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唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 随煩悩 諸門分別 (44) 第十 上下相縁門 (5)

2016-03-21 19:25:12 | 第三能変 随煩悩の心所
   

 『大毘婆沙論』巻第百二十九に述べられています記述を紹介します。『演秘』はその取意を挙げていますので、『演秘』の文言と、その訳を述べます。
 「論。梵於釋子起諂誑故者。按婆沙論百二十九引經説云。如佛昔在室羅筏城住誓多林。時有苾芻名曰馬勝。是阿羅漢。作是思惟。諸四大種當於何位盡滅無餘。煩惱繋縛爲欲知故入勝等持。即以定心於誓多林沒於四大王衆天出從定而起問彼天衆。諸四大種當於何位盡滅無餘等。答曰不知。如是欲界六欲天等展轉相推。乃至他化自在天所被復作推梵衆諸天。欲往梵世復入勝定復以定心自在宮沒梵衆天出從定而起還作上問。梵衆咸曰。我等不知復推大梵。馬勝尋問如前所問。彼大梵王處自梵衆忽被馬勝苾芻所問。梵王不知便矯亂答。我於此衆是大梵・自在・作者・化者・生者・養者・是一切父。故知有誑。作是語已引出衆外。諂言愧謝還令問佛。故知有誑。」(『演秘』第五末二十四左)
 (「論に、梵(大梵天王)が釈子(お釈迦様の弟子である馬勝比丘)に於て諂誑を起せるが故にとは、婆沙論の百二十九を按ずるに、経の説を引いて云わく、仏昔室羅筏城に在り、誓多林に住せし時、苾芻有り、名づけて馬勝と曰う、是れ阿羅漢なり。是の思惟を作す、諸の四大種は當に何れの位に於て盡滅して余無かるべきや。煩悩の繋縛を知らんと欲するが為の故に勝れたる等持に入り、即ち定心を以て誓多林に於て没して四天王衆天に出でたり。
 (脚注)
 ・室羅筏城誓多林は、舍衞國祇園精舎。祇園精舎誓多林(ぎおんしょうじゃせいたりん)のこと。
 ・苾芻(びっしゅ)は比丘のこと。
 ・四天王(してんのう)は、欲界の 六欲天の中、初天をいい、またこの天に住む仏教における、4人の守護神をいう。この 四天王が住む天を四王天、あるいは四大王衆天(しおうてん、しだいおうしゅうてん)とも いう 。彼らはそこの主であり、須弥山頂上にいまわす帝釈天に仕え、八部鬼衆を所属支配し、その中腹で伴に仏法を守護するのが彼らの役目である。
 持国天(じこくてん)・増長天(ぞうじょうてん、ぞうちょうてん)・広目天(こうもくてん)・多聞天(たもんてん)=毘沙門天(びしゃもんてん)の四天王で、 それぞれ東西南北を守護している。
 
 定より起って彼の天衆に問う、諸の四大種は當に何の位に盡滅して余無かるべし等と。
 (脚注)
 四大種とは、『阿毘達磨倶舎論』分別界品第一・第十二頌に「大種謂四界 即地水火風 能成持等業 堅濕煖動性」(大種は謂く四界なり、即ち地水火風なり、能く持等の業を成ず、堅濕煖動(けんしつなんどう)の性なり。)
 •大種 - 四大種。地水火風の四元素
 •持等の業 - 保持・包摂・熟成・増長の作用。
 •堅濕煖動 - ①地は堅の性で、物を持つ作用がある。②水は濕の性で、物を摂める作用がある。③火は煖の性で、物を熱する作用がある。④風は動の性で、物の長くのびる作用がある。
 触境の中の四大種の説明です。四大種は能造であり、その他の色法はすべて所造(四大種所造色)という。世親は「造は是れ因の義、種は所依の義」と説明しています。因であり種である、と。四大を因として果(未来)にある所造が現在に顕れたというのです。すべの色法は能造の四大と所造の色・香・味・触の八種が集合して出来上がったものであると説明します。又、四大種を実の四大種と仮の四大種とに分けて説明しています。
 •実の四大種 - 堅・濕・煖・動という触覚的なもの。
 •仮の四大種 - 眼などの感覚でとらえられた地・水・火・風の四つは、実の四大種から造られた仮の四大種であると考えられました。

 答えて曰く、知らずと。是の如くして欲界の六欲天等展転して相い推す。乃し他化自在天の所に至に、復梵衆の諸天を推すことをなされ、梵世に住かんと欲して、復勝定に入りて復定心を以て自在宮より没して梵衆天に出で、定より起って還(また)上の問を作す。梵衆、咸(みな)曰く、我等は知らず、復大梵を推す。馬勝尋ね問うこと前の所問の如し。彼の大梵王自の梵衆に処して忽ちに馬勝苾芻の所問を被りて、梵王知らずして便ち矯乱(きょうらん)して答う。我は此の衆に於て是れ大梵なり、自在なり、作者なり、化者なり、生者なり、養者なり、是れ一切の父なりといえり。故に誑有ることを知る。(大梵王)是の語を作し已りて、引いて衆の外に出て諂言愧謝して還って仏に問わしむ。故に知りぬ、誑有りということを。」)

 大意は、「お釈迦様が祇園精舎誓多林においでになった時、一人の比丘がいた、名づけて馬勝(阿説示アシュバジット)という、威儀端正を以て名とし、ここで一つの疑問を思った、「四大種はどこで尽滅するのであろうか」と。この疑問を解決する為に定に入り天界に昇りました。最初は欲界にある六欲天の一番下である初天、即ち四天王衆天に昇り、そこにいる四天王にこの問題を尋ねました。しかし、「知らず」と、誰も知りませんでした。しかし、四天王は自分たちの仕えている四大天王なら知っているであろうと馬勝比丘に紹介しました。馬勝比丘はさらに定を積んで天界に昇り四大天王に尋ねました。しかしだれも答えられませんでした四大天王はさらに上の天である三十三天衆を推薦しました。ここでさらに定を積んで三十三天に昇り三十三天衆に尋ねましたが知りませんでした。三十三天衆は更に上位の帝釈天を推薦しましたが、帝釈天も知りませんでした。帝釈天はさらに上位の天を推薦しました。馬勝比丘は更に兜率天・化楽天に昇り尋ねましたが、誰も知りませんでした、とうとう六欲天の最上位である他化自在天に昇り、そこで妙自在天子に尋ねましたが、妙自在天子も知りませんでした。彼は色界初禅の梵衆天を推薦し、馬勝比丘も更に定に入り色界初禅の梵衆天に昇りました。梵衆天も知らず、展転として、大梵天王をたずね、同じ問いを尋ねました。しかし大梵天王も知りませんでした。
 ここで問題が発生します。大梵天王は梵天衆から全知全能であると思われていましたから取り乱すのです。『大毘婆沙論』では「彼の大梵王自の梵衆に処して忽ちに馬勝苾芻の所問を被りて、梵王知らずして便ち矯乱(きょうらん)して答う。我は此の衆に於て是れ大梵なり、自在なり、作者なり、化者なり、生者なり、養者なり、是れ一切の父なりといえり。」とこの間の事情が物語っていますが、つまり、大梵天王はすべてを知り尽くしている偉大な天王であると自負していましたので、この問いに対して取り乱して「自分は大梵天である、自在者である、作者であり、化者であり、生者であり、養者であり、一切の父である」と威厳を示しました。
 このことが『演秘』では「故に誑有ることを知る」と云い『大毘婆沙論』では「諂誑による語業」であると釈しています。
 大梵天王はこの語を述べ已って、馬勝比丘の手を引いて梵天衆のいるところから外に連れ出して陳謝しました。「実は私も知らないのだ」と。「諂言愧謝」という、自分は全知全能と思われているの、梵天衆の前で知らないと言ったら軽蔑されてしまうから言えなかったのだというわけです。
 そして大梵天王は釈尊なら知っているであろうと告げました。」

 矯乱して答えたのが諂誑の語業であり、大梵天王が馬勝比丘の手を引いたというのが『大毘婆沙論』では大梵天王が発した諂誑の身業であると述べています。また『述記』も簡単に説明をしていますが、「梵王の馬勝の手を執るは是れ諂と誑なるが故に」と釈しています。『演秘』はこれは諂であると説明しています。
 上記の逸話からも分かりますが、色界初禅にいる大梵天王が欲界の馬勝比丘に諂と誑を起こしたという証になります。本科段の上界に存在する随煩悩(諂と誑)が下地を縁じたということになります。
 『述記』の釈をまだ読んでおりませんのが次回にゆずります。(つづく)

 
 

第三能変 随煩悩 諸門分別 (43) 第十 上下相縁門 (4)

2016-03-20 01:05:12 | 第三能変 随煩悩の心所
  

 前回は雑感になりましたが、今日は前回の続きになります。後半です。
 上地に存在する随煩悩(小随煩悩の誑・諂(色界初禅)と憍(三界に存在する)と大随煩悩の八(三界に存在する)、上地に在る場合は有覆無記として存在する)が下地を縁ずることが有るのか否かを論じます。

 「大の八と諂と誑とは上にして亦下をも縁ず、下縁(げえん)の慢等と相応して起るが故に、梵(ぼん)いい釈子(しゃくし)の於に諂・誑を起せるが故に、憍は下を縁ぜず、所恃(しょじ)に非ざるが故に。」(『論』第六・三十四左) 
 梵は色界に存在する梵王のこと。釈子は欲界の馬勝比丘のこと。
(大随煩悩の八と諂と誑とは上地に在ってまた下地をも縁ずる。何故なら、下縁の慢等と相応して起こるからである。(例が挙げられます)例えば(「梵王の馬勝の手を執るは是れ誑・諂なるが故に」)大梵天王が馬勝の手を執ったのは誑と諂によるものである。憍は下地を縁ずることはない。何故なら、下地は上地から見て恃む所のものではないからである。)

 例えばという逸話は『大毘婆沙論』によります(大正27・670b~671c)。『演秘』が取意として述べています。『論』に「梵が釈子に於て諂・誑を起せるが故に」ということを釈して、「婆沙論の百二十九を按ずるに、経(『正法念処経』巻第三十三(大正17・193b)に誑・諂の極は梵天に至ることを述べており、『倶舎論』巻第四(大正29・20c)に引用されています。)の説を引いて云く、云々」
 この逸話は明日紹介したいと思います。

 本科段も煩悩の諸門分別の上下相縁門に准じて解釈されるものです。そこでは「上地の煩悩も亦下地を縁ず」と説かれていました。これは上地の慢が下地を縁ずることについて説明しているのですが、直接的には慢の字はありません。しかし、「上に生まれた者は、下の有情の於に己が勝徳を恃んで、而も彼を陵すと説けるが故に」と説明しています。上地の慢が下地を見下し慢を起こしていることが分かるわけです。恃己の慢と陵他の慢という、己が勝れた徳を恃んで下地の有情を見下すという慢心ですね。
 憍は自分が自分に酔っている状態(おごりよいしれる心)ですから、上地に在る憍は、「自の盛なる事のうえに深く染著を生じて酔倣する」ものですから、上地から見て劣っている下地を恃む必要はないのです。
 『述記』は本科段を本質相分と影像相分について解釈しています。これも逸話と共に明日考えてみたいと思います。

第三能変 随煩悩 諸門分別 (42) 第十 上下相縁門 (3)

2016-03-17 22:32:03 | 第三能変 随煩悩の心所
  

 深く考えさせられるお便りをいただきました。受け取った僕は僕の意識の中で、僕と彼を二分していることに気づかされました。そうではなくてですね、僕と関わりのある様々な事柄は僕の問題であったということなんです。彼は彼の心の中で複雑に揺れ動く様子を語ってくれているのですが、実はそのこと自体が僕自身の問いであったということなんです。
 
 紹介します。
 「雑感の感想です。自分自身に従ってくれる他人は善、従ってくれない他人は悪(自分にとって不都合な人)であるということですか。自分自身の都合に合わせて動いてくれるのは仕事上良い部下であり、上司である。このような関係ですと不安が無くなるからかもしれませんが、僕は、これは一番危険な関係であると思います。利用する側、される側、といった関係は一時的には利益が上がるかもしれません。しかし長期的にはどうでしょうか、崩壊するのではないでしょうか。経済活動は波があるものです。底になった時に崩壊する危険性が大だと思います。上手くいっている時は良好な関係で、いかなくなれば悪化する。顔も見たくない、とはよくある事です。自分自身が一番?だからですかね。 
 言い当てられていることは、他人事ではなく自分がそうだということです。仕事だけでなく、家庭でも言える事だと思います。どん底にいる時、自分自身を見失う事が出来ずにいられるでしょうか?見失うなと云われても無理ではないかと思います。矛先は問題は他人にあると決めつけてしまいます。自分自身には問題はないんだと。
 会社に勤めていますと、肩書に拘ってしまう、囚われている自分自身がいるんですね。仕事の出来ない人間とは思われたくない、出来ない人間を馬鹿にしてる事もあります。
 しかし仕事とは何か?と問われた場合、仕事は人生のほんの一部分だけのものなのかもしれません。自分自身の幸せの為に、食べていく為に働いているのは事実です。しかしつまらない椅子取りゲームをしていないか?と自問自答しなければならないかと思うようになりました。会社の利益をあげるには、会社をよくする為にはどうしたら良いか?と問題になりました。
 結局は新しい技術の導入、能率を上げる事を皆さん言っていたのですが、自分自身が変わらなければ、何も変わらない。自分を棚にあげて他人を変えようとして、何も変わらない。そんな感じがしています。
不安感から他者を排除する。よくある事です。不安であれば表情にでます。その表情が他者に警戒感を与えているのかもしれません。不安は恐怖心に繋がるのでしょうか。僕自身そのように感じます。諸行無常は外ではなく、内に。自分自身のことが言い当てられている?と思いました。」

 社会生活を営む上で様々な制約があります。その制約の中で蠢いているわけですが、実は(私は)蠢いているとはさらさら思っていません。世間での徳目は、利養という金銭や財物を得ることと、名誉という名声を得ること、そして称賛されることなんだと云われています。そしてこれら三つの徳目を得るために邁進努力することが幸福になる方程式であると疑わないのです。
 自分が行っていることは間違いのない事で、その為に競争社会の中で挫折は許されない、他人を蹴落とし、利用し、時には抹殺までしてまでも己を立てたいのです。
 清原さんがいみじくも述べています。「ストレスを解消する為に薬物に手を出した」と。ストレスも薬物も外のもの、外界から来たストレスによって、外界にある薬物に依存して、その結果外界にある司法に逮捕されるという、すべてが外界の事象に転嫁して「こんなはずではなかった」と後悔しているわけでしょう。
 清原さんはたまたま法に触れる行為によって逮捕という形になりましたが、「馬鹿なやつ」といえるでしょうか。私は法に触れないところ、ギリギリのところで清原さん同じ立ち位置に身を置いています。
 つまり、利・誉・称という徳目は外界の産物なのです。問題は、利・誉・称を求めていかざるを得ない私が問題なんです。いつでも私の為が優先します。私が主であり、他は従という関係で社会生活を営むことになります。この主従の関係が逆転しますとストレスが出てきます。「私」が納得できんということですね。そして外界に解決の糸口を求めて奔走することになります。糸口が断たれた場合は、暴力依存やアルコール依存、ギャンブル依存、挙句の果てが薬物依存になりますね。ひとつも自分が問題になっていないことから出てくる問題です。
 ここに引っ掛かりがありますと、彼のように「これでいいのか」という問いが内に眼を向けることになります。彼の問いかけが、どうしても外に眼を向けがちな自分を立ち止まらせてくれます。
 他人を批判している「馬鹿なやつ」とは私のことであったのです。何事も私の意識で判断してしまう愚かさに気づかしてくれるのが外界という存在なのでしょう。自分の意識が外に投げ出されたことを自分が意識してしている。投げ出された景色が外界であって、意識に似た相が外界として存在している。実は自分が作り出した影像であって、外界そのものには何らの実体は無いということが教えられるわけです。影像が問題なのです。実像は諸行無常・諸法無我として教えられています。

第三能変 随煩悩 諸門分別 (40) 第十 上下相縁門 (2)

2016-03-16 22:11:05 | 第三能変 随煩悩の心所
  

 後半は、小の十(欲界に存在する十の随煩悩)が上地を縁ずることが有るのか否かを問います。この説に二釈あります。第二師の説(護法等の説)を正義とします。
 
 初は第一師の説が述べられます。
 「有義は、小の十は下(げ)にして上(じょう)をば縁ぜず、行相麤近(ぎょうそうそごん)にして、遠く取らざるが故にと云う。」(『論』第六・三十四左)
 (第一師は主張する。小の十は下地において上地を縁ずることはない、何故なら行相が麤近であり、下地から見て遠くて深い上地を取ること叶わないからである、と。)
 麤近 ー 浅いありよう。浅近とも、麤浅とも云う。
 小随煩悩の十の働きは浅い(粗い)ので、細やかに働く上地にまでは及ばないということになります。

 第二師、護法正義をみましょう。
 「有義は、嫉等は亦有をも縁ずることを得、勝れたる地と法との於に嫉等を生ずるが故に。」(『論』第六・三十四左)
 (第二師の説、護法正義は、嫉等(嫉・慳・憍)の小随煩悩はまた上地をも縁ずることもできると云う。何故なら、勝れたる地と法とに於いて嫉等を生ずるからである。)
 小の十の中で忿等の七は上地を縁ずることはない、これは第一師と同じです。しかし嫉・慳・憍の三は上地を縁じて生起することがあると主張しているのです。
 理由がですね、上地には下地に比べて勝れた法があり、勝れたる地と法に嫉妬を生ずるからであると云われています。嫉妬を生ずるということは、上地を縁じていることに他ならないんですね。

 「嫉とは謂く他の所得の静慮と無色とを嫉するが故に。」(『述記』)他は欲界以外の界定です。つまり下地の者が、色界四静慮や無色界四静慮を嫉妬するということ。
 「憍は所証知解の彼の地の法を恃むが故に。」(『述記』)下地の者が自分が得た上二界の勝れた法を恃み驕りたかぶることがあることをいっています。
 「慳は所証知解の上地の法を慳(おし)むが故に。」(『述記』)下地の者が自分が得た上二界の勝れた法を他者に教えることを惜しむということがある。
 以上のような理由から嫉・慳・憍の三法は下地にいながら上地を認識しているということになるのですね。


 

第三能変 随煩悩 諸門分別 (39) 第十 上下相縁門 (1)

2016-03-12 17:09:58 | 第三能変 随煩悩の心所
 

 明日は正厳寺様での「成唯識論に学ぶ会」が菊池師のお声かけで発足して三年目の終わりになります。よくも続いているなと感謝してます。遅々とした歩みではありますが、確かな手応えを感じながら読ませていただいています。午後三時より開講です。テキストは用意しております。難しいという先入観は捨てて門をくぐってください。
 今回より少しではありますが、仏教関係・真宗関係の図書を用意しました。一か月周期の貸し出しをいたしますのでご利用ください。ぼちぼち図書を増やしていきたいと思っています。
 また前回より開講前に、『正信偈同朋奉讃』勤行のお稽古も始めました。聞法と儀式作法は表裏の関係ですので、しっかりとお勤めできますように菊池師にご指導を仰いでいます。
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・
 その三は、十、「下にして上を縁ず」という上下相縁門になります。
 二つに分けられて説明されます。初めに、下地に存在する随煩悩が上地を縁ずることが有るのか否かが問われます。後には、逆に上地に存在する随煩悩が下地を縁ずることが有るのか否かが問われてきます。
 初は、下地に存在する大・中と小の随煩悩が上地を縁ずることが有るのか否かを説明します。前半は大・中について(初の一)、後半は小について(初の二)説かれます。
 相縁門の縁は認識する或は働きかけるという意味になります。

 初の一
 「中の二と大の八とは下にして亦上をも縁ず、上縁の貪等と相応して起こるが故に。」(『論』第六・三十四左) (中随煩悩の二と大随煩悩の八とは下地に在ってまた上地をも縁ずるのである。何故なら、上縁の貪等と相応して起こるからである。)

 結論 - 「中随煩悩の二と大随煩悩の八とは下地に在ってまた上地をも縁ずる。」
 理由 - 「上縁の貪等と相応して起こるからである。」

 こ項は煩悩の上下相縁門を参考にしてください。
 「下地の煩悩は亦上地をも縁ず。」
 「上地の煩悩も亦下地を縁ず。」と。  


 中随煩悩の二と、大随煩悩の八は、すべての根本煩悩と倶に働いてくるわけですから、下地に在って引き起こされてくる煩悩が上地を縁ずる時、中の二と大の八はこれらの煩悩と倶起する為に、煩悩と同じく上地を縁ずるのであるというわけです。 

第三能変 随煩悩 諸門分別 (39) 第九・三界分別 (5)

2016-03-11 23:30:45 | 第三能変 随煩悩の心所


 後半は、小随煩悩の場合について説明されます。
 「小の十は上に生まれては下に起こすに由なし、正しく潤生し及び滅を謗するものには非ざるが故に。」(『論』三十四左)
 (小随煩悩の十については、上地に生まれた者が下地の小随煩悩を起こすについて理由が無い。何故ならばこれらの十の小随煩悩はまさしく生を潤生したり、及び滅諦を謗るものではないからである。
 
 前科段では上地にいる者が下地の随煩悩を起こす場合があることが述べられていました。即ち上地にいながら下地の後の十の随煩悩を起こすことがることが明らかにされましたが、本科段では小随煩悩の場合は如何なることになるの問うています。
 答えは、「小の十は上に生まれては下に起こすに由なし」、理由がないというわけです。その説明が『論』では「正しく潤生し及び滅を謗するものには非ざるが故に」と云われていますが『述記』にはさらに詳しく述べられています。
 
 「論。小十生上至及謗滅故 述曰。此十忿等生上不起下。一非潤生。下十唯不善。潤生無記故。不與愛倶。又不謗滅故。不與邪見並。除此二時生上必不起下心。故忿等十上不起下。」(『述記』第六本・九十九右。大正43・464b)
 (述して曰く、この十の忿等は上に生れて下を起こさず、一に潤生に非ず。下の十は唯だ不善なり、潤生は無記なるが故に、愛と倶ならず。また滅を謗せざるが故に。邪見と並ばず。この二時を除き、上を生じて下の心を起こさざるが故に。忿等十のは、上にして下を起こさざるなり。」

 上地において煩悩や随煩悩を起こす時は、「謗滅の時」と「潤生の時」の二時なんですね。従ってこの二時に小随煩悩を起こすのか否か問題となっているのですね。この二時に於いて小随煩悩は、
 (1) 潤生に非ず。下の十は唯だ不善なり、潤生は無記なるが故に。
 (2) 愛と倶ならず。また滅を謗せざるが故に。邪見と並ばず。
 と説明されています。
 つまり、欲界の小随煩悩は唯だ不善(悪)である。しかし潤生は有覆無記のものであって、小随煩悩は潤生するものではなく、潤生するものではないことから「潤生の時」に小随煩悩は存在しないのです。また謗滅は邪見によるのですが、邪見と小随煩悩とは相応しないことはすでに明らかにされていますので、謗滅の時に小随煩悩は存在しないのです。
 「小の十は定んで見と疑とは倶起するに非ず、」と。
 従って、この二点の理由に由り、上地に在る者が下地に存在する小随煩悩を起こすことはないというのです。
 

第三能変 随煩悩 諸門分別 (38) 第九・三界分別 (4)

2016-03-09 22:31:02 | 第三能変 随煩悩の心所
  

 逸話は『大毘婆沙論』巻第六十九(大正27・359b)の出ています。
 謗滅の時と、潤生の時を述べているのですが、前半は色界第四禅天の中有に在って欲界の邪見を起こすと云われてます。解脱を謗るのですね。謗ること(邪見)によって後の十の随煩悩を受けることになるわけです。
具体的にはどのようなことなのかわかりませんが、仏法を聴聞して陥る傲慢性を指定されているのでしょうか。関連してよいものかどうかわかりませんが、親鸞聖人は、
 「よしあしの文字をもしらぬひとはみな まことのこころなりけるを 善悪の字しりがおは おおそらごとのかたちなり 。」
 と邪見の相を見ておいでになります。これを受けられて蓮如上人は、
 「たとい牛盗人とはよばるとも、仏法者後世者とみゆるようにふるまうべからず。またほかには仁義礼智信をまもりて王法をもってさきとし、内心にはふかく本願他力の信心を本とすべき」よしを、ねんごろにおおせさだめおかれしところに、近代このごろのひとの、仏法しりがおの体たらくをみおよぶに、外相には仏法を信ずるよしをひとにみえて、内心にはさらにもって当流安心の一途を決定せしめたる分なくして、あまっさえ相伝もせざる聖教を、わが身の字ぢからをもって、これをよみて、しらぬえせ法門をいいて、自他の門徒中を経回して、虚言をかまえ、結句本寺よりの成敗と号して、人をたぶろかし、物をとりて当流の一義をけがす条、真実真実、あさましき次第にあらずや。」『御文』第三帖第十一通(真聖p810)
 と教えてくださっています。

 そして十の随煩悩を潤す時が「潤生の時」であり、「愛と倶に」この時の愛は貪愛です。仏法に触れて、「人生とは何か」という考える縁をいただいた時は欲界から色界へという精神の深まりがあるわけでしょう。仏法に触れた感動があるわけですね。「僕が求めていたのはこれだ」というわけです。僕自身そうでした。しかしいつしか色あせて世間の中に埋没していました。それは仏法を聴いたのは自分だという思いでした。仏の境界を自分の境界に持ち替えていたのです。持ち替えたとたんに、持ち替えそのものが邪見ですから法謗を起こしていたわけです。知る由しもありませんでしたがね。そして貪愛を起こして後の十の随煩悩を起こすのであると教えられているのですね。
 でもね、仏法に触れたという事実は残ります。ここが大事なことですね。触れたところから問題は起こったということなのです。触れなかったら煩悩などは問題にならないですね。自分は善であるという立場ですからね。常一主宰の独裁者(我)に煩悩は見えないんですよ。我はわかりますが、執は見えないですね。触れて初めて気づかされる世界が執ですね。しかし、この執を持ち替えてしまうのです。いうなればこの執を闇の中に葬り去るのです。そして「自分はわかっている」、これが貪愛の正体ですね。仏法を剣として自己正当化を図るのです。これは「謗滅の問い」と「潤生の時」の二つを兼ね備えています。
 次の科段を述べた後に考えてみたいのですが、五逆と謗法の問題と大きく関わっている問いを提起しているように思います。
 色界に在りながら欲界の邪見を起こしてきます。欲界の邪見は不善ですから不善心に遍く存在する中随煩悩の二つを起こします。また不善心と有覆無記心に遍く存在する大随煩悩の八を起こしてくるわけです。

第三能変 随煩悩 諸門分別 (37) 第九・三界分別 (3)

2016-03-08 20:37:29 | 第三能変 随煩悩の心所
  
 
 後半は、上地に在って下地の随煩悩を起こすことについて、
 これについては中随煩悩と大随煩悩の場合(後の十)と、小随煩悩の場合(小の十)について二つに分けられて説明されます。
 初、
 「若し上地に生じては下の後の十を起す、邪見と愛と倶に彼を起す容きが故に。」(『論』第六・三十四左)
 (「述して曰く、若し上地に生じて下の後の十を起す、中有の邪見と倶に無慚等の二有り、潤生の愛と倶に後の八有るが故に。」(『述記』第六末・九十九右)
 (もし、上地(色界第四禅)に生じたとしても、下地(欲界)の後の十の随煩悩を生起する。何故なら、邪見と愛と倶に彼(後の十の随煩悩)を起こすからである。)

 『述記』によりますと、中有の邪見と倶に無慚・無愧の二つの中随煩悩を起こし、潤生の愛と倶に八つの大随煩悩を起こす、と釈されています。
 つまり、色界第四禅天に生まれた比丘が、色界第四禅天の中有で解脱などないという邪見を起こして地獄に落ちる(生まれる)ということがあるからだと。このことは煩悩の諸門分別の上下相起門で明らかにされていました。少し振り返ってみましょう。
 
 「彼の定を得已んぬる時に、彼の地の分別・倶生の諸の惑をば皆現前す容し。」(『論』第六・二十左)

 下地(欲界)にいる者が、彼(上地・色界)の定(根本定)を得おわる時に、彼(上地)の地(上地)の分別起と倶生起の諸々の煩悩(九煩悩・瞋は上地には存在しない)はすべて現前するのである。いうなれば私が抱いている根本の問題、楽を阻害している要因は、欲界をこえるところから出てくるわけですね。

 「下地に生在して未だ下の染を離れざる時には、上地の煩悩を現在前せず。」

 欲界に沈んで、いわば煩悩にまみれている時は、本当の問題はでてこない。我中心の生活からはですね。

 しかし、「我」が問題となって、初めて我を覆っているものが現在前してくると教えています。それが根本煩悩といわれている瞋を除いた九つの煩悩になるわけです。
求道は、欲界は厭離すべき世界であるというところから始まってくるのでしょう。欲界は悪業を發しないこともあるが、悪業を發する世界でもある、それ以外なにもないという世界なんですね。やっぱり覚悟が必要ですね。
 横道にそれましたが、煩悩の諸門分別で語られていることは、色界に存在する者が、欲界の煩悩を起こすことがあるのか、どうかを問うているわけです。
 前半は、色界に存在する者は、欲界の分別起の煩悩も、倶生起の煩悩も起こすことを説明し、後半では、色界に存在する者が、欲界の煩悩を起こす場合と、起こさない場合があることを説明します。
 「上地に生在(ショウザイ)しては、下地の諸惑をば、分別にもあれ倶生にもあれ皆現起す容し。」(『論』第六・二十左)
 本科段は、前半の部分と逆の問いになります。
 色界は定の世界ですが、定の世界に入っていても、欲界の諸惑である分別起の煩悩と倶生起の煩悩のすべてを起こす可能性がある、と説かれています。ここは、一応は上地は色界を指すわけですが、広く言えば、無色界第四静慮である非想非非想処をも含めて、迷いの世界であることを教えています。退転するのですね。不退転ではないということです。
 「第四定の中有の中に生じたる者が、解脱を謗するに由って地獄に生じたるが故に。身、上地に在って将に下地に生ぜんとする時には、下の潤生倶生(ニンショウクショウ)の愛を起こすが故に。」(『論』第六・二十左) 本科段は二つに分かれます。
 (1) 分別起について、「第四定(色界第四禅)の中有の中に生じたる者が、解脱を謗するに由って地獄に生じたるが故に。」
 (2) 倶生起について、「身、上地に在って将に下地に生ぜんとする時には、下の潤生倶生(ジュンショウクショウ)の愛を起こすが故に。」
 『述記』の所論に從って意訳をしますと、
 (1)上地に在る者が、下地の分別起の煩悩を起すことがわかるのは、(『阿毘達磨集論』巻第六によると)第四定の中有の中に生まれた者が、解脱を謗ることによって地獄に生まれるからである。
 (2)上地に在る者が、下地の倶生起の煩悩を起すことがわかるのは、身は上地に在りながら、まさに下地に生れる時に、下地の潤生(生存を潤すこと)の倶生起の愛を起こすからである。
 ここの解釈はよくわかりません。『述記』の所論を留めておきます。
 「述して曰く。対法の第六に、第四定を得たる増上慢の比丘、是れ第四果と謂えるものが、既に(色界の)中有を受け已って、即ち色界の(中有の)身に下(欲界)の邪見を起こして、便ち釈種(世尊)に涅槃有ること無しと謗せり。今の時(色界の中有)において後有(本有)起こるを以ての故に。此には邪見と及び倶なる無明と有り。或は、瞋も有りと許す。涅槃を瞋するが故に。既に地獄に生ずることは、邪見の力に由ってなり。色界の邪見には非ず。下の苦を招かざるが故に。欲界の身に於いて、この邪見を起こすには非ず。彼(『対法論』)に。(色界の)中有に生ずる時に起こると言えるが故に。色界の中有を欲界の本有にして、如何ぞ之を見るや。定通力に非ず。(死と生と命終とは)散心に住せるが故に。(中有の位に)上の邪見を起こすに由って縁と為すとして、欲界の後報の業が熟して那落迦に生ずるに非ず。別の文証なし。・・・」

 先ず、中有についてですが、真宗では言いませんね。でも、初七日から四十九日までの七週間は中陰として勤められています。この間が中有です。中有から生有として、異生として誕生するという、一種の輪廻観でしょうね。真宗では即得往生、現生に於いて、「即得往生住不退転」に定まるならば、死後、浄土が中有として現生してくるのでしょうか。いずれにしても、現生の在り方が問題ですが。まあ、亡くなられてから満中陰までの期間を中有というわけですから、満中陰までは中陰棚を設けて、そこで供養をすると云う形式が取られているようです。死有・中有・生有・本有という生存の在り方の中で、死有と生有の中間に中有という存在が有り、三界の中の欲界と色界の有情にのみあるとされています。
 『述記』は『対法論』巻第六を引用していますが、もとは『大毘婆沙論』巻第六十九(大正27・359b)の記述です。
 先ず、(1)分別起であることがわかるのは、「色界の(中有の)身に下(欲界)の邪見を起こして」という一段です。邪見は五利使のなかで、分別起に分類されるからです。五つの悪見すべては分別起ですが、我見と辺見は倶生起にも通じています。前にも見ましたので詳しくは述べませんが、『論』に「是の如き総と別との十の煩悩の中に、六は倶生と及び分別起とに通ず。任運にも思察するにも倶に生ずることを得るが故に。疑と後の三見(邪見・見取見・戒禁取見)とは唯分別起のみなり。要ず悪友と或は邪教の力と自ら審らかに思察するとに由って方に生ずることを得るが故に。」と結論が出されていました。

 『述記』の記述ですが、逸話をもって謗法の問題を示しているのではないでしょうか。「欲界の邪見を起こして」というところにですね、「諸の煩悩の生ずるは必ず痴に由るが故に」という、邪見の背景にですね。、痴の存在がありますね。それともう一つの煩悩は、欲界にしか存在しない「瞋」の存在です。瞋は分別・倶生起に通じていますが、邪見と倶に働く瞋は分別起のものであるわけです。ここには、「邪見と及び倶なる無明と有り。或は、瞋も有り」と云われています。
 色界第四禅を得た増上慢の比丘が、そのままであるなら第四禅中有から第四禅天へ転生するであったにも拘らず、色界にありながら、欲界の邪見を起したんですね。解脱に慢心を懐いたのです。解脱をしたのなら中有は現れない筈である、と。中有が現れたのは解脱はないものであるという欲界の邪見(四諦の理發無の見)を以て、解脱や涅槃はないものであると謗ったわけです。釈尊も涅槃を得ていないんだ、と。このような増上慢によってこの比丘は、本来なら色界第四禅天へ転生すはずが、謗滅時を起因として欲界の中有が現前し、この比丘は無間地獄に転生したんです。
 此れは私たちの生活にもいえることだと思いますが、仏法を聞いておっても、現実の生活が裕福になる訳でもないし、金持ちになるわけでもない、聞いても、聞かんかっても何ら変わることが無いではないか。これが邪見なんですね。邪見が慢心を生んできますから、親鸞聖人は、これらの人を悪衆生とされました。というおり、衆生の本質を見抜かれたのですね。邪見をもって蠢いているのが我等である、と。「何ら変わることが無い」という見解ですね。ここが、「謗滅時」なんです。世間に埋没すると云う転落が待っているのですね。それを地獄と表されているのでしょう。
 
 上地に在る者が、下地の倶生起の煩悩を起こす場合については。
 「身は上地に在って、将に下に生ぜむとする時には、下の潤生倶生の愛を起こすが故に。」(身は上地に在りながら、まさに下地に生れる時には、下地の潤生の倶生起の愛(貪)を起すからである。)
 倶生起の煩悩は、輪廻する時に正潤生(主)となって生を潤(潤生)し、分別起の煩悩は助潤生となる。十二支縁起で云えば、老死・生・有・取・渇愛・受・触・六処・名色・識・行・無明(『大乗の仏道』東本願寺刊、より) 潤生の時に、上地に在りながら、下地の煩悩を起こす時であると説かれています。
 「潤生の愛を起こして下に生ずることも亦是れなり。即ち是れ倶生の無記の煩悩なり。この中に言うべし。我見・我愛、及び慢、無明なり。無明、愛は定有なり。我見、慢は不定なり。未だ必ずしも倶ならざる故に、所以に説かず。」(『述記』)
 唯識は、中有において生を転ずることがあるという立場になります。中有が有るとか無いという問題ではなく、中有があって初めて生有という、生まれることが起って来たんだと云う自覚でしょう。迷いと倶に生れて来たということでしょうね。それと、阿頼耶識には煩悩は存在しない、純粋無垢である、そこに救済の糸口があるのではないでしょうかね。煩悩と共に生まれてきたけれども、本識には煩悩は無いということなんですね。
 「有」と云われる、この場合はビハーバ(bhava)という生命的存在を指しています。私たちには分かりませんが、分別起の邪見を起したのか、或は倶生起の愛を起こしたのかに由って、人間界に生れてきたのでしょうね。一言でいえば、迷よった、ということでしょう。
 五悪趣という輪廻の主体なんですが、人間界はその中でも善趣といわれています。何故なのでしょう。三悪趣から転生したのかもしれません。また上地から転生したのかもしれませんが、いずれにせよ、ラストチャンスを与えられたことだと思いますね。人が人として生きるのは、菩提心をもって生きることであり、浄土を帰依処として現世に落在することでなければならんと思いますね。そのようなチャンスを与えられていることに頭が下がっていくのではないでしょうか。
 横川法語(源信僧都)
 「それ、一切衆生、三悪道をのがれて、人間に生まるる事、大なるよろこびなり。身はいやしくとも畜生におとらんや、家まずしくとも餓鬼にはまさるべし。心におもうことかなわずとも、地獄の苦しみにはくらぶべからず。世のすみうきはいとうたよりなり。人かずならぬ身のいやしきは、菩提をねがうしるべなり。このゆえに、人間に生まるる事をよろこぶべし。信心あさくとも、本願ふかきがゆえに、頼まばかならず往生す。念仏もの憂けれども、唱うればさだめて来迎にあずかる。功徳莫大なり。此のゆえに、本願にあうことをよろこぶべし。また妄念はもとより凡夫の地体なり。妄念の外に別の心もなきなり。臨終の時までは、一向に妄念の凡夫にてあるべきとこころえて念仏すれば、来迎にあずかりて蓮台にのるときこそ、妄念をひるがえしてさとりの心とはなれ。妄念のうちより申しいだしたる念仏は、濁にしまぬ蓮のごとくにして、決定往生うたがい有るべからず。妄念をいとわずして、信心のあさきをなげきて、こころざしを深くして常に名号を唱うべし。」

 深い問題が提起されているようです。昨日の「唯識に自己を学ぶ」の投稿と関連付けて考えて頂ければと思います。
 
 

第三能変 随煩悩 諸門分別 (36) 第九・三界分別 (2)

2016-03-06 22:52:50 | 第三能変 随煩悩の心所
 

 その二 上下相起門になります。
 上は上地(色界より上の界地)、下は欲界。我々迷いの有情は欲界にいながら、上地の十一の随煩悩を起こすことが有るのか否かが問われます。
 誑・諂・憍の小随煩悩の三と、大随煩悩の八、掉挙・惛沈・懈怠・散乱・放逸・失念・不正知の八つ、合わせて十一の随煩悩は不善と有覆無記であると云われていました。
 詳細をいいますと、憍は三界に通じ、誑・諂は欲界と色界初禅に通じて存在します。三界についてはこれからも度々出てまいります。その折には色界・無色界を上二界と云い、欲界と区別しています。
 欲界に在っては随煩悩のすべては不善なんですね。そして色界に存在する誑(色界初禅)・諂(色界初禅)・憍と掉挙・惛沈・懈怠・散乱・放逸・失念・不正知は有覆無記になります。そして無色界にも存在します小随煩悩の憍と大随煩悩の八は有覆無記になるということですね。
 ここで問題が生じてきます。二つの問題です。一つは下地に居ながら上地の随煩悩を引き起こす場合について説明され、後半は逆の上地に居ながら下地の随煩悩を引き起こす場合にって説明されます。

 第二の子門の初、
 「下地に生在しては上の十一を起す容し、定に耽って他の於に憍と誑と諂とを起すが故に。」(『論』第六・三十四左)
 
 「論。生在下地至起憍誑諂故 述曰。第二子門。生下上起上下1門。生在下地容起上十一。耽定故起憍一法。於他欲界有情等起誑・諂故。餘八通染。潤生心等皆有彼故。」(『述記』第六末・九十八左。大正43・464a)
 (「述して曰く、第二の子門、下と上とに生じて上と下とを起こす。下地に生じては上の十一を起こす容し。定に耽るが故に憍の一法を起こす。他の欲界の有情等に於いて誑と諂とを起こすが故に。余の八は染に通ず、潤生の心等に皆彼有るが故に。」)
 
 (欲界の有情は、下地に在って、上地の十一の随煩悩を起こすことがある。何故なら、定に耽って他に対して憍と誑と諂を起こすからである。)

 本科段は、私たちが生存している世界は欲界と云われている欲望渦巻く世界なのですが、修行に由って欲界を超えた精神世界に生じた場合、欲界での二十の随煩悩はすべて断滅されるのかという問題に答えているのです。
 修行に由って断滅される随煩悩は小随煩悩の七つと中随煩悩の二つだけであると答えます。定に耽って(修行を行い定の世界に入っても)不善である随煩悩は断滅されますが、十一の随煩悩は有覆無記として存在するのです。「三界は虚妄にして一心の作なり」と云われる所以です。自分に対して酔倣し、自分に徳があるように振舞い、或は自分に従わせるような行為は上界に在っても微細に働いているわけです。ただ欲界にある場合はただ不善ですが、上界に在っては有覆無記という解脱の一分に触れている状態に身を置くことになります。

第三能変 随煩悩 諸門分別 (35) 第九・三界分別 (1) 

2016-03-06 00:31:24 | 第三能変 随煩悩の心所
 

 第九は三界分別門になります
 本科段は第八の三性分別門と深い関りがあります。三性が三界においてどのような動きをするのかが問われてきます。それは私の行動が三界九地の中でどのように変化するのか、そしてそのことが私の生活にどのような影響を与えてくるのかがはっきりと認識されるからです。
 仏法の中に身を置き、仏法を聴聞していても、どこかで他の問題にすり替えてしまう根性ですね、「内心外道を帰敬せり」という根性が見えてこないという問題にも答えてくるものです。「内心外道を帰敬せり」という自覚だけが私を救ってくるのですね。
 そこで本科段は大きく三つに分けられて説明されます。
 (1) 三界繋属門(随煩悩は三界のどこに存在するのかが問われてきます。)
 (2) 上下相起門(下地にいる者が上地の随煩悩を起こすことがあるのか否かが問われます。)
 (3) 上下相縁門(下地の随煩悩が上地の随煩悩を認識することがあるのか、逆に上地の随煩悩が下地の随煩悩を認識することがあるのかが問われます。
 
(1)については、
 「小の七と中の二とをば、唯欲界のみに摂む、誑と諂とは欲と色とにあり、余は三界に通ず。」(『論』第六・三十四右)
 (小随煩悩の七と中随煩悩の二つとは唯欲界にのみ存在する。小随煩悩の誑と諂とは欲界と色界初禅に存在する。その他の小随煩悩の憍と、大随煩悩の八は三界に通じて存在する。)と説明されます。

 小の七と中の二はただ不善である。よってただ欲界に繋がれている。何故なら、ただ悪行を起こしているからである。
 小の三と大の八とはまた有覆無記に通じて存在する。これは不善と有覆無記に遍するからであるというわけです。小・中・大のすべては欲界においてはただ不善なんですが、小随煩悩の七つは定の力によって伏滅され、伏滅されない小随煩悩の誑と諂とは色界初禅においては有覆無記になるのです。無色界においては憍と細やかに水面下で影響を与えてくる大随煩悩の八つは有覆無記として存在します。

 ここまで見てきますと、阿頼耶識は無覆無記である。異熟識は果是(無覆)無記であると教えていただきました。そうしますと、煩悩・随煩悩は意識下において動いてくるものとわかってくるわけです。大雑把にいえば三界は意識によって作り出された世界と云えましょうね。阿頼耶識は迷いの識ではありますが三界を超えているのですね。

 私たちは三界(虚偽の相・輪転の相・無窮の相)を超えた阿頼耶識を意識の根底に保ちながら、いうなれば自らが、自らの安楽を拒否してあえて苦海に沈んでいるわけでしょう。また沈んでいることの自覚を与えるのも阿頼耶識なんです。
 すべては他の問題ではなく、自らの問題である、自らの投影としての現実世界を自らが影像として捉えている。影像を影像として捉えていることの自覚が本質に触れさせていくのでしょう。
 触・受・愛・取という十二支縁起で教えられていることは、何に触れるのかが問われていることなのですね。本質に触れなければ、本質でな影像を本質として触れていくわけです。自己でないものを自己としてして生きていかざるを得ないのです。では、どのようにして本質に触れるのかという問題ですね。ここにね、聞法の課題があり、聞法の本質もあるわけです。
 「仏願の生起本末を聞きて疑心有ること無し、これを聞という。」と教えられますが、自分の生まれてきた背景を知ることと、何故人として生まれてきたのか、そこには意味がある。死するいのちをどう生きるのか、生の謳歌で本当に生きることができるのか、死することができるのか、本当はこのような問いが喉元に突き刺されているのでしょう。鈍感なのか、馬鹿なのか、問題を先送りしても、先送りする足元から不安という切っ先が煩悩を伴っていのちを揺り動かしてきます。しっかり見つめていかなければと思います。