Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

猿のように習って

2024-06-02 | 文化一般
承前)金曜日には地元放送局から聖霊降臨祭の録音が流れた。放送交響楽団にデビューしたタルモ・ペルトコフスキーのインタヴューやその指揮演奏会中継録音が流れた。予定されていた録画は未だにアップロードされていない。

改めてマイクで収録した音を流し聞いても印象は全く変わらなかった。寧ろ最初「眩暈」組曲での演奏で、練習時間も十分に取れなかったこともよく分かった。誰も作曲家ヘルマンの曲に時間は掛けないのだろうが、それとは別に下準備して、あり得る注意どころを十分に把握していなかったということだろう。全てにおいて時間不足準備不足しか感じさせない。

何故実力もない者がレーベルと契約を結ぶと駄目になるか?それにはれっきとした原因がある。今回の放送番組を紹介した書き込むにもレーベルDGからの反応があったが、それだけ反響に関心を持っていて、なによりも現在進行中のモーツァルト交響曲全集を売らなければいけない。

その為に指揮者は少なくとも一通りは眼を通してお勉強しておかないといけない。しかし抑々録音が可能な様な演奏は何回か本番で演奏しないことにはものにならない。

だからハイドン交響曲全集などには真面な演奏はなく、真面な忙しい楽団がそのような無駄な作業には関われないのである。指揮者なども既に長い経験の中でたとえばザルツブルクのマティネーなどを二十年も振っていればものになるがそうでなければ殆ど振らされているようなもので、暗譜云々以前の問題である。

そうした企画は録音などの商業的な目的の為になされて、商品さえ揃えれば束で売ることが可能になるのである。キリル・ペトレンコのように恐らくカラヤンらの録音を聴いて学んだことから自らの制作録音拒否へと傾いたのだろう賢さがそこには見いだされない。この北の国からの若者はそこまで推測できるだけの知能が足りないとしか思われない。

つまり何が起こるかというと、あまり関心もない楽曲をただ労働として、それこそ映画音楽制作現場のようにやっつけ仕事で録音してしまうという作業とそうした音楽の扱いがプロとして身についてしまうということでしかない。

そこではモーツァルトの芸術だけでなく天才の心の成長やそうしたその感興とかに思いを巡らす経験も余裕もない。要するに仕事の質が下がっていくだけなのだ。そしてその録音にその質が表れるようになって直ぐに飽きられる。

それどころかライヴにおいて私を含むとても厳しい反応に晒されることになって、折角の名門交響楽団へのデビューも大成功とはならないことにしている。本当は所属事務所だけでなくよく分かっている者が守ってやらなければいけなかったのだが、なぜかそうした環境に無防備に晒されることになっている。

なによりもの芸術的才能はやはり本人の頭脳で、それ以上の才能などはないということでしかない。どうもあそこの流派は子供の時から猿のように指揮を習っていて真面に知能が発達する音楽家には育ちにくいようだ。(続く



参照:
生中継留守録音の心得 2024-05-16 | テクニック
最後にシネマ交響楽 2024-03-01 | 雑感
コメント
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