部)の欲の疑は唯憂なりというを簡ぶが故に顕宗二十七(『顕宗論』巻二十七。大正29・908c)に、何に縁りてか二の疑(上界の疑と欲界の疑)は倶に決定せざるに、
 上は喜・楽と相応することを得ば、欲界の疑は喜と倶起するに非ずや。
 諸の煩悩は離欲地(離垢地。菩薩十地の第二の段階。過ち・破戒・煩悩を増す心を離れた位をいい、 十善道を行じることで心の垢が無くなるとされる)に在っては決定せずと雖も、亦憂慼(ウセキ・憂い)ならず。疑網を懐くと雖も、癡の情に怡(イ・喜ぶこと)すること無し。人間に在って所愛を得と求むるが如しと云えり。労倦(ロウケン・つかれくたびれていること)多しと雖も楽想を生ずと云えり。
 疏に上界には欲の疑の喜受有るが如くにあらずと説くは、欲は、此の中の文の意を得ざるに似たり。上地に何んが故に喜と倶ならざる。
 詳らかに曰く、疏の意の説いて云く、苦果無しと疑うときには方に喜と倶なり。上(上界)は此の疑無し。上は彼の悪行を造すること無きに由るが故に。
 故に苦は無きかと疑するに方に喜と倶なりというは但だ欲界に在り、上界の疑は喜と倶なることを得るということを障えず、下の麤相の中に疏に上界の疑は喜有りと言うが故に。
 自義既に立つるを以て他の計便ち遮すること言わずして成ぜり。此れ自ら疏の本意を得ず、疏は論の意を得ざるに非ざるなり。」)

 後半は、疑と喜受との相応について論じられているところです。疑と喜受はどのようなときに相応するのであるのかという問いに対して、
 「欲界の疑は先に悪行を作して苦集諦等なからんと疑うとき、亦喜受と倶なるが故に」と答えているわけです。
 欲界に於いて、(煩悩によって)悪行を行う(集諦)ことと、その結果としての報くいである苦(苦諦)は無いであろうと疑う時には、また喜受と相応するのである。つまり、苦の報いが無いと疑うので喜受を生ずるということなのですね。

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 う~ん、まさにその通りですね。心当たり大いにあります。いつもこれで苦しんでいます、後悔先に立たず。先が見えん愚かさですね。でもね、欲望の流れの中を逆らえない自分がいますのや。そんな自分の姿を写し出してくれる大悲の働きに手が合わさります。 南無阿弥陀仏

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 『演秘』の所論は、色界・無色界という上界には、悪行を造ることが無いために欲界での出来事して釈されています。但し、上界で疑と喜受が相応しないというわけでもない。
 


第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (45) 五受相応門 (9)

2014-08-23 12:18:56 | 第三能変 諸門分別 五受相応門

 今日は午後七時半より大坂坊主バーにスタッフとして勤めさせていただきます。皆さまのご来店よろしくお願いいたします。

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 慢についてまとめてみますと、慢という心所は、

 

 『論』に、「己を恃(タノ)み他に於て高挙(コウコ)するを以て性と為し、能く不慢を障え、苦を生ずるを以て業と為す。」(『論』第六・十三右)という心所であると説かれています。

 

 詳細につきましては、2014年3月22日~3月27日の投稿を参照してください。今回は本科段に於ける『樞要』の所論を聞いてみます。

 「 慢有二種。一高擧。二卑下。高擧有三。一稱量。二解了。三利養。以卑下慢與憂相應。高擧不爾。故前所説不與身・耶一分倶。此與憂倶。據卑下説亦不相違 正義若地獄無分別煩惱。應無因力斷善者死時續等。解云。勢力不生。非因邪見 五十九云。於利養等他引猶預疑與憂相應。於惡趣等他引猶預喜根相應。邪見先作妙行憂根相應。先作惡行喜根相應。二取隨境故四受倶。五十九中但依欲界疑・邪見等説。此通一切地。故與樂相應。」(『樞要』巻下・四十左。大正43・644a)

 (「慢に二種有り。一に高擧(コウコ)、二に卑下(ヒゲ)なり。高擧に三有り。一に称量(ショウリョウ)・二に解了(ゲリョウ)・三に利養(リヨウ)なり。卑下慢は憂と相応するを以て、高擧は爾らず。故に前に説く所の身と邪との一分と倶にあらず。此に憂と倶に卑下に據って説く。亦相違にあらず。正義は若し地獄は分別の煩悩無しと云はば、まさに因力を以て善を断ずるは死の時に続く等無かるべし。解して云く、勢力を以て生ぜずとは邪見に因るに非ず。五十九に云く、利養等に於て他に引いて猶預する疑と憂と相応す。悪趣等に於て他に引いて猶預するは喜根と相応す。邪見は先に妙行を作すとならば憂根と相応す。先ず悪行を作すならば喜根と相応す。二取(見取・戒禁取)は境に随うが故に四受と倶なり。五十九の中には、但だ欲界に依って疑と邪見等とに説く。此は一切地に通ずと云う。故に楽と相応す。」)

 貪と慢との関係(倶起)

  貪は、他を愛するから起こる。 - 慢は他を凌蔑するから起こる。
     自を愛するから起こる。 - 自を高挙するから起こる。

 瞋と慢との関係(不倶起)

  瞋は、憎しみの対象に対して起こるに対し、慢はそうではない。

 慢と他の煩悩との関係(不倶起でもあり、倶起でもある)

  疑とは不倶起。疑は不決定の境に対し、慢は自に対するものである。
  我見の内、苦しい自己の場合は慢とは不倶起であるが、楽しい自己の場合は倶起する。
  邪見の内、苦の因果撥無の時は倶起せず、楽の因果撥無の時は倶起する。
  辺見の内、断見とは倶起せず、常見とは倶起する。見取見と戒禁取見とは倶起する。

 慢と五受との関係

 第一師 - 慢は苦受を除いた四受と相応すると説く。
 第二師(護法正義) - 慢と五受は相応すると説く(五受相応説)。倶生起の慢が苦受と相応するのであると説き、分別起の慢と五受との相応については、地獄には、そもそも分別起の煩悩が存在しないために、地獄には分別起の慢は存在しないという。ただ、地獄を除いた処では慢と五受とは相応すると説かれるのである。厳密には、倶生起の慢は五受と相応し、分別起の慢は苦受を除いた四受と相応するということになります。

  •  称量 - 「自と他との徳類の差別を称量(推し量って)して、心自ら挙恃(コジ・自らを勝れた者として誇ること)し、他を凌蔑するが故に名づけて慢と為す。
  •  解了 - 理解すること。知るべき対象において思考をすること。自と他を比較して、自が勝れていると理解する。)
  •  利養 - 利益。利益を得ること。執着する対象。自に執着を起こし、他を蔑むこと。

第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (44) 五受相応門 (8)

2014-08-22 23:45:19 | 第三能変 諸門分別 五受相応門

 「然も彼)(カシコ)には悪趣を引く業をば造らず、要ず分別起を以て能く彼をば發すが故にと云う。」(『論』第六・十八左)

 彼は、地獄を指しています。純苦処です。純苦処では、悪趣を引く業(総報業)を造らない。何故ならば、純苦処には分別起は存在しないという大前提があります。よって悪趣の業を造るのは分別起を以て起こすと説かれていることからですね、総報は造らないということになります。

 「論。然彼不造至能發彼故 述曰。所以者何。五十九説要分別煩惱發惡趣業故。此據總報多分爲論。其別報者修道亦發。故五十九分別慢等不言與苦相應。下疑等准此應知。故知前師彼趣有分別煩惱。前生勢力故。即造惡趣業也。與對法第七。五十五違。此文皆如貪等會。」(『述記』第六末・四十右。大正43・451c)

 『述記』には「所以者何」(所以は何ん)と、「地獄では、悪趣を引く業を造らない」という理由を述べていますが、教証として『瑜伽論』巻第五十九を挙げています。

 (述して曰く。所以は何ん。五十九に要ず分別の煩悩が悪趣の業を發すと説くが故に。此は総報に拠って多分を以て論を為せり。(「悪趣を引く業」とは、悪趣の総報を引き起こす發業は分別起の煩悩である。)その別報とは、修道も亦た發すが故に。五十九に分別の慢等は苦と相応すと言わず、下の疑等も此に准じて知るべし。故に知る。前師は彼の趣に分別の煩悩の前生の勢力あるが故に、即ち悪趣の業を造るなり。対法の第七、五十九と違す。此の文は皆貪等の如く計すべし。」)

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 『阿毘達磨雑集論』巻第七・決択分諦品第一の二に

 「又十煩悩は、皆滅(滅諦)と道(道諦)とに迷い、諸の邪行を起す。此に由りて、能く彼の怖畏(フイ)を生ずるが故なり。

 所以は何ん。煩悩の力に由りて(倶生起の我執)生死に楽著し、清浄の法い於て懸崖(ケンガイ)の想を起して大怖畏を生ず。又諸の外道は滅諦と道諦とに於て、妄りに種々の顚倒分別を起す。此の故に十惑(十の煩悩)は、皆滅と道とに迷い諸の邪行を起す。」

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 私たちが生きるのには、必ず所依をもっています。それは二つしかないんです。一つは煩悩(根本我執)。もう一つは清浄の法です。そして根本我執の勢力が非常に強いのですね。ですから、我執の赴くままが、人として安らぎの場と錯覚を起こしてしまうのです。それが、「妄りに種々の顚倒分別を起す」と説かれているのです。


第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (43) 五受相応門 (7)

2014-08-21 22:31:04 | 第三能変 諸門分別 五受相応門

 護法正義を述べていますが、護法は前科段において、先ず倶生起の慢は苦受と相応することを述べました。では、分別起の慢と五受との相応はどうなるのでしょうか。この問いに対して、本科段は答えます。

 「分別の慢は純苦趣(ジュンクシュ)には無し。彼(カシコ)には邪師と邪教との等(ゴト)き無きが故に。」(『論』第六・十八右)

 分別起の慢等は、純苦趣(地獄)には存在しない。なぜなら地獄には、邪師や邪教等は存在しないからである。

 ここで、僕は前から問題となっていたことがあるんです。「唯識無境」が大前提ですよね、そして仏教は内観の法である、と。そうしますと、『論』の記述はどのように読んだらいいのでしょうか。邪師・邪教は外に存在するとしたら、「無境」ではなくなりますし、外界の存在が自己を既定することになりはしませんか。

 『論』の記述は「仮」にですね。仮に説く、ということなのでしょうね。仮説が非常に大切な概念になるんだと思います。そのように説かなければ有情は理解できないんだと。仮を通して実に触れよという催促ではないかなと思っています。

 本科段の主旨は、

 (a) 地獄の中では、分別起の、慢は存在しない。
 (b) 分別起の慢を作る、邪師・邪教等が存在しないからである。

 地獄には、分別起の煩悩を作る邪教や邪師や邪思惟が無いから、地獄には分別起の煩悩は存在せず、五受とも相応しないということになります。

 ここは大切な所だと思いますが、三毒の煩悩(貪・瞋・痴)は分別起ではないということです。ですから、地獄には分別起の慢は存在しないというのが、護法正義になります。

 また、地獄を除いた、分別起の煩悩には、苦受を除いた四つの受と相応するということにもなります。

 

 「 論。分別慢至邪教等故 述曰。其地獄中與苦相應。於總聚中。但有得一切受相應義。非一切慢皆得相應。無分別慢等。即等一切分別貪・瞋・癡・疑・邪見・見・戒取等。以無邪教・邪師・及邪思惟故。」(『述記』第六末・四十右。大正43・451c)

 

 (「述して曰く。其の地獄の中は、苦と相応す。總聚の中に於て、但だ一切の受と相応することを得る義有り。一切の慢は皆相応することを得るに非ず。分別の慢は無しと云わん。等とは、即ち一切の分別の貪・瞋・癡・疑・邪見・見・戒取等を等(取)す、邪教・邪師及び邪思惟無きを以ての故に。」)

 そもそも、地獄の中には分別起の慢は存在せず、従って苦受とは相応しないというところの、地獄とは何を指しているのでしょうか。

 ここはですね、本当の苦しみと云うのは、分別起ではないということを表していると思うんです。生まれてからのいろんな経験は自己を育てているものであって、苦を与えるものではないのでしょう。苦は教えに先立って、先天的に自己に執着を起こす倶生起の煩悩だと教えているのですね。

 成人するまでは、親の庇護のもとで育てられていますから、親の躾の如何が大きくその子の人生を左右するものでしょうが、成人してからの、自分の人生は自分で切り開いていく、成人するまでの過程が縁となって、自己責任のもとで一歩一歩進んでいくのではないでしょうかね。この過程は分別起そのものですね。しかしですね、その背景に倶生起の煩悩が働いていると同時にですね、倶生起の煩悩と倶に如来の大悲ですね、命の救済が働いているということなのでしょうね。分別起に如来の大悲が働いているのでは無いということだと思います。根本的な命そのものへの大きな眼差しが大悲として語られているのではないでしょうかね。


第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (42) 五受相応門 (6)

2014-08-19 22:29:11 | 第三能変 諸門分別 五受相応門
 

護法正義を述べる。

 「有義(護法)は、倶生のは亦苦とも倶起す、意に苦受有りということは、前に已に説きてしが故に。」(『論』第六・十八右)

 第二師の説は護法の正義である。護法は、倶生起のものは苦受とも倶起する、と。意識に苦受があるということは、前(巻第五)にも既に説いたからである。

 (巻第五の記述・概略)

 「護法の説(正義) - 五段階に分けられる。(1)標宗 (2)引証 (3)立理 (4)会通 (5)総結であり、その(1)がさらに二つに分けられ、初めに逼迫受の軽い所における受について、後に重い所の受について述べる。

 これを『述記』には「下は護法等第二師の説なり。文の中に五有り。一に宗を標し、二に証を引き、三に理を立て、四に違を会し、五に総じて結ぶ。人と天との逼迫軽にして尤重に非ざるが故に、意に在るは唯憂受なり。鬼・畜処は通ぜり。(鬼・畜が)若しただ苦処ならば地獄と相似せり。五十七の地獄と同なりと説けり。純ら受けて重きが故に。若し雑受処ならば喜・楽も有る容し、況や復憂無からむや。雑受は軽きは故に」と説明されてあります。
 
 「五十七の地獄と同なりと説けり」というのは『瑜伽論』巻五十七に「余の三(憂・喜楽の三根)は現行の故に成就せず、種子の故に成就す。那落迦趣に生ずるが如きは一向に於いてす、若しくは傍生餓鬼もまさに知るべし亦爾なりと」の文によります。つづいて『瑜伽論』には「若しくは苦楽雑受の処には後の(憂・喜・楽)三種も亦現行し成就す。問う、若し人趣に生ずれば幾根を成就するや。答う、一切有るべし。人中に生ずるが如く天に生ずるも亦爾なり」と。
 
 「有義は二に通ず、人天の中には、恒に名づけて憂と為す。尤重に非ざるが故に。傍生と鬼界とのをば、憂とも名づけ苦とも名づく、雑受と純受と軽重有るが故に」(『論』)
 
 「雑受」 - 他の感受と入りまじって受ける受をいう。
 「純受」 - 他の感受がまじわらない受をいう。純受の方が、その受について重い感受となる。
 
 (意訳) 護法正義は第六意識と倶である逼迫受については、憂受と苦受の二つに通じるといいます。人天の中には、恒に憂受となす。なぜなら尤重ではないからである。また畜生と餓鬼界とのものは、憂受とも苦受ともいうのである。それは雑受と純受の軽重の差があるからである。
 
 人天は六道の中の二趣であり、この二趣は逼迫の度合いが軽く尤重ではないので、憂受となり、苦受はないことになります。そして六道の中の畜生と餓鬼界は受が混在する処(雑受)と、混在しない処(純受)がある為に第六意識の逼迫受は憂受と苦受となると、護法は主張します。
 
 尚、地獄界は純受であり、尤重であり、無分別の処であるから、第六意識相応といえども苦受であるという。逼迫の重い所における受については、
 「那落迦(地獄)の中をば、唯名づけて苦と為す、純受にして尤重なり、無分別なるが故に」(『論』)
 
 「其の諸の地獄は一向に苦なるが故に唯苦のみにして憂は無し、迫ること尤重にして苦の為に逼らるを以ってなり。亦分別無し、憂は分別して方に生ずることを得るを以っての故に。
 
 捺落迦というは、此には苦器と云う、罪を受くる処なり。那落迦というは彼の苦を受くる者ぞ。故に二別なり。」(『述記』) 捺落迦と那落迦は同義語でnarakaの音写、地獄と訳す。
 
 次の項で問答があります。無分別と云われていることです。分別が無いというのは、分別の煩悩が無いのか、という問いです。それに対して、そうではないのだ、分別の惑は有る。「憂は即ち分別あり」と、憂受は分別して生じるものであって、分別が無いということは、第六意識と倶である逼迫受は分別を経ない為に、地獄には唯苦受のみであるというのである。「加行に分別あるが故に逼迫すること既に極をもって分別を假らず」といわれています。これは地獄は苦が極まった処、逼迫することが極限状態の為に分別する余地さえないからであるという、ことで押さえられています。
 
 巻第五に於る護法の説は、地獄の第六意識の逼迫受は苦受であると述べていました。2010年7月の投稿を参考にしてください。
 
 尚、巻第五では、護法は地獄でにいる有情の第六意識には苦受が存在していると述べているのは、倶生起のものであるということなのです。護法は地獄には分別起の煩悩は存在しないと云う立場を取っています。
 
 では、分別起の慢と五受との相応は如何という問題が生じてきますが、次科段において説明されます。

第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (40) 五受相応門 (4)

2014-08-17 21:08:43 | 第三能変 諸門分別 五受相応門

 本科段で説かれていることは、煩悩は我執を帯びた時に生れてくるものですね、本来は無我ですから、煩悩は無いわけです。ですから阿頼耶識には全く無しと説かれていたのですね。我執とは、我に非ざるものを我とするということですから固定化します、本来流動的なものを人為的に縛り付けるのですね、そこからの歪が煩悩なんですね。

 

 困った人を見れば助けてあげたい、憎い人をみれば怒りが込み上げてくると云う感情も、我執の影なんですね。愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五蘊盛苦という苦は、外からやって来た苦ではないということです。自分が自分で作ってきた苦である、そこに深い求道の歴史があるんですね。命がけで煩悩の正体を見破ってきたのです。ストレスにしても、自閉症にしても、精神疾患にしてもですね、或は、心的外傷後ストレス障害(Posttraumatic stress disorder)ですね、もっと言えば、あらゆるコンプレックスもですね。内観の道でしか解けないものだと思いますね。対症療法や環境を変えるといった外境の変革においては、一時的な安らぎを与えることは出来るかもしれませんが、根本的な解決には程遠いものだと思います。

      問題は、  - 我執 -  なんですね。

 我でないものを我とし、その我に執着を起こして、貪・瞋・癡の根本煩悩を引き起こし、癡から他の三見(七つの煩悩)及び根本煩悩に付随した形で随煩悩が生起してくるのですね。いうなれば、無我を我であると錯誤をおこして、錯誤された我を、実の我とし、その我を脅かすものが外なる環境であり、対象であるとして煩悩を引き起こしてくるのでしょう。対象もですね、我によって造られたものなんですね。造られたものにも執着を起こすんです。我と我所に於いてですね、我執・我所執と。「我有り」とは自我の目覚めであるかもしれませんが、執着された我という眼差しが必要でしょうね。

 もっと深く言えばですね、我執は第六意識相応なんですね、そしてその第六意識相応の我執を成り立たしめているのが、深層意識である、第七末那識なんです。それを根本我執と。その根本我執と云う所に、閉じられた心の解放されるヒントが隠されているように思いますね。

 ですから、煩悩の分析は、私が(我)という、執われた心の分析、我執の深さを抉り出してくる作業なんだと思います。

 そしてそれらのすべてを取捨選択することなく平等に受け入れている心の働きが、お一人お一人の中に働きとして動いている、それが阿頼耶識と表現されているわけですね。阿頼耶識は純粋であるためにですね、すべての経験を引き受ける働きを持ち、引き受けた過去の経験を捨てることなく、人格形成の上に大いなる役割をはたしつつ、純粋であるが為に、我によって執着され、白いものが赤に染まり、或は青に染まり、あるいは紫に染まり、或は黄に染まってしまうのですね。染めたものは我執です。阿頼耶識は執着されるところでもあるのです。わたしが、わたしが(我)といって、私の中に働いている純粋意識を染汚しているんです。自分で自分を汚しているんですね、それによって苦しんでいる。こういうところの心の構造を知ると言う言も非常に大切なことであろうかと思います。

 今日は前に進むことは出来ませんでしたが、私たちは何か大切なことを見失っているのではないかなと思うわけです。


第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (39) 五受相応門 (3)

2014-08-16 16:23:31 | 第三能変 諸門分別 五受相応門

 昨日の坊主バーは、早くから京都(某)大学四回生の女子五人組グループがお見えになり、また多くの方のご来店もあって、仏教談義の中、有意義な一日を過ごさせていただきました。有難うございました。お盆の期間中ということもあり、『盂蘭盆会経』(偽経)から、目連尊者のお話をさせていただきました。

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 部派では認めていない、貪が憂受や苦受と相応すると云う問題点を会通します。

 「貪は違縁(イエン)に会えるときには、憂苦(ウク)と倶(ク)なるが故に、瞋は順の境に遇えるときには、喜(キ)と楽(ラク)と倶なるが故に。」(『論』第六・十八右)

 貪は違縁(心に違う縁)に会う時には、憂受や苦受と相応するからである。
 瞋は順の境(心にかなう対象)に遇う時には、喜受と楽受と相応するからである。

 貪欲は対象を貪り執着する心所ですね。対象を貪るということは、対象をみて貪着を起こすことを喜ぶ心所でもあるわけです。それに違う縁に会うことは、対象を貪ることが出来なくなるわけですから、憂受・苦受を必然として招来するということなのですね。

 貪りの対象の代表は、名聞・利養・勝他ですね。これが失われることは耐え難いものなんですね。執着する対象がなくなることは、貪りが否定されることになりますからね。

 これもですね、深い問題を抱えています。正法に遇うことが無い限りですね、私は貪・瞋・癡を依り所をして生計を立てています。ですから、喜怒哀楽という感情(感受)の元は、貪・瞋・癡であるわけです。順境に遇える時は、喜び楽しいわけですが、ひとたび逆境(違縁)に遭遇しますと、一変します。心は暗く、憂い、悲しみ、そして苦痛を感じてきます。

 どうでしょうかね、我が身に引き当てて考えてみますと(?ここにはもっと深い煩悩が働いているわけですが)ああ、その通りやな、とは思うわけです。その思うのが、思量なんですね。ですから、本当は、貪・瞋・癡は見えていないのです。

 厄介なんです。納得するのも貪の働きなんですね。納得するということが一つの順境になって、納得したことを貪り、執着するという複雑さをもっています。

 『述記』・『樞要』・『了義燈』から、各々の所論を聞いてみますと、

 

 『述記』(第六末・三十九右。大正43・451b)より、

 

 「論。貪會違縁至喜樂倶故 述曰。逐難釋也。且於欲界。五・六識中憂・苦倶故。謂失財等。瞋翻此説。見怨死等。一切應知。然此五趣分別至下當知 此中意説。即五識中亦有分別所起貪等。由意分別貪等引故。不爾瑜伽分別貪等。云何與苦受相應。非許意有苦。是決定義故。由五識有分別起貪等決定故。五十九作此定説。不爾如分別慢等。彼不言苦倶故。」 

 

 (「述して曰く。難を逐(お)って釈すなり。且く欲界に於て五・六識の中には憂・苦と倶なるが故に。謂く財を失する等なり。
 瞋は此に翻じて説く。怨の死なるを見るなり。一切は知るべし。

 

 <この一段はきついですね。私たちは死者を見た時は、悲しい気持ちが働き、安らかにというでしょう、しかし、怨みをもっている人が死んだ時などは、瞋は喜受や楽受と相応すると説いているんです。つまりですね、憎い相手が亡くなった時は、嬉しいと云う感情がこみあげてくると云うのですね。楽を感じ喜びさえ感じるのである、と。>

 然るに此の五趣(地獄・餓鬼・傍生・人・天)を分別することは下に至って知るべし。
 此の中の意の説く、即ち五識の中にも亦分別所起の貪等有り。意の分別の貪等に引かるるに由るが故に。
 爾らずんば、
瑜伽に分別の貪等を、云何ぞ苦受と相応せん。
 意に苦ありと許すに非ず、是れ決定の義なるが故に。五識には分別起の貪等ありということ、決定せるに由るが故に。五十九に、此の定説を作す。
 爾らずんば、分別の慢等の如き、彼も苦と倶なりと言はざるが故に。」)

 参考 『瑜伽論』巻第五十八より

 「貪とは謂く能く躭著(タンジャク・執着、愛着すること)する心所を性と為す。此に四種有り、謂く諸見と欲(界)と色(界)と無色(界)に著するなり。
 恚とは謂く能く損害する心所を性と為す。此に復た四種有り、謂く己を損する他の見と、他の有情の所とに於ける、及び愛する所を饒益(ニョウヤク・利益を与えること)せざる所に於ける、愛せざる所に饒益を作す所に於ける所有の瞋恚なり。

・・・・・

 又、十煩悩の七(貪・瞋・癡を除く)は、唯だ意地(意識のこと。意識は他の五識にない特別の働きがあることから別に立てて意地という。)なり、貪・恚・無明は亦五識に通ず、又欲界に於ける四見(五見の中、邪見を除く他の四見のこと)及び慢は喜・捨と相応し、貪は楽・喜・捨と相応し、恚は苦・憂・捨と相応し、邪見は喜・憂・捨と相応し、疑は憂・捨と相応し、無明は一切の五受根と相応す。此は多分の相応の道理に拠る。その余の深細なるは後に(第五十九巻)まさに広く説くべし。」

 部派における受の解釈は、例えば、貪という心所における受は楽と喜と捨受であると述べている。これは巻第五十八巻の所論の通りですね。しかし第五十九に至って「我今まさに説くべし。」と、大乗の所説を述べてきます。瞋恚は、喜受と楽受とも相応することを述べています。

 『瑜伽論』巻第五十九の所論

 「貪は一時に於て楽・喜と相応し、或は一時に於て憂・苦と相応し、或は一時に於て捨と相応すと。
 問。何等の如きぞ。
 答。一(ヒトツ)あるが如き、或は楽受に於て、会遇(エグウ・遭遇すること)の愛、不乖離(フケリ・乖離していない)の愛を起こすに、而も現在前に遂に楽受に於て、会遇せざれば会遇に非ず、若し乖離(ケリ)すれば和合に非ず、或は苦受に於て不会(フエ)の愛、若しくは乖離の愛を起こすに、而も現在前に遂に苦受に於て合会すれば不合会に非ず、乖離せざれば乖離に非ず。是の因縁に由りて貪は一時に於て憂・苦と相応し、此れと相違するは喜・楽と相応す。若し不苦・不楽の位に於て味著(ミジャク・貪りを執着すること)を生ずれば、當に知るべし、此の貪は捨根と相応すと。

 恚は一時に於て憂・苦と相応し、或は一時に喜・楽と相応することあり。
 問。何等の如きぞ。
 答。一(ヒトツ)あるが如き、自然に苦の為に身心を逼切(ヒッセツ・圧迫すること。苦しめること)せられ、遂に内の苦に於て作意し思惟し、恚恨の心を發し、或は非愛なる諸行、有情、及び諸法の所に於て作意し思惟し、恚恨の心を發す、是れに由るが故に恚は憂・苦と相応す。 
 問。恚と喜・楽と相応するは何等の如きぞ。
 答。一(ヒトツ)あるが如き、怨家等の非愛なる有情に於て、恚悩(イノウ)の心を起こし、作意し思惟し、彼れ苦に没し、没し已るも済(スク)はず、或は楽を得ず、得已って還って気を失うことを願い、若し所願を遂ぐれば便ち喜・楽を生ず、是れに由るが故に恚は喜・楽と相応す。・・・」

 本科段である、貪と瞋についての『瑜伽論』巻第五十九の所論を記載しました。驚くような記述が記載されています。心の領域において、複雑に揺れ動くさまが表現されていますが、まさに私の心の中を見透すかしたように、貪の違縁と瞋の順境における憂受・苦受。そして喜受・楽受ですね。このようなこころが働いていることは否定できないですね。自分の身近なところで、ないとはいえない怖さを感じます。

 瞋恚に関してですが、喜受と楽受とも相応する、ということですね、もともとは、瞋恚は、憂受と苦受と相応するものなのですが、瞋恚は怒りですから、怒りは憂いと苦を招くものなのですが、喜と楽をもたらすものでもあるというのですね。『瑜伽論』の所説からですね、自分が怨む者など、或は自分が愛していない有情に対し、怒りや悩む心を起こし、作意し思惟し、彼が苦に沈み、沈んでいても救わず、或は彼が楽を得ることとなく、たとえ得ることがあっても、それを失うことを願い、その願いが自分の思い通りになれば、喜受や楽受を感受するものである。このようなことから、瞋恚は喜受と楽受と相応することがある、と説かれるのである、と。

 どうでしょう、否定できますか。大変恐ろしいことが記されているわけですが、僕には、このような心の情景というものはよくわかります。僕のことを言い当てられていますからね。「あんな奴、地獄に堕ちたらいいんや、金輪際這い上がってくるな」というようなね、こんな恐ろしい心を持ち合わせているんです。このようなところから、貪・瞋・癡にはすべて五受が相応すると説かれているのですね。他人事ではないと云うことですね。

                    (つづく)

 

 


第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (38) 五受相応門 (2)

2014-08-15 11:11:53 | 第三能変 諸門分別 五受相応門

 答。

 「貪・瞋・癡の三は、倶生にもあれ分別にもあれ、一切五受と相応す容し。」(『論』第六・十八右)

 貪欲・瞋恚・愚癡の三毒の煩悩は、倶生起のものであれ、分別起のものであれ、すべて五受と相応するものである。

 ここに至ってですね。なぜ十の煩悩のなかで、特に貪・瞋・癡の三が根本煩悩と呼ばれ、三毒の煩悩として呼ばれているのかがはっきりしてきます。つまり、倶生起・分別起において、すべて五受と相応するものが貪・瞋・癡なんですね。恒審思量ですね。生まれ持ったものとして、種子ですね。「本識の中に親しく自果を生ずる功能差別」として、「無始より来虚妄熏習の内因力の故に恒に身と倶なり」。後天的な教えや躾によることなく、任運に生起する煩悩が貪・瞋・癡の三つの煩悩であることがはっきりしてくるわけです。

 大乗と小乗部派との説の相違がありますが、その辺の事情は『述記』に詳細が説かれています。

 「論。此十煩惱何受相應 述曰。第四諸受相應門。此問起 論。貪瞋癡三至五受相應 述曰。下文有二。初實義。後麁相。實義中有四。一明貪・瞋・癡。二明慢。三疑・及三身。四身・邊見。今初也。此之三根倶生・分別。一切容與五受倶起。對法第七・大論五十五。貪唯喜・樂・捨者。五十*五云。此據多分相應道理。隨轉門説諸煩惱。今據究竟。應准此會。此與五十九同。彼云貪等通六識。倶生者與一切受相應故。分別貪等。彼一一自作法出行相。然今此中總解二種貪等行相 下逐難解之。與憂・苦倶。謂別小乘故。」(『述記』第六末・三十八左。大正43・451b) 

 初(はじめに)、実義門によって、五受との相応について説明される。
  (1) 明貪・瞋・癡(貪・瞋・癡と五受の相応について)
  (2) 明慢(慢と五受との相応について)
  (3) 疑及三見。(疑と邪見・見取見・戒禁取見の三見と五受の相応について)
  (4) 身・辺見(薩迦耶見と辺執見と五受との相応について)

 後(後半は)、麤相門により説明される。

 本科段は初である。「此の三根は倶生にもあれ、分別にもあれ一切は五受と倶起す。対法の第七、大論の五十八に、貪はただ喜・楽・捨のみなりとは、五十八に云く、此は多分に相応する道理・随転理門に據って、諸の煩悩を説く。今は究竟するに據る。此に准じて会すべし。此(『論』)は五十九と同なり。彼に云く、貪等は六識に通じ倶生のものならば、一切の受と相応するが故に、分別の貪等を彼に一々に自ら作法して行相を出せり。然るに今此の中には総じて二種の貪等の行相を解す。下は難に逐って之を解す。憂苦と倶なるは、謂く小乗に別なるが故に。」

  •   作法(サホウ) - 三支作法の作法。宗(主張命題)を述べること。

 「憂苦と別なるが故に」ということが問題となるわけです。大乗では五受相応とするということなのですが、小乗部派では、貪が憂受や苦受と相応するとは認めていないのですね。この問題点を次科段から会通してくるのです。例えば、「貪は違縁に会う時には、憂受や苦受と倶にあるからである」と。

 『演秘』(第五末・八左。大正43・922a)の所論は、

 「論。貪嗔癡三至五受倶者。五十九中。分別貪等樂等相應別別作法。即此論云貪會違縁嗔遇順境略已攝彼。餘准可尋。故不引也。」

 (「論に、貪・瞋・癡の三はと云うより五受倶というに至は、五十九(大正30・627c)の中に、分別の貪等の楽等と相応することを別々に作法せり。即ち此の論(『瑜伽論』)に云く、貪は違縁と会えるときと、瞋は順境に遇えるときと、略して已に彼を摂めたり。余は准じて尋ぬべし、故に引かざるなり。」)

 本科段に入る前に、十の煩悩をみてきました。そしていろんな角度から十の煩悩がどのように作用していくのかを諸門分別として整理されているわけです。その第一番目が

 「是の如き総と別との十の煩悩の中に。六は倶生と及び分別起とに通ず。任運にも思察するにも倶に生ずることを得るが故に。疑と後の三見とは唯分別起のみなり。要ず悪友と或は邪教の力と自ら審かに思察するとに由って方に生ずることを得るが故に」

 と。ここに十の根本煩悩が、倶生と分別起に分けられていました。先ず、煩悩に倶生起と分別起の二つがあるということです。倶生起は身と倶である、身と倶に煩悩を生まれもって持っている。分別起は後天的な煩悩であるということですね。ですから「さるべき業縁のもよおせば」というのは任運にということで、倶生起であるということになりましょうね。それに対してですね、唯円の「おおせにてはそうらえども、一人もこの身の器量にては、ころしつべしとも、おぼえずそうろう」という親鸞聖人に対しての返答は分別起に由るわけでしょう。そして分別起が破られてくる。「わがこころのよくて、ころさぬにはあらず」と、倶生起の煩悩を見据えておいでになりますね。それではその頂いた煩悩をどうするのかという問題が出てきますが、倶生起の煩悩が本願によって見破られたということが先ずあります。「ただ念仏」において煩悩が破られてくるということが起ってくるんですね。聖道においてはこの倶生起の煩悩を修道において断ずることが大きな課題になるわけでしょう、しかし真宗も同じなんですよ。真宗における修道は聞法です。聞法において倶生起が破られてくるのか、どうかが大きな課題になりますね。破られた時、それが「念仏もうさんとおもいたったとき」ですね。即ち摂取不捨の利益にあずかる、ということになりましょう。転悪成徳正智をいただく、いただくということは、倶生起の煩悩を背負って生きることに他ならんのでしょう、そこにですね、自分の居場所がある、それが地の問題になると思うんですね。

 ここでは、分別起の煩悩は十の煩悩全部ですが、倶生起の煩悩は貪・瞋・癡・慢。それから我見と辺執見、これらは倶生起の場合もある、ということです。

 そして次の科段にですね、

 「此の十の煩悩は何れの識と相応する。蔵識には全に無し。末那には四有り。意識には十を具す。五識には唯三のみなり。謂く貪・瞋・癡なり。分別無きが故に。称量等に由って慢等を起こすが故に。」

 蔵識と倶に働く煩悩は無いということ。末那識と倶に働く煩悩は四つ。第六意識と倶に働く煩悩は全部。五識と倶に働く煩悩は貪瞋癡の三つであることが明らかにされたのですね。五識は無色透明、純なるものですから阿頼耶識と同じですね。この五識に色をつけるのが第六意識なんですね。それが貪瞋癡の三つであるというのですね。五倶の意識と云っていますが、五識がはたらいているのは、いつでも第六意識の影響下にあるということになります。

 大事な所は、蔵識には全無し、というところですね。深層意識の根本である阿頼耶識に煩悩は無いということが説かれているわけですが、ここも大事なことを教えていますね。

 そして本科段になります。「この十の煩悩は何れの受と相応するや」。貪瞋癡の三は倶生・分別に通じて五受すべてに相応すると、明らかにされたのです。

 倶生・分別に通じ、五受と相応するのは貪・瞋・癡の三つの煩悩であることがはっきりしたわけです。これが三毒の煩悩であるということの所以になりましょうかね。

 次科段は、小乗部派が説くことのなかった、貪が憂受・苦受と相応することにおける問題点を説明していきます。


第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (37) 五受相応門 (1)

2014-08-14 12:37:08 | 第三能変 諸門分別 五受相応門

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 諸門分別の第四は、五受相応門について説かれます。

 「此の十の煩悩は何れの受と相応する。」(『論』第六・十八右)

 この十の煩悩は、どの受(苦受・憂受・楽受・喜受・捨受)と相応するのか?

 先ず問いが出されます。本科段は第三能変受倶門と密接な関係にありますので、復習の意味で受倶門をまとめました。上記のURLからダウンロードして学んでいただけたらと思います。

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