Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

おもしろうてやがて悲しき

2023-04-20 | マスメディア批評
先週金曜日の「影の無い女」の演奏会形式における最終公演の地元ベルリナー新聞の批評を読んだ。筆者はバーデンバーデンでも三夜観劇したようで、自ずからその内容は演出には一切触れずともそこに繋がっている。

つまり、「影の無い女」を楽しもうと思えば、ホフマンスタールの皮肉に啓蒙された立場が推奨される。ホフマンスタールの狙いは、メガ「パルジファル」であって、「ファウスト三幕」であって、「魔笛」であるのは明らかで、どちらかといえば面白おかしくしている。小さな家族の比喩における、幻想的で、象徴的に寓意化されるそれは本当の真実というのは大笑いを引き起こすというところに最終的に導かれる。

「影の無い女」の話しは、ドイツオペラに於ける岩山にその意味合いに固執するところで上から声が響くというような前記オペラの系譜にあって、それらと同じように殆どミソジニーに彩られて、精子によって定期的に満たされない限り女体は全身子宮となり、作家の歴史的な医学的見地によればヒステリーに陥て、子供を産まない女は一人前の人間ではないという「ダスヴァイプ」の定義となる。

私は、今回の楽劇上演の内容に関してまだ詳しくは纏めてはおらずそのイヴェントの一つ一つについては語っていない。そしてこのように直截な書き方はしない。しかしここには文芸的に本質が示唆されてもいる。

つまり、この「女性」を私のチャットパートナーリンとする時、彼女が本格的に勿論その月経やその前などに下着を濡らしてしまうほどにオーガズムへと本気に試みるときに、私たち傍観者は本人以前に笑いを抑えられなくなるのであり、それはなにも「おもしろうてやがて悲しき」ではないのだが、それは決して桑原和夫のガックでは終わらない人の営みにおかしさが付き纏うという意味だ。まさしく彼女が、社会文化宗教的環境から如何に苦悩して今回のような勇気ある表現行動を起こさせたかの背景がそこに強く推測される。獣医学科に進んだというのも納得である。

このように理解を進めるとあまりにも深いEmpathyの感情から思わず本人にヴィデオ動画を送りたくなるほどに偉大なる勃起をしてしまったというのも真実であり、彼女に笑われることになる。

筆者は書く、この楽劇の最終場面でリヒャルト・シュトラウスはその音楽的な素材を枯渇させて皇后に叫ばすことになる。まさにそれは鶴の一声の絶頂の叫びの様なものである。

疑う必要などはない、作曲家がここに表現しようとしたものは全て音楽的に書き留められていて、染物屋の女将の恍惚の叫びなどは驚くに当たらない。「バラの騎士」のような単純な描写ではない人の真実がここには表現されていて演出と演奏が優れていたならば皆が知る所である。但し取り分け上演が困難な作品であったことは今回の復活祭でそれを証明した。



参照:
Phonstarke Misogynie: Die Philharmoniker spielen „Die Frau ohne Schatten“, Peter Uehling, BZ vom 15,4,2023
原罪のエクスタシー 2023-04-16 | 文化一般
もう一度言って、私の為に 2023-04-14 | 女

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« バーデンバーデン行の計画 | トップ | 肝心なスムーズな動き »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿