ちいさな幸せ

幸せの基準ってある?
それは自分の心の中にあると思う。
私は何時も陽だまりのような幸せの中に居た。

心晴れ晴れ

2007年10月21日 | 今日この頃
          バラ リビン・イージー
          (大井戸公園 07-5-16)

ヨドバシカメラに行きました。カレンダーのソフトを買いに先日も行ったんですが、私が色んな事を質問するので「ソフト会社に聞いてみます」と電話してくれました。その時「新しいソフトが18日に出るそうです」と言う事でしたから、今日買いに行こうと思ったんです。

実は白井市長の後援会の事務局長であり、市長選の時の選挙事務局長でもあった方が、10月18日に54歳の若さで亡くなったのです。選挙中も、又他の場所でも何度もお見受けはしていますが、お話は一度もしたことがありません。

若くして亡くなるという事は、もしかしてお母さんはご存命ではないだろうか?と考えると、もう胸が締め付けられるように苦しくなるのです。木原美知子さんも亡くなりました。ご病気のお母さんを残してです。お子さんが1人であろうと子沢山であろうと、親より先立つのは親不孝です。私が一番恐れている事なんです。そんな年代の方が2人亡くなられて、私はまいってしまったわけです。

新しいソフトを買って、新しい事を始めれば、気の滅入りが消えていくのではないだろうかと思いました。

ついでに年賀状のソフトも買ってきました。3年経てば買い換える事にしています。今回は今までのCDのバージョンアップではなく、DVDに買い変えました。その方がサンプルが比較にならないほど入っていると言われたからです。

次に阪急に行きました。ヨドバシカメラは給料前の休日だからでしょう、割合と空いていまして、説明を受けるのに気兼ねがありませんでしたが、デパートは給料に関係のない方達で繁盛していました。

デパートには義妹にお歳暮として送るセーターの為の毛糸を買いに行きました。手編み人口が減っているのでしょう、売り場は益々少なくなっていましたが、気に入ったのがあり買ってきました。

地下に降りまして、久し振りにカステラを買いました。お気に入りのバラ寿司も張りこんで、何となく気分も晴れて帰宅しました。

キャノンからは代替品が届いておりました。開けたその手で返送分をセットして、送り返せるようにしました。

もう一つ宅急便が着ておりました。なんといっささんからです。「なんだろう?」とワクワクしながら開けました。まず目に付いたのが「レトルトカレー」です。先日このカレーが美味しいと言われた(ご主人のお気に入り)ので、私も探してみたのですが、私の行った4件のお店にはありませんでしたから、お送りくださったようです。

球根の花鉢が、私がブログで始めて見たと言った「シラー」の球根だそうです。元気に届きましたが、少し様子を見て、土に下ろすと、上手くいけば来春には花が見れるはずです。何色でしょうか?楽しみです。

重いはずです。「ターシャの庭」と言うお庭の立派な写真集です。自然のお庭と言うより土地に色とりどりのお花が咲き乱れています。私のちまちまとした花ではありません。お花畑です。自然に増えて、季節が来れば芽を出し花を咲かせるという感じです。ちまちまと手入れすると言う感じではありません。群生の美しさです。
遍路道の脇にもこんな群生の美しさを何度か目にしました。

沈んでいた私の心に日が差しました。何と嬉しい心のこもったプレゼントの数々でしょう。タイミングもドンピシャでした。儀礼的でない贈り物は、相手をこんなに喜ばせる事が出来るんですね。私も相手を思って贈り物をしたいと思いました。有難うございました、いっささん。
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朝までテレビ

2007年10月20日 | テレビから
              バ ラ
         (大井戸公園 07-5-16)

何だか寝起きが悪いんですよ。身体の何処が悪いんではないんですが、知人の訃報に接するとなるんです。気分が落ち込むと言うのでしょうか。

その上読んでいた本が、精神科のお医者さんの書かれたもので「面白いから読んでみたら」とお借りしたものなんです。確かに内容的には面白かったんです。その先生は治療に御伽話や童話を使うと言う「目から鱗」的な内容で感心しながら読んでいました。

しかし自分の気持ちが落ち込んで、これが再々起きたりしたら「鬱」になるんではないかな~とか思ってしまうんです。そ~だ。高島忠夫さんの「9年間の鬱」のテレビを見たのも影響しているわ。色んな事が重なって一日ぼんやりと、昨夜の「朝までテレビ」のビデオを見ていました。

大相撲についてなんです。パネリストは相撲界関係と他色んな格闘技の現役、OBの方々でした。

アンケートでは朝青龍に帰って来て欲しくないと言うのが多かったですね。相撲を馬鹿にしてると感じる。品位がない。が圧倒的でした。

日本人の横綱がいい。と言う希望もありましたね。司会の田原総一郎さんが「日本人の心の狭さだ、イチローや松井はアメリカで快く受け入れられている」と言いました。そうかも知れない。しかし狭かろうと広かろうと国技である相撲の頂点に立つのは日本人であって欲しいと願うのが本心だわ。それにイチローや松井は規律を破ると言う、現地の人の反感を買うようなことはしていないわ。変に「自分は心の広い人間だ」的な発言はして欲しくないわ。

それに小錦、曙、武蔵丸の時は余り外人だからと言う差別はなかったように思う。勿論若貴兄弟が小錦たちを倒した時は喜びました、でも其れは外人を倒したからと言うより「大きい人を小さい人が倒した」事への喜びでもあったと思うのです。

今はある一定の大きな人しか採用されていませんが、小さな人も採用されるようになるそうです。そうすれば、入門者も増えるでしょうし、「小が大を倒す」技の相撲も見る事が出来るようになります。

モンゴルの記者が「今の大関陣は初めから朝青龍を倒す気がない。特に千代大海は突っ張るばかりで技がない」と言っていた。同感です。千代大海については私も何時もイライラしています。師匠は千代の富士なのに何故注意しないのかと思っています。過って曙にもその傾向がありました。「横綱のくせに!」と見ていました。

モンゴルの記者は「朝青龍は帰って来る。帰ってきたら、記者会見で理由を説明し謝るべきだ」と言っていましたね。帰国時にそうしてくれていれば、こんなに拗れなかったのではないでしょうか。「朝青龍はモンゴルでは英雄だから・・・」と言う人がいましたが、其れは言わないで欲しいわ。その英雄の肩書きは「日本の相撲」によって得たものなんだから、その肩書きを名乗っている限り、相撲界のルールは守っていただきたいわ。

私も覚えていますが、小学校には必ず「土俵」がありました。アレは戦時中、相撲は陸軍、海軍の管轄下にあったそうで、「土俵」さえ作れば体が鍛えられる、安上がりだったので「軍命令」で学校に「土俵」が作られていたそうです。

「ちゃんこ」と言うのは「ちゃん(親父)とこ(子)」が同じ鍋を囲むと言うところから付いた名だそうですね。ただ上位陣から食べるので下位になるとご飯はあるが「ちゃんこ」は汁が残っているだけだったそうです。今はそんなことないそうですし、給料も大幅に上がっているそうですよ。
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印刷機故障?

2007年10月19日 | 今日この頃
              初雪草
            (ジムの前庭)
       我家のは今年は消えてしまいました

今日は一日中雨が降っていました。肌寒くて、熱いものが欲しくなって、今秋初めて、お昼にうどんを作りました。久し振りにつるつる~と美味しかったです。これからは「おでん」「鍋焼きうどん」と温かいおかずが嬉しいですね。


印刷したいのに印刷機が動かない。「故障?」でもね、去年買い換えたばかりだよ。でも私は良く使うからね。でも使う為にあるので、おいとくもんではないよね~。人件費が高いから、故障を直すより買い換えた方がいいんじゃない?修理に出してもそこだけ直るだけだもんね。

買った大阪のヨドバシカメラに持って行こうかな~。早くしないと、カレンダーや年賀状の時期になるよ。色々考えて、持って行こうと決めて、印刷機を持ち上げてみた。「重い!」「こんなん無理やわ・・・。」主人に頼みたいけど、腕が痛い言うてるし、頼まれへん・・・。

何時買ったっけ? 説明書を取り出す。2006年6月4日だって。まだ1年5ヶ月にもなってない、やっぱり修理に出そうか・・・。予備のインクを買ったばかりやし、勿体無いわ。でもそのインク使える機種を買えばいいやん。色々考える。

先日、ヨドバシカメラに行った時、印刷機の売り場にも立ち寄った。家庭用も今のはA4までだが、今はもっと大判まで印刷できる種類が増えている。買う気はなく、ただ見に寄っただけなのだが、虫の知らせだったのかな~、とか考えてしまう。

そうや、キャノンに電話してみよ。「お客様相談センター」に掛けてみた。女性が出てきた。初めオペレーターかと思って「・・・の事でお聞きしたいのですが」と言ってみた。係りの方に代わるのかと思ったら、そのまま話は続いた。

「少し前から故障の兆しはあったんです。同じ色を入れてないのに、『同色が入っています。取り替えてください』って機械が言うんです。何回か言われても、入れてないんだから、無視してガチャガチャやっていると動き出していた。でも今日は『ランプの消えている色を入れ直してください』インクを入れ直すと、その時はランプが着くが、いざ!印刷となると動かなくて消えているんです」

私の話を聞いた相手は「申し訳ございません。お話を聞いておりますと、インクに問題があるようです。新しいインクをお送りしますので、取り替えていただけませんか・・・」と言う「予備を持っていますので、やってみます」「そうですか、新しい品をお送りしますので、着払いの封筒を同封いたしますので、お手数ですが、今お使いのインクを送り返していただけますか?」と言う事で新品を受け取る代わりに、手元のインクを返却することにしました。

手元にある予備の新品と交換してみました。動くではありませんか、スムーズに印刷できました。

電話の応対だけで、故障箇所がわかるんですね。相手は女性ですよ。昔のOL は「お嫁に行くまでの腰掛」と言う感じで、軽い仕事しかさせてもらえなかったし、仕事を覚える気もなかった。今の女性はたいしたものです。しっかりと仕事と向き合っています。このことは大阪ヨドバシカメラの女性スタッフにも言える事です。訊ねたことに対してちゃんと応対していただけます。

「又、この件に関しまして、私以外でもお答えできるように番号をつけております、お控えくださいますか・・・」「○月○日午前中に○便でお届けいたしますが、ご在宅でしょうか?」何から何まで流れに澱みがない。一見落着である。
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赤い指

2007年10月19日 | 読みました
           ソラヌム=観賞用茄子
             (ジムの前庭)
         如何見てもトマトに見えますが
       図鑑で調べましたが 茄子だそうです

熱いお茶が美味しいという事は、体が冷えて温まる事を欲しているのでしょうね。体が冷たさを感じて硬くなりつつあるのを感じます。

すずきせんせいが言われました「これからは汗が出にくくなりますが、その代わりトイレの回数が増えるはずです。ですから水分補給はこれからも続けてください。年を取ると男性は「加齢臭」が言われますが、女性は「乾燥によるシワ」が増えます、水分補給をしてください」

其れは近頃感じることがあります。腕に漣の様な、縮緬の様なシワが全体に現れる事があります。今はまだ時々ですが、これが定着すると「皺くちゃ婆~さん」なんですね。

メキシコのオユキサンの所に滞在した時にも感じました。メキシコシティーは緯度の高いところにありまして、空気が薄く乾燥しています。オユキサンは定住しているのでなれているのですが、たまに行った私はやはり腕が皺くちゃになりました。まだ40代でしたが・・・。メキシコにいるときには感じなかったのですが、帰りにロスに寄りました。ホテルのバスでそのことに気付きました。ロスに滞在した1週間でシワはなくなりました。若かったからでしょうね。

その時の事、今の経験からしますとしわしわになるのは「腕」からの様な気がします。

         ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

         赤い指     東野 圭吾

この本を図書館に申し込んだ2月、待つ人が131人と言う驚異的な数字でした。8ヶ月経って我手元に来ました。

彼の本は、これで4冊目です。読みやすい本です。推理小説ですから結果が知りたくてアッと言う間に読んでしまいました。

この本は変わっています。犯人が誰であるかは、その場面から始まる為、読者は知っています。ですから犯人を推理するのではなく、捜査する刑事の捜査結果を推理するという事になります。ばらすわけには行きませんが、最後の方にこんな言葉があります。

主人公は夫婦とその息子は中学生の男子。母親の4人家族です。その関係を描写した部分です。

母が一人になってから、同居を始める。嫁は同居は嫌なのだが、母の家を後々は欲しいが為の同居である。母は呆けた振りをしていた。其れを知った息子は考える。

『この家に越してきてからのことが脳裏に蘇った。妻の母に対する冷淡な振る舞い。それにひきずられるように自分も老いた母親を疎ましく思うようになった。そんな両親を見て、息子がまともに育つはずがない。孫は祖母の事を、何かきたないもののように扱っていた。自分も嫁も其れを注意しなかった』

それだけではない。この家の住人達の間には、心の繋がりと言うものが全くなかった。家庭らしい温かみなど、此処には存在しなかった。

そんな状態に母は絶望したのだ。その結果彼女が選んだ道は、自分だけの世界をつくり、その中に家族たちを入れないというものだった。唯一、許されたのが、娘だった。おそらく娘といる時が一番幸せであったに違いない。

今の増えつつある親子関係をよく表していると思った。同居はしても居場所のない老いた者、これほど淋しい事は無いと聞く。全てがそうではない。しかし、どうしてこんな乾涸びた世の中になってしまったのか。「終わり良ければ全てよし」と暖かい家族愛に包まれた老後を望むのは無理なのか。



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デジカメの仕事

2007年10月17日 | 今日この頃
              ば ら
         (大井戸公園 07-5-19)
     巻き込まない薔薇も可憐でいいものです

熱いお茶の美味しい季節になりました。朝食時、熱いお茶を頂くとほっとします。我家のお茶は鹿児島の従兄弟が送ってくださった、自家製のお茶です。自家製と言っても精茶するのは専門家に頼んでいるので、見た目は売っているお茶の形をしています。

叔母さん(従兄弟のお母さん)が生存中は、茶摘時には嫁いだ娘たちも手伝いに帰郷して、本当に自家製で、「手揉み茶」と言うのでしょうか、葉っぱがくるくる巻きあがったお茶ゃっぱでした。私は嫁いできて始めて「自家製のお茶」を見ました。色もくすんだ濃い色でしたね。

昨日行った京都国立博物館の前が三十三間堂なんですね。何度か行った事があるのですが、余り関心のなかった私には「行った、見た」と言うだけで何も覚えていません。だから帰りに寄るつもりでした。でも疲れてしまって「又今度にしよう・・・」とさっさとバスに乗ってしまったのです。

お茶を送ってくれていた叔母さんは11人の子福者で、その3女だったと思うのですが、のりこさん(若くして亡くなりました)が成人式に行われる三十三間堂の「通し矢」を見に来ていました。そのときは我家に泊まられて、私の子供たちと「水族館」や「動物園に」にご一緒したものでした。

私の頭の中には、三十三間堂=通し矢=のりこさん、と言う図式が出来ていて、昨日もそのことを思い出し、「成人式に「通し矢」があるでしょう、その時に来てみようか? 来年は14日だと思うよ」と話しました。のりこさんのお家は「弓作り」を生業としています。今もお茶を送ってくださる従兄弟とその息子さんが家業を継いでいます。


図書館に調べものをしに行って、書き止め始めたのですが、日頃あまり字を書かなくなっているので、何だかめんどくさくて、其れも地図も書かなければならないし・・・と惑っていました。何処かに花が咲いていないかと、カメラを持ってきたのを思い出しました。「これで写し取れば簡単だし、パソコンに入れれば大きく出来るし」と必要なページを写してきました。

後ろから「綺麗に写るんですね?」と言う声。おじいさんが感心しながら私の手元を覗き込んでいます。そうなんです、このカメラは字を写す機能も付いているんです。何故早く気付かなかったんだろう。これからはこの手に限ると思いました。

そういえば携帯にカメラが付いた頃、本屋さんで必要なページを写し取る人がいると話題になったことがあり、私も一度だけ本屋で盗み撮り?したことがあったのです。其れをすっかり忘れていました。図書館のは売り物ではありませんから良いんじゃないですか?いけないかしら?

図書館はジムの近くですから、ジムに行く前に寄りますので、9時開館頃に着くように家を出ます。早い時間ですから閲覧テーブルは圧倒的に男性が多いです。そして新聞を読んでおられます。私のカメラに感心したおじいさんもお仲間と新聞の交換をしていました。毎朝顔を合わせているうちにお友達になるのでしょうね。

女性は雑誌を見ているようです。余り新聞を読んでいる方は見かけません。本当は毛色の違った新聞を読み比べるのが良いのでしょうが、図書館で読まなくとも、今は各社の記事はパソコンで読めますしね。その上、色んな人のブログで色んな意見のあることも知りますし、知りたい事は家に居ながらにして知ることが出来便利になりました。しかし知り過ぎて自分を見失わないようにしないとね。
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特別展覧会 狩野永徳

2007年10月16日 | 一寸そこまで
              唐獅子図屏風
           京都国立博物館前の看板

京都国立博物館へ「特別展覧会・狩野永徳」へ行ってきました。今日が初日でした。私達は午前中に行ったのですが、見終えて、庭の隅にある(何時出来たのか、以前はありませんでした)茶店で昼食を食べて、ガラス張りの窓から見ていますと、女子高生や色々の団体が入ってきました。入り口には並ぶ人の為にテントも幾張りか並んでいました。「やっぱり早く来てよかったね」と話しました。

「狩野永徳」聞いたことのあるような、ないような。テレビでこの展覧会のコマーシャルをしていたので、見たくて行ったのです。名前は兎も角として「絵」は何かで目にしているものが何点かありました。「あ~ぁこの人の絵だったんだ」と言う感じ。

『信長さま秀吉さまご推薦! 天下を取った絵師、京都に見参』チケットにそう書いてあったんですけれど、お二人に気に入られて、全ての注文を引き受けて、今で言う過労死で48歳でなくなった絵師なんです。

永徳は父松栄より祖父元信に手ほどきを受けた。安土城、大阪城の障壁画を手がけた。

この度の展覧会は「奇跡的な展覧会」だそうだ。旧御物(天皇家の物)3件、国宝5件を含む、国内外の名品を網羅した美術展は今後の開催は不可能と言われるほど貴重なものだそうだ。

京都国立博物館の保全修理指導室長の山本英夫さんは下記のように言っておられる。
『永徳は桃山時代に「天下一」といわれていたにも関わらず、作品は少ない。その多くが戦火で焼けてしまった為「これは永徳の作に違いない」と言うのは僅か10点しかない。これでは展覧会は開けない。故に父や弟、同時代の狩野派の作品で組み立てたら出来ると思った。

「初の永徳の展覧会ですので、宜しくお願いします」と関係者に挨拶に回ったら、代表作「唐獅子図屏風」宮内庁三の丸尚蔵館旧御物。国宝「洛中洛外屏風」米沢市上杉博物館。国宝「檜図屏風」東京国立博物館。国宝「花鳥図襖」聚光院他の名品全てを借りることが出来た。

30日間、京都国立博物館限定にしたのは、展覧会の会期を長くして各地を巡回させると、作品保護の関係から、展示替えをしなくてはならない。そうすれば、折角見に来てくださった方に「唐獅子」がない「檜」がないと言うことになる。そういう事では「永徳の芸術の真髄に迫る」事が出来ない。今回はあえて彼の国宝級の基準作を期間中フルタイム紹介できる事を選んだ。今後この様な展覧会は無いと思うので、どうか京都まで足を運んでいただきたい』

私は「唐獅子図屏風」の絵ハガキを買いたいと思ったのにない。京都駅前の、そして博物館の看板も「唐獅子図屏風の絵」なのに何故ないのか?不思議に思いながら、何も買わずに帰宅した。帰って調べてみると、天皇家の持ち物だったのである。天皇家の物を印刷して利益を受けることが出来ないのだろうと納得した。

六月に皇居東御苑に行った時、売店があった。其処には尚蔵館の作品の絵葉書を売っていた。良く見なかったので解らないが、あそこにはあったのかも知れない。

それにしても疲れた。出口で主人と合流した時、2人の口から出た言葉は「疲れた!」だった。心に刺激を受け、感動するのは良い事なんだけれど、やっぱり若いときの様にはいかない。ぐったりするぐらい疲れる。だんだん体力的に展覧会も行けなくなるのだろうな~と思った。淋しい事だけれど、テレビ、パソコン、読書もあるし、その時の体力に合わせた楽しみ方をすればいいのではないかと自分を慰めた。
                        (530回)
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渡嘉敷島の集団自決

2007年10月15日 | 読みました
         薔 薇 リビン・イージー
         (大井戸公園 07-5-9)

お日様の力が弱くなって、洗濯物の乾きが良くありません。この点は夏はいいですね。朝干せば昼に、2時頃干しても夕方にはからりと乾いています。

         ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

     沖縄戦・渡嘉敷島  集団自決の真実  
      日本軍の住民自決命令はなかった!
       曽野綾子  出版社・ワック

私はこの本のに書かれた事を真実と思います。何故か? 昭和45年曽野さんが「集団自決」に何か疑問を感じて、丹念に取材されたからです。終戦から25年経っていましたが。まだまだ当事者である渡嘉敷島の生き残った人々、赤松元大尉本人、副官であった知念氏(渡嘉敷島の人)に直接面談し、色々話を聞いておられる。話の中でテープと言う言葉が時々出てくるので、曽野さんは今もそのテープは持っておられるのだろう。60年経っていますから、当事者はもう亡くなっておられましょうが、その声は残っているのでしょう。

赤松元大尉を「集団自決を命じた人」と最初に書いたのは「鉄の暴風」沖縄タイムス社出版。後日書かれた物はこれを下敷きにしている。何故なら「集団自決の日付け」が一日間違っているのも、そのまま写されているから、その場の描写も酷似している。沖縄タイムス社は副官の知念氏にさえ聞き取りをしていないし、その後も当時の新聞記者はほとんど元赤松隊の隊員や地元住民に会う事無く「鉄の暴風」を鵜呑みにした。

丹念な取材にもとずいて書かれた曽野さんの「ある神話の背景」(元の書籍名)昭和48年文芸春秋から、後にPHP研究所で文庫本になったが、何れも絶版になっていた。しかし取材する事無しに書かれた「鉄の暴風」や大江氏の「沖縄ノート」は訂正される事なく版を重ねている。

この本の解説に産経新聞論説委員石川水穂氏の文の最後はこう結ばれている。(2006年5月)

現在、日本の中学や高校で使われている教科書には、依然として、次の様な記述が残っている。「軍は民間人の降伏も許さず、手榴弾を配るなどして集団的な自殺を強制した」「日本軍によって集団自決を強いられた人々」「犠牲者のなかには、慶良間諸島の渡嘉敷島のように、日本軍によって『集団自決』を強要された住民や虐殺された住民も含まれており・・・」「戦陣訓によって投降されることを禁じられていた日本軍では、一般住民にも集団自決が強いられたり・・・」

何れも文部科学省の検定をパスした記述だ。軍命令の有無は、国の名誉に係る問題である。少なくとも、歴史教科書の記述の誤りは正すべきである。・・中略・・ 沖縄戦の集団自決に関する誤った歴史を一人歩きさせないためにも、この文庫本が一冊でも多く教育現場で使われる事を期待したい。

次期の教科書からこれらの記述が消された。その事に対する反対を求めた集会が行われたのである。「教科書から消さないで」と言った沖縄の高校生はこの本を読んで自身で判断して欲しい。

書き写したい部分は至る所にあった。当時、赤松元大尉は25歳、わが兵庫県加古川の生まれだ。平和な時代に生きている、今の25歳とは何と違った人生だったのだろう。

現在、赤松氏の遺族と梅沢氏(座間味島で集団自決した梅沢助役の弟)が「集団自決」から60年経った平成17年8月、大江氏と岩波書店を相手取り、名誉を傷つけられたとして、損害賠償と謝罪広告を求める訴訟を大阪地裁に起こしている。
判決は如何に?



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山下清さん

2007年10月14日 | 思い出話
              ば ら
          (大井戸公園 07-5-9)

昨日の「ぬるい湯」の所為か朝から風邪気味、急いで風邪薬を飲む。明日から「漢字塾」もはじまりますし、京都で見たい絵画展も2っばかりありますし、月末には遠来の友を囲んでの集まりもありますし・・・。この頃は風を引くと長引きます。優に1ヶ月は掛かってしまいます。

風邪気もあって寒くて堪りません。急いで衣料の入れ替えをして、冬に近い服装をしています。植え替えるはずだった花も中止して、テレビを見たり、本を読んだりとだらだらと一日を過ごしました。

           ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

放浪の天才画家、山下清さんの展覧会は何度となく足を運んだ事がある。最近では飛騨の高山にある小さな「山下清美術館」に入った。

有名な「長岡の花火」良くあれだけ細かく丹念に貼り絵ができるな~と感心する。
小品は泊めてもらったお宅にお礼として置いていったものだと説明があったように思う。

今の宝塚大劇場になる前の古い劇場の時、壁に山下清さんの見た「宝塚レビユーの貼り絵・藤娘」が掛かっていたように思ったが、今の劇場の何処に掛かっているのか目にしない。

アレだけの大作をどうして描くのか? 今なら写真に写して、其れと自分の記憶をあわせて描くそうだが・・・と不思議に思っていた。

こんな記事を見つけた。
『山下清は若いとき、リュックサックにゲタと言う独特のスタイルで全国を歩いて回った。「放浪の画家」と言われ所以だ。だから多くの人は、絵を描く為に旅をしていたと思っている。だが清は放浪したいから放浪していたのであって、スケッチもほとんどやっていなかったと言う。

実際には放浪を終えた後、記憶を元に旅先で見た風景をキャンバスによみがえらせていたのだ。その記憶力は天才的であり、絵と実際の風景がすんぷ違わぬという事もあったらしい。「放浪の画家」より「追憶の画家」と言った方がいいのかも知れない。

子供時代のことを良く覚えていると言う知人に依れば、いくつもの場面が「画像」として脳裏に刻まれているそうだ。画像が残っているかは、そのときいかに心を動かされたかによると言う。山下画伯の天才的記憶力もそうやって培われていったような気がする』

宮城まり子さんのねむの木学園の子供たちの絵も実に繊細で、何処から書き始めたのかと思うほど大きな画面にびっしり描かれているものと、きわめて大胆にシンプルに描かれているものに分かれている。びっしりの方の絵を見ると、私は何時も「山下清の絵」を思い出す。

絵心があればどんなに楽しいだろうかと思う。大作はだめでも絵手紙ぐらいの大きさならどうにかなるかも知れないと考えても居るが、中々手が出ない。

今の所は鑑賞の方に回っているのみ。趣味の絵画展にも時々足を運ぶが、同じ風景を描いても人それぞれ違っているし、日頃大人しいと思っている人が大胆な筆使いだったり、又大雑把な人だと思っている人が繊細な絵を描いたりしているのを見て、感じるのも趣味の展覧会に足を運ぶ楽しみの一つであります。

主人が案外上手なんです。大雑把な人ですが、絵は細かく几帳面なんです。続ければいいのにと思うのですが、習い事が余り好きではないのでしょう、数年でやめてしまいました。惜しいな~と思っています。習いに行くと言い出したのも急で「絵を?・・・」絵心があるなんて知らなかったから吃驚したのです。だから展覧会に行くと私が何時も早く見終わってしまいます。

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ノーベル平和賞

2007年10月13日 | 新聞から
          バラ・シュネビッテェン
          (大井戸公園 07-5-16)

30分歩いてジムに着いた私は真夏ほどではないにしても汗だくである。「あ~暑い!」と1人呟いていると、「あ~寒い。今日は寒いね!」と顔見知りの方が入ってきた。「寒いですか?」「寒かったよ、自転車に乗っていると、風が冷たいよ」見ると首にマフラーを巻いている。

野天風呂に入ったのはいいが、ぬるい。次に入ってきた人に「今日は一寸ぬるいですよ」と言うと「私はこれくらいが好きです。長く入っていられるから」次に来た人「本当や、ぬるいね!今そこで、野天風呂は今日ぬるいから、内風呂の方がいいよって言われたんよ」そう注意したのは、今「私はこれくらいが好き・・・」と言いながら早々に出て行った人。私はと言えば、寒くてお湯から出られない。でも思い切って出て内風呂に飛び込んだ。其処には「ぬるい好き」の人がいた。???。

ノーベル平和賞がをアル・ゴア氏と国連の「気候変動に関する政府間パネルIPCC」が受賞した。賞金は1000万スエーデンクローナ(約1億8000万円)で等分される。ノルウエーのノーベル賞委員会はゴア氏の受賞について「彼はおそらく、個人の力で世界中に最も気候変動への理解を広めた人物だろう」IPCCについては「地球温暖化と人類の活動の因果関係を広く知らしめた」と語った。

ゴア氏は受賞に際し「非常に光栄。気候変動は政治問題ではなく、全人類にとっての道徳的、精神的な課題だ。賞金は全額寄付する」と声明を発表したそうだ。元々資産家だからだろう。2000年大統領選に出馬、小差で破れた失意の中で、自分に出来る事を考えて、元々勉強していた「環境問題」を始めた人である。

映画「不都合な真実」を見に行った時、自分に出来る事から始めようと思ったはずなのに、「喉元過ぎれば・・・」の例えどおり、頭の隅にはあるのだけれど、何も出来ていない。

この映画を見て思ったのは、大統領選に破れた際、大差ではなく小差で破れただけに目指した道への未練はあったであろう。しかしその道に綿々とせず、自分に出来る道を模索した事だと思った。あくまで一度目指した道に再挑戦するのも一つの行き方かもしれないが、自分の努力だけで勝ち得る事の出来る道ではない。故に新たに選んだ道で、世界最高のノーベル賞を受けるのは、アメリカ大統領の椅子より凄い事だと思う。

映画に依れば、アタッシュケース一つを持って米国中を講演運動を始めたのです。初めは中々理解を得られなかったようだ。しかし諦める事無く語り続けた。

平成9年12月、地球温暖化防止京都会議に出席した時は、専用機を使って一日で米国にとんぼ返りすると言う強行スケジュールだった。当時のクリントン大統領の反対を押し切って自ら決断した行動であるから、その素地(地球温暖化問題)は既にあったと言うことだろう。

人類に必要な考えを広める為にゴア氏は大統領選に敗れた? 見えない力が「貴方の力が必要なのは、アメリカ一国の問題ではない、世界が1日も早く病める地球に気付き対策を講じる様にするのが貴方の仕事だ」と・・・。

平和賞受賞を期に、ゴア氏を次期大統領選に、政界に引き戻そうと言う動きがある。

ブッシュ政権は京都議定書を「あれはゴアの議定書だ」と切捨て、離脱を決めただけあって、今回の受賞に対するブッシュ大統領のコメントはなかったそうだ。「どの面下げて、祝えるか」と言う事だろうが、大人なら一言あっても良いんじゃないかい?ブッシュさん!。

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拉致家族

2007年10月12日 | ネットニュースから
              ば ら
          (大井戸公園 07-5-9)

北朝鮮拉致被害者の蓮池さんたちが帰国して、早5年の歳月が経ったそうです。一番幼かった地村家の次男坊も大学一年生です。子供たちの生活を見ると「早いもんだな~」と思ってしまう。

それにしても「めぐみちゃん」は如何しているのだろか?つい先日43歳の誕生日を迎えたとか。40歳迄には・・・と言っていたのに、まだ家族の元に戻っていない。

曽根さん達も、北朝鮮に残っている人たちが帰国しないと、自分達の拉致問題も解決したとは言えないと言っている。

北朝鮮拉致被害者の会副代表の蓮池透さんが「薫さんたちが『全てを話していない』と世間に言われるのが辛いといっている」と語ったそうだ。

政府や警察、家族には語っている。「全てを話すといっても限定された地域で生活していたので、全てを知っているわけではない」と言う。

話を聞いている兄透さんが言うには「北朝鮮の反日感情は根深い。日本はその原因を知る必要があり、敵対心で応じるだけでは問題は拗れる。被害家族の活動の原点は体制の崩壊を目指すのではなく『失われた家族を取り戻したい』のだ」と言う。

根深い反日感情の原因とは? 今の日本の交渉態度が「敵対心」と感じるのはどんな部分を指しているのだろう? 拉致家族会は「体制の崩壊をめざしている」と感じておられるのか? どの様な点を指すのか?

これらの発言は遅遅として進まない政府の対応に対する苛立ちから出た言葉だろうが、文書として目にしただけで、声や表情と共に知ったのではないだけに、ストレートに不満だけが響いて来て、余りいい感じは受けなかった。

先日、NHKのドキュメンタリーで在日朝鮮人の北朝鮮帰国船の放映をしていた。何万の在日朝鮮人が、故国は「楽園」「故国建設に役立ちたい」と帰って行った事は知っていた。

岸総理、藤山外相の時、先方はキム・イルソン時代である。

キム・イルソンが何故在日朝鮮人の帰国を望んだか、「北朝鮮は大勢の人民を受け入れる事の出来る国、韓国より力のある大きい国だという事を世界中に知らせたかった」そうだ。しかし真意は、仲間だったソ連大使には「この事業は、政治的な利益、経済利益がある」と語ったそうだ。

実際には「楽園」ではなく、資本主義国から帰った人の思想が現地人に悪い影響を与える事を恐れ、帰国者は「疑わしい人」のグループに属し、見張り役がつけられたりと自由な生活ではなく、食べるものにも事欠く生活が待っていた。

朝鮮大学の副長は北朝鮮の言葉を鵜呑みにし、心から信じて、在校生に帰国を勧めたという。5年経って北朝鮮に行き、過っての自分の勧めた者が、希望の大学にも行けず、希望の就職先もない生活を目の当たりにして、「北朝鮮の社会主義に衝撃を受け、落胆、悲哀」を感じ、教え子に「すまない」と言う気持ちが今も自分を責めていると語る。

受けてたった日本も対外的には「帰国させる事は民族的義務」であるといっていた。しかし実際は在日朝鮮人の犯罪率の高さ、政治運動の強さを国内から排除できるという意味もあった。その上に在日朝鮮人の生活は貧しく、生活保護を受ける率が高く、当時、25億円の出費があった。この経済的負担の軽減にも繋がると、この話に乗ったようだ。

色んな意味で私は日本に生まれた良かったと思っている。何だか住み難い日本になっているようには思うが、これは今、働き盛りの人にお願いして、安心して住める国に戻して貰いたい。


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