豪州落人日記 (桝田礼三ブログ) : Down Under Nomad

1945年生れ。下北に12年→東京に15年→京都に1年→下北に5年→十和田に25年→シドニーに5年→ケアンズに15年…

たそがれの映画監督 川島雄三

1979-06-12 20:42:43 | Weblog
 たそがれの映画監督 川島雄三                                    

「何故お前はテレビを観ないんだ?」という質問によく出っ喰わす。そのたびに私は言葉を濁す。本当は私自身の行動美学から出発している。私もそろそろ野暮の象徴と言われる中年に手が届く年齢となった。格好良い人生を送りたい。「気障な奴だ」と他人をうならせたい。中年の魅力はヤセ我慢である。--高校生の頃、片思いの少女とデートをした。「トッカータとフーガ」の華麗な音楽の流れる喫茶店で待ち合わせ、ムーディーな洋画を観る。緊張のほぐれた私達は、夕暮れの街並みを肩を寄せ合ってレストランに入った。ところが彼女はハンバーグをパクつきながらテレビに熱中して、私の喋ることには上の空であった。

 川島作品を十和田でも上映して欲しいとの依頼を受けた。十和田市は不案内だ。早速、仕事の帰りに劇場に入った。ポルノ三本立てで千円は安い。八十位の椅子席があり、観客は私を含めて三人だけ。「最近はインベーダーに喰われて・・」とモギリ氏から説明された。ストーリーは支離滅裂、カメラアングルも感心しない。素人くさいオーバーな演技が鼻につく。セックスシーンの連続で、セリフよりもうめき声の方が多い。昔のポルノの方が良かった。当時のポルノのほとんどは白黒映画で、セックスシーンになるとパッとスクリーンが明るくなり、カラーに転じたものであった。一本目の上映が終わって二本目が始まった時、同じ監督の作品なのかと、一瞬錯覚した。途中で劇場を出ると外の光がまぶしかった。とたんに、ひどい消耗感に襲われた。

 大学に入ると、急激な解放感から、なんとなく世の中がなつかしく、まぶしく輝いている様に感じた。友人数人と映画研究会を作った。会員の義務は、年間500本以上の映画を観ることであった。当時既に映画界は斜陽の時代を迎えていた。劇場は次々とボーリング場やパチンコ屋に変身し、名画館がポルノ館として生き延びようとしていた。年間100本以上のポルノを観ていると、見る目も自然こえて来る。ポルノにも佳作もあれば駄作もある。製作会社自体が左前だから「金はいくらでも出すから何でも好きなものを撮りなさい」とは言いっこない。才能とは情況を切り開く力量を指すのであろう。映画研究会を離れてからは、全く映画を観ることがなくなった。

 川島雄三がむつ市出身の監督であることを、2年前に初めて知った。川島の名を聞くと、エドガーアランポー、芥川龍之介、太宰治を想い浮かべる。彼は天才肌の監督で、そして破滅型の人間である。監督料が入ると、ポケットに札束を突っ込んでスタッフ一同を引き連れて豪遊し、酔ってはあたり構わず回りの人にからんだ。最後には酔い潰れたまま、51本の作品と飲み代のツケを残して昇天した。ダンディーで新しものがり屋で、映画作りでも常に新しい実験を繰り返し、向上心のない人間を嫌った。従って彼が育てた“川島組”と呼ばれるスタッフ・俳優陣の作品は安心して観ていられる。

 私は中学生時代を東京下町の巣鴨という所で過ごした。当時巣鴨には三軒の劇場があり、洋画二本立てを55円で観られた。東京に来たばかりで、方言のコンプレックスに悩んでいた私は、毎週三回の劇場通いが楽しみであった。ある快晴の土曜日、級友達から「午後野球をしよう」と誘われた。彼等の狙いが私の兄のグローブとミットにあることは判っていた。「映画に行くから」と断れば「ブルジョア」と冷やかされるのが厭で、渋々仲間に加わった。夕方になると級友達は新聞配達や店番の手伝いの為、次々と帰って行った。残った数人でキャッチボールをしていると、チリンチリンと鐘を鳴らしながらオデン屋のリヤカーがやって来た。「腹減ったなあ」「だけど金がねえよ」私は催促されている様な気分になってポケットの中の百円札を握りしめた。「よし、俺がおごるよ」絶望的なつぶやきを合図に級友達はオデン屋の方へ駆け寄った。チクワ、ボールは二本で5円だから百円でも結構たらふく喰える。「先輩、全部使っちゃってもいいのかい?」口先では遠慮しながらも、「おじさん、おつゆをもっと入れてよ」とちっとも遠慮はしない。遂に私は日曜日の映画代までなくしてしまった。

 6月12、13日に「貸間あり」と「花影」を稲生座で上映した。これに要した費用は、フィルム代・劇場借り上げ料・チラシ代など総計24万円也。2日間の上映期間中の入場者は30名で、収入は3万円也。6月15日、中央病院で賞与が支給された。私は21万8021円もらった。残った8千円あまりの金を持ってティファーナに行き、一家で晩飯を喰った。帰りに二人の子供にせがまれて雑誌を買ってやった。タケシには「月刊テレビくん」、カズミには「テレビランド」である。
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