Neurology 興味を持った「脳神経内科」論文

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ALS患者における高脂血症は治療してはいけない!?

2008年01月27日 | 運動ニューロン疾患
 フランスより驚くべき研究結果が報告された.ALSにおける高脂血症は予後因子であり,脂質値を下げてはいけない可能性があるというものである.なぜこのような研究が行われたかというと,過去にALS患者ではその3分の2の症例において代謝亢進状態を認め,それが生存期間に影響を及ぼしているという報告があること,またALS動物モデルにおいて,①代謝亢進と脂肪組織の減少があり,②食事中の脂肪含有量が神経保護作用と生存期間延長をもたらし,③逆にカロリー制限が運動症状の増悪をきたす,という報告があるためである.

 さて,研究の方法としては,血清中の中性脂肪,総コレステロール,LDLおよびHDLコレステロールを369名のALS患者と286名の健常者において比較するというシンプルなものである.また結果を確認するため,上記とは別にALS 59名,およびパーキンソン病16名の剖検後の肝組織を用いた脂肪肝の評価も行っている.

 結果として,ALS患者では健常者と比較し,総コレステロール値では19%,LDLコレステロールでは33%,LDL/HDL比では38%高値であった.中性脂肪とHDLコレステロールに関しては差はなかった.またALS患者における高脂血症の有病率は,健常者の約2倍高率であった(具体的には,総コレステロール値を基準とした場合,ALSの23.8%に対し,健常者で11.2%であった).またLDL/HDL比が高いALS患者群(LDL/HDL比が3以上)は,LDL/HDL比が低いALS患者群(3未満)よりも有意に長生きで,前者(N=167)が平均49.2か月の生存であったのに対し,後者(N=201)は平均37.7か月の生存であった.さらに剖検肝組織の検討では,脂肪肝の有病率はALS患者とパーキンソン病患者で差はなかったが,脂肪化した病変の占める割合はALS患者において有意に広範であった.

 以上より,高脂質血症はALSの予後因子である可能性が示唆された.つまり,ALSの症状の進行に対して,栄養学的な介入が有効である可能性を示唆し,またALS患者への脂質低下薬(スタチン等)の使用には注意する必要があると考えられた.

 この結果は極めて重要な意義を持つ.例えば,全世界的にも唯一のALS治療薬であるリルゾールは,その効果が2-3ヶ月の生存延長効果であることがコクラン・ライブラリー上に公表されたが,それと比較するとこの12か月の生存期間の違いは極めて大きな意義を持つことがわかるだろう.この論文を読んで,早速,自分の担当するALS患者さんでスタチン内服をしていた方の内服を中止した.論文では最後に,国家レベルでALS患者の栄養状態に関する研究を行うことを推奨しているが,このような研究こそ国家は全力をあげてサポートし,研究費を投入し,推進しなければならない.

Neurology, on line Jan 16, 2008 




追伸(話は逸れますが・・・)

 この研究は,たとえ多額の研究費がなくても,「しっかりその理論的根拠と目的を考えていけば,臨床的意義が大きく,患者さんに貢献できる研究ができる」ことを示した.ぜひこれから基礎・臨床研究を始められるMDの先生方には,このような研究を目指してほしい.

 しかし現実には,話題のiPS細胞研究のように2008年度だけで計30億円以上の国費が投入される研究もあれば,患者さんの臨床に役立つはずと思い,せっせと申請書を書いても研究費をいただけない研究もある.例えばALSの分野では,昨今,多額の研究費が投入されているのは疾患感受性遺伝子研究であろう.患者さんの期待も大きい.たとえばALS患者276人,コントロール271人に対し555352個にも及ぶSNPsを検討し,うち34個が疾患感受性遺伝子の候補であることを示した大がかりな研究が,昨年,Lancet Neurolというインパクトファクターの高い学術誌に報告されたが,正直なところ臨床的意義はまだ不明であり,申し訳ないが,私はさほどお金のかかっていない今回のコレステロール研究のほうが価値が大きいと思う(もちろん単純に比較できるものではないけど).

 研究費を分担する側に話題を移すと,単に試験管レベルやシークエンサー上の研究成果であっても,あたかも「明日にでも日常診療で使えるようになる」と思わせるプロパガンダを鵜呑みにし,熱狂的にその研究に期待を寄せていないだろうか.振り返ればアポトーシス研究やヒトゲノム・プロジェクト,ES細胞研究に多額の研究費が投入されたが,それで臨床現場は変わっただろうか?

個人的には以下に挙げるような研究に,もっと研究費を投入してよいと思う.

①これまでの基礎研究で有望な成果が得られておきながら,治験や臨床応用できずに滞っているものを推進するための研究費(基礎研究と臨床応用では必要な設備やノウハウが異なるため,進展しないことはある).
②基礎研究において大変な労力を用いて成功・開発された検査(例えば遺伝子診断や抗体検査など)を,ルーチン・ワークとして継続するための研究費.

パーキンソン病の研究支援で有名なMichael J Fox財団のホームページをぜひ見てほしい.これが患者さん側の気持ちだろう.研究のための研究(費)ではなく,臨床に直結する研究をするためには何をすべきか,研究費を出す側も,研究を行う側もしっかり考えていく必要がある.
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腱反射とハンマー

2008年01月20日 | 医学と医療
 医学生が臨床実習に参加する際,一般診療に関する基本的臨床能力を備えていることが望ましい.このため医学生は,病棟での臨床実習を始める前に,その基本的臨床能力をテストされる.これが客観的臨床能力試験 Objective Structured Clinical Examination OSCE(オスキー)と呼ばれるものである.自分が学生の頃にはこのような試験はなかったが,教える側には負担がかかるものの,教わる側にとってはとても良い制度である.試験項目は医療面接,頭頸部の診察,胸部の診察, 腹部の診察,脳神経の診察,小外科基本手技(縫合・抜糸)などで,学生は試験会場において,上記実技を行う各ステーションを順々にめぐり課題を行い,評価者は点数をつける.評価によっては落第することもある.恥ずかしいことに自分自身,神経内科領域以外の基本的診察法は自信がなくて,OSCE用の参考書を1冊購入した.診察と手技がみえる vol.1 (1) この本はかなり勉強になる代物で,いまの医学教育は恵まれているなと感じた(学生以外にもお勧めである).

 さて神経内科領域のOSCEについても,教科書によって診察法や記載法が異なり,戸惑ったりすることもある.おそらくこれは日本といえど,いろいろな流派の診察法があるためと思われる.さらに昨今の清潔操作や感染防止の概念が診察法に影響しているようだ.たとえば表在覚検査は,清潔操作や感染防止の見地から筆やローラーは使わず,その代りティッシュをこよりにしたものや爪楊枝を使うよう指導される.顔面の表在感覚を診る場合には,「ティッシュこより」を両手に持ち,左右の顔面を顔の中央から左右外側に向けて同時にこするよう指導されるのだが,何も知らず診察風景を見れば現役神経内科医は何をしているのだろうと驚くだろう.

 また神経内科診察で,学生が一番苦手なものは腱反射のようだ.どこをどう叩けば反射が出るのか,もし出せたとしてどのように記載すれば良いのか分からないという.腱反射の出し方としては,「被検者をリラックスさせ,検査する筋の力を抜かせて,それぞれの筋に応じた正しい肢位で,適度な強さで腱をポーンと叩くのが基本で,健常者であればだれでも誘発することができる腱反射(いわゆるBabinskiの5大反射;上腕二頭筋反射,回内筋反射,上腕三頭筋反射,膝蓋腱反射,アキレス腱反射)を確認し,評価は作動筋の「速さ」「程度」「持続時間」で判断する」よう指導する(Clinical Neurosceince 22; 889-891, 204).しかし学生の「すべての腱を同じように叩かないと評価できないのでは?」という鋭い質問には返答に困ってしまった.いつも変らぬ強さで,適切な強さで,かつ左右同じ強さで,叩けているのだろうか?これは学生に指摘されるまでもなく,ずっと気になっていたことである.

 これはどんなハンマーを使っているかということも大事なのではないだろうか?たとえば適切な強さで叩けているかについては,何回か叩いてみて一定の筋収縮が得られるのであれば,おそらく「適切に」叩けていると判断して良いと思うが,それでもハンマーの叩く部分が軽すぎると力が加わらずうまく反射を出せないような気がする(ヘッドの部分の軽いハンマーは,日本で発明されたハンマーに多い;大貫型吉村型などがこれに当たる).また日本で一番使われていると思われるアメリカ式のTaylor型打腱器は個人的にもよく使うが(ヘッドのゴムが,黒,オレンジ,白とあって,白がやわらかく通常の診察では患者さんの痛みのことを考えてこれを使っている),これでもまだヘッドが軽い.自分は腱反射の有無をきちんと確かめたい微妙なときは,「マイ勝負ハンマー」としてTroemner型を使っている(写真左).これは米国神経学会(AAN)の学会場やAAN storeで購入できるが(学会員52ドル,非学会員62ドル),「出せない反射も出せる」というキャッチコピー通り,振り心地が重厚で手にしっくりきて,確かに反射も出るような気がする(でも患者さんは痛い).Babinski反射用の足底をこする柄の反対部分は適度に角が丸くなっていて,こちらは患者さんにやさしい(新品のTaylor型打腱器は鋭くとがっていてあまりに痛い).またQueen square型ハンマーというヘッドが円形で,柄の部分がプラスチックのものも売っているが,個人的には柄のしなりのお蔭で強く叩けて好きな半面,長さゆえにときどき正確に腱を叩けなかったり,携帯しにくい欠点があったが,今回,柄の伸縮するタイプ(Rabiner型)が発売されたので,早速,購入し持ち歩いている(写真中,伸ばすと右になる).これはヘッドの向きも柄に対して水平・垂直に変えることができて,打腱しやすくなっている(ひゅっと伸ばしてみんなが驚くのが楽しい).

 神経内科は腰椎穿刺以外,ほとんど技術はいらないと自嘲したりすることもあるが,必ずしもそんなことはない.いかに適切に同じ強さで腱を叩けるか神経内科医の重要な技術である.でもハンマーへのこだわりは他科ドクターには決して理解できないでだろうが・・・

世界で使われている打腱器の種類 Clinical Neurosceince 22; 892-896, 2004(田代先生のコレクションのすごさに恐れ入ります)



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無口な医師からの脱却

2008年01月14日 | 医学と医療
 医師はなかなか自分の意見を外部に発言しない.いろいろな理由があるのだろうが,自分の場合,それが「医師の美徳」と思っていた.そういう教育をずっと受けてきた.私の最初の指導医は繰り返し「医師には休日はない.患者のために働きなさい」と言っていたし,割の合わない経済待遇にも,「医師にはそれ以外の喜びもあるから」と,みんな同様,文句を口にしなかった.

 ただもはや「医は仁術」などと,自分が我慢すれば良いというような状況ではなくなった.医療費はどんどん削減され,医療の現実を殆ど知らない司法の介入は,産科・小児科,そして神経内科も含む救急医療の崩壊を招いた.一部マスコミよって煽動された患者の過剰な権利意識の高まりは医療従事者を萎縮させ,厚労省による無思慮な新研修制度は,若いドクターの都心集中と大学離れを加速させ,地方での医師不足の深刻化に伴う医療崩壊加速と,大学での臨床・基礎研究のレベル低下を招いた.もはや医師は我慢するだけでなく,現状の改善のために積極的に意見を述べ,医療を守らねばならない.また自分たちに続く若いドクターや医学生のためにも「患者を救うという医師の仕事が当たり前に,かつ誇りを持って行える」環境づくりを,われわれ先輩ドクターはしっかり行っていかねばならないと思う.

 昨日,「全国医師連盟設立準備委員会」が東京都内で総決起集会を開いた.全国医師連盟(仮称)の設立は,医師が誇りを持てる労働環境を創設して医療の質の向上につなげることが狙いだという.大学や学会や病院などの既存の権威に依存しない,あくまで現場の医師達の組織ということだ.日本医師会に比べて勤務医が多いこと,平均年齢も43歳と若いことが特徴で,医師の労働環境改善を目指したドクターズユニオンの創設や医療費抑制策への反対キャンペーン,医療過誤冤罪の発生を防ぐため支援活動などを展開するという.

 ぜひ一度,ホームページを見ていただきたい.参加するかどうかはよくホームページの檄文と理念など読んで決めていただければ良いと思う.またホームページには,これから大きな問題になるはずの「医療安全調査委員会」問題のことも取り上げられている.「医療安全調査委員会」は医療事故を受けて,医療事故の死亡原因を公平・中立な立場で調べる第三者委員会のことであり,当初,この創設は,患者・家族にとっても医療者にとっても望ましいものになるはずであったが,厚労省より提出された試案は大きな問題をはらむものであった.つまり厚労省という単一組織が「調査権・処分権」をもち,かつ調査結果を刑事・行政処分に活用できる余地を残しているのである.医師を処罰の対象として考え,何かあれば取り締まってやろうという立場で調査制度を設けるものであり,医療の国家統制や医療従事者のさらなる萎縮,医療崩壊の加速を招きかねない危険な制度であることをわれわれは認識すべきである(自民党議員も中心となり,厚労省の試案とほぼ同じ法案を3月の通常国会に提出するらしい.なぜこのような問題を猛スピードで決着つけようとしているのか?).

 「国手」とは,名医は国の病をも治すという古語にちなんだ,医師に対する最高の尊称である.医師たるものはすべからく「自分たちが国の浮沈のカギを握っているのだ」というぐらいの気概を持って今の社会に意見をしていくべきだと自分は考える.

全国医師連盟 設立準備委員会

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水俣病は過去の病気ではない

2008年01月02日 | 医学と医療
 水俣病はメチル水銀化合物に汚染された魚介類を食べることによって発症する中毒性疾患である.メチル水銀化合物は,酢酸や酢酸ビニルの原料となるアセトアルデヒドを生産する化学反応の際に触媒として使用された無機水銀(硫酸第2水銀)が変化して副生される.メチル水銀化合物は,肝臓や腎臓に蓄積するが,血液脳関門を容易に通過し,中枢神経症状を起こすばかりでなく,血液胎盤関門も通過し,神経組織が脆弱で,かつ水銀排泄システムの劣る胎児に重篤な症状をもたらす(胎児性水俣病).水俣病が熊本県水俣湾付近で確認されたのが昭和31年,新潟県阿賀野川流域で確認されたのが昭和40年と言われている.

 阿賀野川をご覧になったことがおありだろうか?私がはじめて阿賀野川を見たのは大学生のときであった.とても衝撃的で鮮明に覚えている.とても雄大でおおらかで美しい川だった.教科書で覚えた「四大公害・有機水銀・生物濃縮」などという言葉ととても結びつく景色ではなかった.のちに「阿賀野」とはアイヌ語で「清い川」を意味するということを知ったがとても納得できた.阿賀野川は源流を栃木県の荒海山に発し,全長210 kmにも及ぶ.周辺の住民にとっては重要な交易路であったのみでなく,季節ごとにサケ,マス,ヤマメ,ウグイ,ボラなど川漁が行われ,住民の生活や食生活を支えた.その阿賀野川上流の鹿瀬町(現阿賀野町)にあった昭和電工鹿瀬工場(現在はセメント工場になっている)からメチル水銀化合物を含む工業排水が排出された.

 新潟水俣病は過去の病気だと思っておられる若いドクターが多い.実際,新潟在住の中堅の神経内科医であってもほとんど診察をしたことがないため無理からぬことである.しかし一方で,平成17年から昨年11月までの認定申請数は新潟水俣病に限っても36名,平成17年より再開された医療事業としての保健手帳の交付件数は100名を超える.つまり決して過去の病気などではなく,今なおこの病気に苦しめられている人がたくさんいるのだ.たとえば一番若い患者さんは当時の胎児性水俣病と考えられるが,昭和40年当時に母胎に宿っていたとして現在42歳前後である.胎児性水俣病は新潟では熊本と比較し少なく,公式には1名と言われているが(熊本での結果をもとに,毛髪水銀濃度の値によって,墮胎や受胎調節指導が行われたためだ!),実際には公になっていない患者さんが少なからずいるものと考えられている.胎児性水俣病に限らず,水俣病では,公になっていない,未認定の患者がきわめて多い.これはどう考えればよいのか?いわゆる「被害者の潜在化」と呼ばれる現象であり,「新潟水俣病は過去の病気だ」と勘違いしてしまったり,患者さんを診察したことがないということの一因にもなっている.ではなぜ「被害者の潜在化」が生じたのか?

 昭和40年から42年にかけて椿忠雄教授をはじめとする新潟大学神経内科および関係市町村は阿賀野川流域住民に対して集団検診を幾度か行い(約2万9000人を対象とした),患者さんの発見にあたった.しかしそれほど大規模の検診にもかかわらず「被害者の潜在化」は生じた.これは「新潟水俣病問題―加害と被害の社会学(東信堂,1999)の渡辺伸一による分析が詳しいが,集団検診の未受診,認定申請の遅れ,疾患に対する誤解や無知などが関与しているようだ.私も認定を申請しなかった患者さんに話を伺ったことがあるが,「自分が申請しなかったのは,仕事の依頼がなくなり失業し,家族を路頭に迷わせてしまうためだ」とおっしゃっていた.その患者さんは椿教授の診察を受け,感覚障害や視野の検査の際,必死に「しびれません,良く見えます」と答えたことを教えてくれた.つまり水俣病には差別という社会的な問題が大きく関わっている.水俣病は発生当初,原因が不明であったため,「タタリ」とか「伝染病」と誤解され,患者・家族は隔離され孤立した.「水俣隠し」という言葉もある.これは漁業をおもな生業とする松浜地区で,漁民が地域ぐるみで水俣病被害を隠したことを指す.つまり松浜から患者が出ては魚が売れなくなると心配し,「川魚は食べなかった」と申しあわせをし,患者として申し出ることをタブーとしたのである.さらに救済をめぐる裁判後,保障をめぐって「金銭目的」「ニセ患者」といった中傷も生じた.このような水俣病の社会的側面について認識することはこの病気の理解のために不可欠である.

 そしてもう1点,神経内科医が理解しておかねばならないことは水俣病とは医学的にどんな疾患であるかということである.たとえば,「水俣病=ハンター・ラッセル症候群」と記載された教科書を見たことがあるがこれは正確ではない.ハンター・ラッセル症候群は1940年,英国で起こった有機水銀含有農薬をつくっていた工場の労働者の中毒事件である.昭和40年,椿教授が診察した3例の臨床所見が,典型的ハンター・ラッセル症候群を呈していたため,原因解明の重要なヒントになったのは事実だが,同じ有機水銀中毒ではあるものの両者は以下の2点において異なっている.

①ハンター・ラッセル症候群は工場労働者の職業病であり,直接暴露による中毒であるのに対し,水俣病は環境汚染後,食物連鎖を介し手生じた間接中毒である(そういった意味では水俣病には前例がない世界初の公害病である).
②ハンター・ラッセル症候群は直接曝露で重症であり,比較的均一な症状を呈するのに対し,水俣病には魚介類の摂食量に応じて重症から軽症のvariationが生じうる.

 椿教授はのちに,水俣病の診断基準を提唱している.
1. 神経症状発現以前に阿賀野川の川魚を多量に摂取していたこと.
2. 頭髪(または血液,尿)中の水銀量が高値を示したこと.
3. 下記の臨床症候を基本とすること.
① 知覚障害(しびれ感,知覚鈍麻)
② 求心性視野狭窄
③ 聴力障害
④ 小脳症候(言語障害,歩行障害,運動失調,平衡障害)
以上の4症候をすべて具備しなければならないわけではない.また,感覚障害はもっとも頻度が高く,とくに,四肢末端,口囲,舌に著明であること,またこれが軽快しがたいことを重視する.
4. 類似の症候を呈する他の疾患を鑑別できること.

 そして「非定型例,軽症例を拾い上げていく場合,最終的に正常人との区別をどこに置くか,また他疾患の合併のある場合,その症状が中毒にためか,他の原因のためか区別をつけねばならない極限的な立場に追い込まれること」,また「ただ広く拾い上げてそれでこと足れりとするならば医学的良心の放棄ともいえる.常に診断に苦しみ悩み続ける」とも述べておられる.

 診断基準は自然科学的に決定されるように思われがちだが,実際にはそうでなく,様々な立場がある.疾患について原因究明や治療開発を目指す場合,他の疾患の混入を避ける必要があり,診断基準は厳密であるべきだが,患者さんの救済のためにはより緩やかな基準が必要となる.また公害病の場合にはさらに政治的な問題も絡む.一方,神経内科学的な見地からは,水俣病の感覚障害の機序が末梢性なのか中枢性なのか,また感覚障害のみを呈する水俣病が存在するのか,そうであれば他の疾患と鑑別する方法はあるのか,といった解決すべき問題は残されている.いずれにしても水俣病は現在進行中の疾患であることを認識し,この経験をどのように時代に伝えていくか議論することが必要と思われる.

 たくさんの資料を読んだが,とくに参考になった書籍を紹介する.とくに前者はこの疾患の全体像を理解するのに役だったので紹介したい.

水俣への回帰 (日本評論社)

新潟水俣病問題―加害と被害の社会学(東信堂)
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