Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

理性を埋める過去の美化

2007-07-05 | 文学・思想
ラインの古城は、ドイツ・ハイロマンティックの世界に今も佇む。その一つブルク・ゾーネックを見学して、それらの独特の意味合いに今更ながら気がつく。

幾つもある古城の間には、意味合いの差があるとしても、基本的にはロマンティック精神の表徴として、ヴィクトル・ユゴーなどによってこれらの古城が描かれている。

特に、プロイセンの支配が強かった19世紀にはそれらが皇太子などによって購入されて、作り変えられていく様子を知ると、バイエルンのルートヴィッヒ二世を気がふれたと笑うことが出来ない。本格的に狂えるかどうかの相違なのである。それらは、フッセンの近代的な技術を駆使したモダーンな内装とは異なり、あくまでもブルジョア風に快適なこじんまりとしたビーダーマイヤー様式に拘っているのである。

ドイツ・ロマン主義の高まりの中で、ハイネがクレメンス・ブレンターノがローレライを詠んでいる。そのローレライの歌などは、日本人にしか歌えないのではないかと言う話となった。ドイツ・ロマンティックは、明治以降の敗戦までの日本の教養であったとしても、その受容を一言で語るわけにはいかない。ライン河面に跳ね返る黄金の帯に横顔を照らされて、それを考えながら、崖の上の林を歩いた。

そこには、中世を偲ぶキッチュなものに並んで、ハインリッヒ・フォン・クライストを初めとする富国強兵のコンテクストでの文学受容があると、多和田葉子が書いている。伊藤比呂美や荒川洋司と、現代におけるクライストの文楽などでのポストモダーンな受容を語り、森鷗外の訳などを引き合いに出しながら、その一面に光を当てている。

鷗外による「チリの地震」の冒頭の翻訳の省略に、「今昔物語集」の日本語への歴史的翻訳過程の伝統を見て、佐藤恵三の新訳の文節に疑問を投げ掛けている:

In St. Jago, der Hauptstadt des Königreichs Chili, stand gerade in dem Augenblicke der großen Erderschütterung vom Jahre 1647, bei welcher viele tausend Menschen ihren Untergang fanden, ein junger, auf ein Verbrechen angeklagter Spanier, namens Jeronimo Rugera, an einem Pfeiler des Gefängnisses, in welches man ihn eingesperrt hatte, und wollte sich erhenken.

このように特に長い一節の事のようである。このまま日本語にするのはそれほど難しいことではないが、一気に読ませる文章の推進力は、ぶつ切りになると失なわれてしまうであろう。その綴り方こそが様式であることは、シューベルトやシューマンの楽曲のように、間違いない。

それでは、こうした日本化や翻訳一般がなにかを失っているかと言うと、正反対にその差異が、なにかを齎すとこの女流作家は言うのである。

中世の作りを残していると言う古城のオリジナルの設計図の有無をガイドに質問した我々さすらい人グループの女性がいた。その後、彼女は別の城跡で、「この方が正直だ、朽ちるものが時と共に朽ちるのが自然だ」と言った。

朽ちて欠けているところを補う ― 行間を読む ― 、失われたものをその差異に見つける必要はない。クライストの喜劇「こわれ甕」を新劇で観たのを思い出した。細部は記憶に無いが、既に欠けた、嘗て美しかったとされる水甕をそのまま舞台にかけていたのであろうか?


写真:シュロース・ラインシュタイン

参照:
指定されたラインの名物 [ ワイン ] / 2007-07-04
Heinrich von Kleist(PROJEKT GUTENBERG-DE)

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