Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

原罪のエクスタシー

2023-04-16 | 文化一般
先の日曜日千秋楽の映像「影の無い女」が流れた。いつものように前夜からネットにはオンデマンドで置いてあったので、ベルリンからのコンサート形式での中継を聴いてからそれをDLした。コンサート形式は当地ベルリンでもバーデンバーデンを訪れて本番を観た人たちばかりが批評をしていた。

これだけの内容を簡単にコンサートで理解されるように呈示できる筈がない。抑々管弦楽だけでこの内容を表現できるならば楽劇なんて必要ないのである。なるほど当日朝のラディオ番組で支配人がその意味合いを語っていた。舞台抜きでも美しい音楽が満ち溢れていたというのに尽きるで、そのバーデンバーデンでの素晴らしい演出を後追いするだけでしかないという事だ。

最前列で観ていたのだが、それでもライティングの為か、度の合わない眼鏡故か、カメラが望遠で捉えるような細かなところは分からなかった。特に最も問題となっていた最後の最後の情景での子役の表情である。二種類の批評があった。最後の少女の穴掘りが何を意味するか?地元SWRは第一次世界大戦の戦没者を追悼する意味合いもあって、また戦災孤児の子供が墓を掘り起こすという解釈だ。恐らく情景としてはそれで間違いないのだろう。しかしである、それがこれだけの楽劇のフィナーレとしてどれだけの意味を持つのか?なるほど頭の廻らない、こうした演出を読み替えとするような素朴な聴衆にとってはそれぐらいの意味しかないのだろう。そこ迄しか頭が回らなくとも、彼らは言う。音楽の内容とは関係ないので、不必要で邪魔になると。

それならば何一つ音楽も分かっていないとなる。勿論ホフマンスタールの創作のそしてリヒャルト・シュトラウスらの作曲家や芸術がいたその社会のその文化も理解できている筈がない。今回のフランクフルタ―アルゲマイネの批評もベルリンでの批評も既に南ドイツや墺太利でのカトリック圏でのその肌感覚が分からないから頓珍漢なことを書いていた。要するに独語圏の中でもその理解度には差がある。何故かその中でも北ドイツのハムブルクなどでは成功した制作があったなど、決してその文化圏での土壌が無関係ではないという事だ。

子役の女の子の顔は決して泣きべそを描いていない。舞台の両脇で二つのペアーが人としての愛を謳い上げるときに彼女は何をしているか?13歳の思春期初期の女の子は身悶えしている。既にその解釈に関しては初日のあとに書いていた。改めてそれを確認したに過ぎない。

またもや移住を決意した東京文化会館でもないバーデンバーデンの祝祭劇場で、チャットパートナーの彼女をその女の子に重ね合わせる時、この演出をそしてこの楽劇が描いている音楽的な内容を私ほど自らのこととして理解した者はいないのではないかと思った。人とは何ぞや、言葉を変えると、キリスト教における原罪の表徴でしかない。まさしくこの楽劇を生み出す文化圏の中心にあるものだ。



参照:
りっしん偏に生まれる 2023-04-02 | 音
実感の愛の深まり 2023-04-07 | 女

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