しかし、もちろんカネさえかければ、メダルが取れるモノでもない。米デューク大学のアニラダ・クリシュナとエリック・ホグランドという2人の学者が最近発表したリポートによると、インドのスポーツにおける問題は、経済の規模や人口ではなく、スポーツに参加できる機会が多いかどうかにあるという。まず、インド人は幼児期に病気や栄養失調というハードルにさらされる。
また、スポーツに関する情報不足やアクセスの悪さもある。つまり、人口が多くても効果的にスポーツに接することができる人間は限られているのだ。クリシュナ、ホグランド両氏はトルコの例を挙げている。人口はインドの10分の1なのに、アテネでは10倍のメダルを取っている。タイでも人口はインドの6%だが、メダル数は8倍だ。
これはインドの話ですが、日本にも少なからず当て嵌まるところはあると思います。何でもメダルを獲得できる選手を育成するため関連予算を増額するそうですが、どうしたものでしょう。単にメダルを増やすだけなら、競合の少ないマイナースポーツに予算をつぎ込んでステートアマを量産すればよさそうですが、それで得られるものはどれほどのものかと思うわけです。メダルの数以上に、いったい何が得られるのかと。
ミランのコーチに聞く選手育成論(スポーツナビ)
第1回:イタリアの子どもと日本の子どもの違いは?学校教育に関して、日本の子どもは運がいいと思います。日本では体育の時間にたくさんスポーツをできるけれど、イタリアの子どもは教育制度のせいで運動があまりできないからです。このことがもたらす結果は、サッカーに関しては顕著です。同じ年齢なら日本の子どもの方が運動神経もいいし、テクニックもあるし、ボールタッチも柔らかい。これはプロを目指すサッカー選手のキャリアに役立ちます。
例えば、平均よりも運動時間が長いイタリアの子どもでも1週間に4~5時間しか体を動かせない。日本の子どもは、サッカーに夢中になるための時間と機会がイタリア人に比べるとたくさんあると思います。
日本は体育会系社会ですから、義務教育の過程でスポーツに参加できる機会は多いと言えます。性向としてもそうですね、非常にスポーツ好きです。なんだかよく分からない機関の調査で「日本の子供は他国の子供に比べて学習意欲が低い」云々との結論が導き出されることもしばしばですが、勉強に関わる項目には消極的である一方、一部の項目では正反対の傾向を見せてもいます。例えばこんな項目で日本は抜きんでていたわけですが……
あなたはどんな友達が好きですか?
―――スポーツがよくできる人
あなたは学校の授業が終ると、だいたい何をすることが多いですか?
―――学校で友達とスポーツをしたり、遊んだりする
あなたは休日にはたいていどんなことをしますか?
―――スポーツをする
この夏休み、あなたは次のことをしましたか?
―――スポーツクラブに参加した
あなたはどのような人間になりたいですか。
―――スポーツのよくできる子になりたい
とはいえ、この極端な体育会系志向の社会でありながら、スポーツに参加できる機会を閉ざされている人もまた増加し続けているのではないでしょうか。国によっては貧乏人こそスポーツに賭ける、スポーツでのし上がろうとする、生きるためにスポーツをする、そんなイメージもあるかも知れません。とはいえ、それはあくまで商業化の進んだ競技に限られます。商業化の不十分なスポーツ=金にならないスポーツの場合、そのスポーツを続けられるのは働かなくても食べていける資産家か、国家丸抱えのステートアマだけです。
参考、
オリンピックと商業主義
そして商業化が進んでいるスポーツにしたところで、貧しくとも続けられるのはプロ入りやメダル獲得が確実視される、既に十分な評価を得ている選手だけです。99%以上の人にとって、それは縁のない世界であり、スポーツエリートを除く99%以上の人がスポーツを続けるには、「金にならないこと」に時間を割くだけの経済的、時間的余裕が必要です。しかしどうでしょうか、経済的な問題から競技を諦めざるを得ない、そういう状況におかれた無名の人々が増え続けているとしたら?
既に芽の出ている人を見繕って、そこに集中して投資する、それでもメダル獲得数を増やすだけなら一定の有効性はあるかも知れません。しかし、水をやれば芽の出るかも知れない人々から機会を奪っている昨今の政治状況では、長期的に見てどうなのでしょう? 限られたスポーツエリートだけではなく、普通の人々にもスポーツに参加できる機会を与えること、それだけの生活のゆとりを作っていくこと、これだってメダル獲得数を増やす目的に適っているのではないでしょうか。前者と違って、メダル獲得数の増加だけがそこから得られるというものでもないでしょうし。まぁ、前者の方が安上がりには違いありませんがね。
さて、今回の記事ですが、全く持ってその通りだと思います。
しかし、当面「水をやれば芽の出るかも知れない人々から機会を奪っている昨今の政治状況」は改善されることはないでしょうね。
それは、結局「既に芽の出ている人を見繕って、そこに集中して投資する」方が安上がりだからなのでしょう。
それにしても、日本は「極端な体育会系志向の社会」の社会の割には余りスポーツが強い印象がありません。
むしろ、「極端な体育会系志向」自体が日本のスポーツの発展を妨げている原因になってる気がするのです。
後、私は「極端な体育会系志向」は大嫌いです。
なお、「Painkiller」についてご教示ありがとうございました。後ほど見てみます。
また、しつこいようですが、「D層」に当たる言葉は「殺人教信徒世間体優先派」なんてどうでしょうか?少し長い名前ですが。
長文にて失礼しました。
日本独自の体育会系って、結局のところ競技力の向上にはマイナスですからね。むしろ非合理的な権力関係の刷り込みのためにこそ維持されているわけで。そんなことより、競技の裾野を広げるべきなのでしょうけれど、そういう方向には向かわない……
「殺人教信徒世間体優先派」ですか、そうですねぇ、確かに長くなりすぎてしまう、言葉が説明的になってしまうようであれば、新しく言葉を使う必要性も薄れてしまいますし、なかなか難しいところです。
私はオリンピックのメダルなんかどうだっていいと思いますが、貧乏人がスポーツをできないというのは大いに問題です。この点について改善をするほうが、一部の有力選手に莫大な公金を使うよりも重要でしょう。
経済的な要因から選択肢を奪われている人が少なくない、増加傾向にありますからね。手っ取り早く、かつ確実にカネの得られる方向に進まざるを得ないとなると、スポーツや勉強は一気に縁の遠いものとなってしまいます。単にメダルを増やすだけではなく、もっと幅広い層に有益な政策を掲げませんとね。
私はそもそも今の日本を「先進国」などと思ったことはないのですが、それはともかく、こういう議論はえてして(特に某掲示板など)「全く情けねぇ。本当、今の選手は・・・」という精神論・俗流若者論的な方向に行ってしまうのが、どうにも閉口します。
「下位平準化」はナンセンスでしょうが、先進国だってカナダのように日本よりメダルの数が少ない国もありますし、オリンピックの故郷・ギリシャなどメダルの数では上位の国々に遠く及ばなかったりするのですが・・・。
かくいう私も子どもの頃は何も知らずメダルに拘っていた時期もありましたが、基本的にソウル以降の「冬の時代」しか知らない世代としては、何だかんだで今の選手たちは随分がんばっている方だと思うのですが・・・こういう考え自体が甘い見方なのでしょうか。
むしろ選手が頑張っても、それを支える社会の未成熟の方が論議されるべきだと、私なんかは思いますね。メダルを獲得できそうな人ではないと競技が続けられないとか、その辺りには話が及ばなかったり。ある意味では、子供の学力テストの点数には拘るのに、学費の助成をカットして就学機会を減らすような世相を反映しているのかも知れませんが。
当方の居住する町は、昔(20年ちょっと前)はそこそこでかい公園やら雑木林があったものですが、いまは軒並み駐車場だのマンションだのに化けており、これじゃ子供はどこで遊ぶんだ?と不思議に思うことがしょっちゅうです。
だいぶ前に国会中継を聞いてて呆れ果てたものですが、子供の運動不足の問題を考えさせると「市町村に一つスポーツクラブをこしらえる」という施策が出てきてしまう自民党の先生方ってのは心底から度し難いですね。
まぁ日本の場合、自由に遊ばせる代りに学校体育や強制参加の部活動で運動させるのが国是なのかも知れません。好き勝手に運動させるのではなく、あくまで管理したい、支配したいという気持ちが強い、それがスポーツクラブ云々にも繋がっているような気がします。