"tento film je vénován vśem badatelům,kteří
si svon existenci založili na mystificaci." -Jan Svankmajer "Otrantsky zamek"
ホラス・ウォルポールのゴシック小説『オトラント城綺譚』の舞台は東ボヘミアに実在した? そんな仮説を唱える学者の架空のインタビュー番組を皮肉たっぷりに描いたのが、 ヤン・シュヴァンクマイエルの『オトラントの城』だ。絵本の切り絵が自在に動き出し、 音楽がセリフをなぞりながら、現実と想像の断絶を浮き彫りにする。 学者の発掘写真と絵本が語る悲恋の対照が、「墓泥棒」の卑しさを強調している。
「惑わしに基づいて─自らの実在を構築した全ての研究者に捧げる」
これはこの作品の最後のカットで登場するメッセージ。 予言による破滅というロマンチシズムに囚われた学者の「もっともらしい」言説には、 人々を惑わす文脈のゴーストが息づいている。つまるところ人々の探求行為の真の動機は、 真理を求めることではなく、自身の存在意義を守る為の機制だと言い換えられないか。 これはあらゆる人間に言えることだが、自身について言明する時でさえ、 そこには欺瞞と恣意に満ちた計算が働いている。まして他人のこと、文学・芸術に関して、 誰が『真理』を言い当てることが出来るというのだろう。 歴史研究における信用問題となると、ことは更に深刻だ。誰の事実が世界の事実なのか。
シュヴァンクマイエルは『ファウスト』でも、「不正に操作される世界」を歪な形で表現している。 フレームの内・外でいちいちその本性を曝け出して自動する記号たち。しかし主人公だけは 自らの行動原理に従っているだけなのに、抗いようもなく悲劇へと導かれていく。 この作品での予言のメタファーは、決定論と不可知論の狭間で自身の運命が決定される過程に描かれている。 しかし人々が結末のわかりきった物語に魅せられてやまないのは、様々な瞬間に運命を断ち切る煌きを見るからなのかもしれない。 またこの作品では、シュバンクマイエル作品に共通してみられる人間の基本動作「食べる」「触る」「開け閉めする」といった符号が見事に視覚を通して五感を刺激するように描かれている。こうした映像への共鳴のコネクタが物語に否応なくリアリティを感じさせる。
更に『ジャバウォッキー』では、人間の学習過程において人をシステムに吸収する社会化の 機械的な工程が、ユーモアとグロテスクたっぷりに映像化されている。 そこに人間自身は描かれない。彼女の生活道具、遊具が自動的に動き出し、それを語る。 玩具の構造的な側面がやけに強調されていて面白い。冒頭で家具が森を這ってくるシーンにも注目したい。 これは所謂、外部環境の得体の知らなさ、幼子を取り巻く記号に取り憑いている社会性という魔物、 転じて無垢を食らうジャバウォックの象徴であり、最後にはこの支配関係が逆転する。冒頭で引用されている ルイス・キャロル作「鏡の国のアリス」の一節による化け物退治は予言、そして成長の暗喩であることが示される。 そしてこの作品は全編がストップモーションである。 離在する符号は創り手のパースペクティブによって統合されるが、それが刻むタイムスケールは観察者と同じだ。 芸術や物語とは受け手の為に綴られるものだ。同調か拒絶か。完全な拒絶とは、認識できないものの他にない。 ここで排除されているのは、フィルムの瞬間と瞬間とに挟まれる製作側の操作。その見えざる意思もまた、文脈のゴーストだ。 それは、特定の目的の為にあらゆる論理を統べる、テクスト間の記号の利己的な振舞いを指す。
かつてゲーデルやヴィトゲンシュタインが示したように、言語は言語の記述する範囲において その差異を組み替えていくに過ぎず、事実と説明は等価では有り得ない。 しかし実際には、その言語や記号は現実に干渉し、それによってわたしたちは制御され、あるいは自らを転写する。 そこに露呈されるものがあるとすれば、人の営みを司る生体アルゴリズムの飽くなき業だろうか。 良く見るといい、星を覗くレンズの向こうにあるのは、あなた自身だ。
ホラス・ウォルポールのゴシック小説『オトラント城綺譚』の舞台は東ボヘミアに実在した? そんな仮説を唱える学者の架空のインタビュー番組を皮肉たっぷりに描いたのが、 ヤン・シュヴァンクマイエルの『オトラントの城』だ。絵本の切り絵が自在に動き出し、 音楽がセリフをなぞりながら、現実と想像の断絶を浮き彫りにする。 学者の発掘写真と絵本が語る悲恋の対照が、「墓泥棒」の卑しさを強調している。
「惑わしに基づいて─自らの実在を構築した全ての研究者に捧げる」
これはこの作品の最後のカットで登場するメッセージ。 予言による破滅というロマンチシズムに囚われた学者の「もっともらしい」言説には、 人々を惑わす文脈のゴーストが息づいている。つまるところ人々の探求行為の真の動機は、 真理を求めることではなく、自身の存在意義を守る為の機制だと言い換えられないか。 これはあらゆる人間に言えることだが、自身について言明する時でさえ、 そこには欺瞞と恣意に満ちた計算が働いている。まして他人のこと、文学・芸術に関して、 誰が『真理』を言い当てることが出来るというのだろう。 歴史研究における信用問題となると、ことは更に深刻だ。誰の事実が世界の事実なのか。
シュヴァンクマイエルは『ファウスト』でも、「不正に操作される世界」を歪な形で表現している。 フレームの内・外でいちいちその本性を曝け出して自動する記号たち。しかし主人公だけは 自らの行動原理に従っているだけなのに、抗いようもなく悲劇へと導かれていく。 この作品での予言のメタファーは、決定論と不可知論の狭間で自身の運命が決定される過程に描かれている。 しかし人々が結末のわかりきった物語に魅せられてやまないのは、様々な瞬間に運命を断ち切る煌きを見るからなのかもしれない。 またこの作品では、シュバンクマイエル作品に共通してみられる人間の基本動作「食べる」「触る」「開け閉めする」といった符号が見事に視覚を通して五感を刺激するように描かれている。こうした映像への共鳴のコネクタが物語に否応なくリアリティを感じさせる。
更に『ジャバウォッキー』では、人間の学習過程において人をシステムに吸収する社会化の 機械的な工程が、ユーモアとグロテスクたっぷりに映像化されている。 そこに人間自身は描かれない。彼女の生活道具、遊具が自動的に動き出し、それを語る。 玩具の構造的な側面がやけに強調されていて面白い。冒頭で家具が森を這ってくるシーンにも注目したい。 これは所謂、外部環境の得体の知らなさ、幼子を取り巻く記号に取り憑いている社会性という魔物、 転じて無垢を食らうジャバウォックの象徴であり、最後にはこの支配関係が逆転する。冒頭で引用されている ルイス・キャロル作「鏡の国のアリス」の一節による化け物退治は予言、そして成長の暗喩であることが示される。 そしてこの作品は全編がストップモーションである。 離在する符号は創り手のパースペクティブによって統合されるが、それが刻むタイムスケールは観察者と同じだ。 芸術や物語とは受け手の為に綴られるものだ。同調か拒絶か。完全な拒絶とは、認識できないものの他にない。 ここで排除されているのは、フィルムの瞬間と瞬間とに挟まれる製作側の操作。その見えざる意思もまた、文脈のゴーストだ。 それは、特定の目的の為にあらゆる論理を統べる、テクスト間の記号の利己的な振舞いを指す。
かつてゲーデルやヴィトゲンシュタインが示したように、言語は言語の記述する範囲において その差異を組み替えていくに過ぎず、事実と説明は等価では有り得ない。 しかし実際には、その言語や記号は現実に干渉し、それによってわたしたちは制御され、あるいは自らを転写する。 そこに露呈されるものがあるとすれば、人の営みを司る生体アルゴリズムの飽くなき業だろうか。 良く見るといい、星を覗くレンズの向こうにあるのは、あなた自身だ。
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