Phineas Gage(図A)の事件,いわゆる「アメリカの鉄梃事件 (the American Crowbar Case)」は,神経学や精神医学を学ぶ過程で,多くの人が耳にする有名な逸話である.1848年,ペリーの黒船来航の5年前,鉄道建築技術者の職長であったPhineas Gage(25歳)はアメリカ合衆国Vermont 州の小さな町で,岩盤を爆破する仕事をしていた.爆薬を仕掛けるために,岩に穴を掘り,火薬等入れて,鉄の突き棒で突き固める作業をしていた.このとき,突き棒が岩にぶつかって発火し,ダイナマイトは爆発した.彼は30メートル近く吹き飛ばされたが,その際,長さ109 cm,太さ 3 cm,重さ6 kgもの鉄棒が,彼の下顎から頭蓋底を貫通した.診察を行ったDr. Harlowは「頭頂部には…深い陥凹がある.長さ2インチ,幅は1インチから1インチ半で,直下に脳血管の拍動を触れる.顔面の左半側に部分麻痺」と記載している.しかし事故後,彼の意識はしっかりしており,支えられれば歩くこともできた.その後,一時,頭蓋内圧亢進のため昏睡状態になったが,Dr. Harlowの治療を受け,10 週間ほどで退院した.その後,7ヶ月ほど静養し,もとの仕事に復帰したが,以前のような役割を果たすことはできなかった.きまぐれで,非礼で,下品で頑固,優柔不断となり,将来の行動の計画も立てられなかったという.周囲から「彼はもはやGageではない」と評された.
鉄道建築の仕事に復帰できず,いくつかの仕事を行ったあと,最終的に馬車の御者と飼育係になった.その後,1860年2月,初めて痙攣を経験した.後遺症としてのてんかん発作は次第に悪化し,5月21日死亡した.剖検は行われず,脳は存在しないが,後にお墓が掘り起こされ,頭骸骨(図B)と事故の原因となった鉄棒はDr. Harlowの元に送られた.
この症例は19世紀当時の精神と脳に関する議論,とくに脳の機能分化に関する議論に影響を及ぼした.脳の特定の部位の損傷が,人格に影響を及ぼしうることを示唆した初めての事例と考えられている.前述のように神経学や精神医学でしばしば言及されるが,そのインパクトから歌や演劇,テレビドラマでも取り上げられ,その中では過度に誇張されたり,事実と反することが記されたりしたようだ.
近年,Phineas Gageに関するいくつかのことが分かってきた.2009年に,彼の肖像写真が発見された(図A).この写真の持ち主は,長年の間,銛を手にしたクジラ獲りの漁師を写したものだと考えていた.しかし銛ではなく,彼の脳を突き刺した鉄棒であった!片眼を閉じ,傷痕ははっきり見え,「身だしなみは良く,自信ありげで堂々とすらしている」という過去の記載に合致するものであった.
また科学の進歩は,彼が受けた脳の損傷について徐々に明らかにしていった.鉄棒により前頭葉が傷害を受けたと推定されてきたが,正確には前頭葉のどの部位が傷害されたのかは不明であった.1994年,米国アイオア大学の Damasio らは,保管されていたGageの頭蓋骨と標準的な脳のMRI画像とを重ね合わせ,鉄棒の位置を推定し(図C),前頭葉の眼窩面(前頭眼窩回)と前頭葉の先端部(前頭極)を中心とする損傷があったと,Science誌に報告した (Damasio et al. Science 264, 1102-1105,1994).
2012年,UCLAのVan Hornらは,拡散強調画像を用いた白質線維ネットワークに注目した検討を行った.25-36歳の男性のデータを集積し,それを用いて,大脳皮質と白質の傷害部位を推測した.この結果,鉄棒による直接の傷害は左前頭葉に限局するものの,その他の領域とのネットワークの傷害は広範であったことを示し,長期に渡り行動変化がみられた原因であると考察した(PLoS One. 2012;7(5):e37454).
さらにロンドンのde Schottenらは,129名の健常者の拡散トモグラフィーから,精密な白質コネクションの地図を作成した.この結果,傷害を受けた脳の領域(図D)は病変から離れた領域にも影響を及ぼすこと,具体的には感情や意思決定に関わる領域(図E)に障害が生じたものと推測された.コネクトーム解析はこの歴史的な症例を,離断症候群の1例として再評価することを可能にしたのだ(Cerebral Cortex 25;4812-4827, 2015).現在,Phineas Gageの頭蓋骨は,その肖像写真と鉄棒とともに,ハーバード大学図書館4階のWarren Anatomical Museumに展示されている.写真付きの身分証明書を提示し,署名をすれば図書館内に入り,見学することができる.同じ階にはハーバード大学のトランスレーショナル・リサーチを推進するHarvard Catalystがある.
Warren Anatomical Museum
鉄道建築の仕事に復帰できず,いくつかの仕事を行ったあと,最終的に馬車の御者と飼育係になった.その後,1860年2月,初めて痙攣を経験した.後遺症としてのてんかん発作は次第に悪化し,5月21日死亡した.剖検は行われず,脳は存在しないが,後にお墓が掘り起こされ,頭骸骨(図B)と事故の原因となった鉄棒はDr. Harlowの元に送られた.
この症例は19世紀当時の精神と脳に関する議論,とくに脳の機能分化に関する議論に影響を及ぼした.脳の特定の部位の損傷が,人格に影響を及ぼしうることを示唆した初めての事例と考えられている.前述のように神経学や精神医学でしばしば言及されるが,そのインパクトから歌や演劇,テレビドラマでも取り上げられ,その中では過度に誇張されたり,事実と反することが記されたりしたようだ.
近年,Phineas Gageに関するいくつかのことが分かってきた.2009年に,彼の肖像写真が発見された(図A).この写真の持ち主は,長年の間,銛を手にしたクジラ獲りの漁師を写したものだと考えていた.しかし銛ではなく,彼の脳を突き刺した鉄棒であった!片眼を閉じ,傷痕ははっきり見え,「身だしなみは良く,自信ありげで堂々とすらしている」という過去の記載に合致するものであった.
また科学の進歩は,彼が受けた脳の損傷について徐々に明らかにしていった.鉄棒により前頭葉が傷害を受けたと推定されてきたが,正確には前頭葉のどの部位が傷害されたのかは不明であった.1994年,米国アイオア大学の Damasio らは,保管されていたGageの頭蓋骨と標準的な脳のMRI画像とを重ね合わせ,鉄棒の位置を推定し(図C),前頭葉の眼窩面(前頭眼窩回)と前頭葉の先端部(前頭極)を中心とする損傷があったと,Science誌に報告した (Damasio et al. Science 264, 1102-1105,1994).
2012年,UCLAのVan Hornらは,拡散強調画像を用いた白質線維ネットワークに注目した検討を行った.25-36歳の男性のデータを集積し,それを用いて,大脳皮質と白質の傷害部位を推測した.この結果,鉄棒による直接の傷害は左前頭葉に限局するものの,その他の領域とのネットワークの傷害は広範であったことを示し,長期に渡り行動変化がみられた原因であると考察した(PLoS One. 2012;7(5):e37454).
さらにロンドンのde Schottenらは,129名の健常者の拡散トモグラフィーから,精密な白質コネクションの地図を作成した.この結果,傷害を受けた脳の領域(図D)は病変から離れた領域にも影響を及ぼすこと,具体的には感情や意思決定に関わる領域(図E)に障害が生じたものと推測された.コネクトーム解析はこの歴史的な症例を,離断症候群の1例として再評価することを可能にしたのだ(Cerebral Cortex 25;4812-4827, 2015).現在,Phineas Gageの頭蓋骨は,その肖像写真と鉄棒とともに,ハーバード大学図書館4階のWarren Anatomical Museumに展示されている.写真付きの身分証明書を提示し,署名をすれば図書館内に入り,見学することができる.同じ階にはハーバード大学のトランスレーショナル・リサーチを推進するHarvard Catalystがある.
Warren Anatomical Museum