Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

肉体化の究極の言語化

2007-11-25 | 文学・思想
小市民社会、所謂プチブルジョワジービーダーマイヤー風と呼ばれるような世界の終りが、第八回放送「ファウストュス博士」の内容である。それは、ミュンヘンの社交界の二人の娘を通して、第一次世界大戦中から戦後への情景として描かれる。

妹のイネスは普通の結婚をして三人の子を儲けるが、性的な経験はいよいよ満たされない愛情へと油をを注ぐこととなる。書き手が語るように、「内面的なものを勝手に誇大して読みものにしたくはないが、こうした躊躇する心情こそが小市民的感情であって」と、ここで扱われる崩壊する市民感覚が強調されている。それは、当時流行った表現主義的な傾向よりも、むしろホフマンスタール作の徹底的にそれを虚構化した楽劇「薔薇の騎士」が大成功する社会の歪みを巧く映し出している。芸術を目指す姉女優クラリッサの死にそれがパロディー化されているとしてもよかろう。

ホフマンスタールでは時代背景のヴィーン情緒にのったノスタルジーに溢れた情感が読み手を喜ばすのに比べて、ここではイネスの内省的なディアローグに、ここ一番、作家の腕が思いのほかふるわれている。恐らく、デビュー作「ブーデンブロック家」での市民社会の描写との対照が意識されていたに違いない。そうした極限の表現が、あとに来るミュンヘンの保守的な文人サロンの描写において、主題となる。

つまり、既に登場したブライザッハーも含まれる、浮世絵などの収集家で装丁家キルトヴィースのアパートメントに集う男達の思考は、国家社会主義の知的な面を凝縮するように描かれている。しかし、そこでは、またまたラインヘッセンなどの言葉が話され、マインツやビンゲンをかすめるようにある地域性が示されていて、ミュンヘンのシュテファン・ゲオルゲグループのオカルト的なナチスの源泉の提示がここでは慎重に避けられると同時に南ドイツの正統的思想的気質がシュトラスブルクまで含めて、婉曲に触れられているのが面白い。

さて、その問題のサロンに集うのは、ミュンヘンの社交界にいたがまもなく郊外へと移るイネスのご主人インスティトリス博士、ダーヴィン進化論的には人類はとっくの昔に進化を終えたとする動物学者ウンルーエ、歴史文学者フォーグラー、デュラー研究家ホルツシューラー、戦争詩人ダニエルにネッサウ家のプリンス達などである。そしてこれらの男達は何事もヴァイマール憲章の自由主義の中に、敗戦にあわやプロレタリア独裁へと扇動した暴徒をフランス革命の教訓にしたド・トクヴィルに代表される文化の中に、自由を茶化して捉える。要するに、自由の自己の誇示は論敵を押さえ込むことに他ならない自己矛盾に、専制的な平均化と原子化の、個人がそこに解消される大衆統治を指す。

更に、十三世紀の神学における拘束と自由の関係に、可能性を拡げる研究の客観的拘束を見て、現代の非抽象的な拘束を考えて行く。文字の初等教育を例に挙げ、言語は読み書きから生まれないことから、先に進めて語彙の必要、清書の必要どころか言語の必要にすら疑問を投げ掛ける。これは先に作家が腕を振るった女性イネスの吐露の言語化に相当していて、抽象化が必要なければ言語などは無用とする結論が自然に導かれる。

まさにここに浮き上がるのが、上の男達の示す、極限のザッハリヒカイトなのである。つまりその即物主義は、これをして向野蛮主義となる。しかし、男達の知的遊戯は、そこに収まらない。そしてそこで衛生観念が虫歯治療の論理として話題に上り、感染を恐れて疑わしきは抜いてしまえとなる。これこそが強迫観念的なザウバーカイトであり、ユダヤ人や弱者やアブノーマル者のセレクションとなって行くが、徹底的なドイツ合理主義から導かれる。

一方、主人公のアードリアンは、第一次世界大戦の敗戦に近づき体調を崩しながらも、その黙示録を土台としたオラトリオ作曲に従事して行く。ダンテの煉獄やデューラーの版画などを具象化する曲は、オットー・クレンペラーの指揮で歌手カール・エルプを得てフランクフルトで初演される。そして、人妻イネスに求められるヴァイオリニスト、シュヴェルトフェーガーの体を使ったヴァイオリン協奏曲の作曲が構想され、その肉体の芸術化が始まる。

また語り手は、ミュンヘンでの蜂起に関して、プロレタリアートの暴徒の文化破壊は心配した以上のものではないとしているが、1944年の著作である事を考えれば、作者の誤認も致し方ない。こうして、原文三十二章から三十七章が必要な多くの選択省略をもって語られた。



参照:
呵責・容赦無い保守主義  [ 文学・思想 ] / 2007-11-19
ホロコーストへの道 [ マスメディア批評 ] / 2005-01-29

コメント (2)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ライフスタイルの都会文化 | トップ | 痴漢といふ愛国行為 »
最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
プチブルジョワジ (ohta)
2007-11-25 12:02:46
 翻訳を眺めながら聴いていますと結構「多くの選択省略をもって」どんどん飛んで進行していることが分かります.これまでの回はずっと 21:30 から一時間半でしたので,それで予約録音にしておいたら,最初の 5 分と末尾が切れていました.

 懐疑的・嘲笑的に描かれている,そうしたプチブルジョワジの社交界に,当時の為替差益で,多くの日本人留学生も入り込んでいたのでしょう.バイエルン気質がプロテスタント絶対という生地と対比されているようですが,直裁的に分かるというところには至りません.その頃の日本人留学生は自国に何を持ち帰ったのでしょうか.第二次大戦直後の大阪にはプチブルジョワジの片鱗がまだ残っていましたが,知的活動の分野はここに出て来るミュンヘンのそれとはずいぶん異なるものでした.
返信する
伝統を映し出すパレット (pfaelzerwein)
2007-11-25 17:24:42
「知的活動の分野」をマンの「文章化してみせる」という激しい意志とともに昨日から考えていました。日本人の記録は幾つか面白いものがありそうです。しかし、ご指摘のような面では恐らく抽象化・即物性で精神化に面白い特徴が出ているようです。

水曜日の放送時間のズレは感じませんでしたが、確かに自動録音したナレーションの頭は切れていました。

ミュンヘン気質は、なるほど中部ドイツの伝統を映し出すパレットになっていて、実際のプリングスハイム家のようにユダヤ文化をも包みこむ素地があったのですね。プファルツは植民地としての地位がまだ当時は色濃かったのも想像出来ます。
返信する

コメントを投稿