Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

「憎悪され、愛されて」

2018-10-02 | 文化一般
承前)最後まで残って喝采した人は少なくなかった。日曜日で短めに終えたこともあるが、その拍手の種類も若干違ったかもしれない。その中の人で、今回のミヒャエル・フォレの歌唱とそのバイロイトでの演出などを重ね合せた人はどれぐらいいただろうか?

この楽劇には全てが内包されていたと示したのが今回の公演だった。全てとは一番話題になるナチによる政治利用である。そして楽匠自らの反ユダヤ主義である。そしてこの楽劇で徹底的に虐められるのはユダヤ人であるベックメッサー書記だ。否な演出についてはあまり触れたくない、しかしここで靴職人ザックス親方が被告席で弁明するのを重ね合されるのは決して悪く無い効果だ。

この楽劇のそもそもの主題は芸術のあり方で、楽匠のその意思が劇として創作されている。先ずは書記を代表とするような親方たちの厳格な律がテーゼとなり、そこに創造の自由のアンチテーゼがある。必ずしも書記だけが否定されている訳ではなく、親方のその道徳や生きざまなどが批判の的となる。これは当然音楽的には対位法であったり、まさしくヴァルターの歌の変化で示されるものだったりする。二幕終幕で街が騒然とするところで対位法が使われているのはなにも皮肉だけではないだろう。細かな意味付けは調べれば調べるだけ証拠が挙がると思うが、先ずはここでは議論しない。

それでもザックスは、まとめ役のようになっていながら、最終的には放浪のヴァルターによって再び職人が否定される文脈へとまたベックメッサーへの人格否定へと、喜劇の中での狂言回しとなってしまっている。実際にこのミュンヘンでの演出でも前者はヴォルフガンク・コッホのあまりにも優柔不断なザックスにおいて、若しくはベックメッサーの配役によってはその自殺までがあまりにも飛躍であるかのように映る。

一体、騎士ヴァルター若しくは自由人によって否定されたのはなにかと考えれば、それは例えば今回の上演でのあまりにもドイツ的でプロテスタント的な高慢さや鷹揚さ、傲慢さであり、同時にユダヤ人の厳格な律のイデオロギーであったりする ― このブログの主題でもあり、トーマス・マンの描くところでもある。要するに楽匠がここで示しているのはドイツ主義への問題定義であり、ナチが利用としたようなものは本当は曲解であり ― 同時にその利用とその最終作戦すらもここに読み込まれていたとしても結果論的史観ではなかろう ―、それがバリーコスキの演出の主題である楽匠の創作に内包していた問題定義としてもあながち誤りではない。

そのような仮説を立ててキリル・ペトレンコの音楽運びを吟味すると、ややもすると表現主義的な若しくはユダヤ的な誇張ではないかと思われるような楽譜の意味付けが理解される。例えば今回の記念公演週間のテーマであった「嫌悪されて」の動機やその激しい和声は悉く明白にシャープに響き、そこに至る本能的な衝動やそして同じようにテーマであった「愛されて」へと連綿と丁度メビウスの輪のように連なる。そこに芸術の営みが創作の世界が飛翔するというのがまさしくこの楽劇の主題である。恐らく「死による救済」はもはや楽匠にとって過去の関心ごととなっていたのだろう。

その反対にまさしく今日よりよりよい明日への僅かながら営みの匠が、そしてあまりにも夢のように浮遊するような、ニルヴァーナのような肌触りや温もり感が、ぎっしりとまるで魔法のように編み込められているのがこの楽劇だ ― いつもペトレンコ指揮のヴァークナーに接するとその創作が最高傑作ではないかと思わされてしまう。つまり、演奏芸術的に、まさしくドイツ的な音響や音楽が職人的に求められている。ペトレンコ監督は100年、200年の記念の演奏を準備していたのは間違いない。その結果としての管弦楽のコムパクトな演奏実践であり、これは「指輪」やブラームスで試みられたドライな表現から更に一歩進んだ独墺音楽表現であり、ホルン奏者出身のフォローリアンフォークトにおいてもそしてフォレの歌唱においてもその成果として結実したものなのである。

そもそも2016年にこの制作が決まった時、彼は初演の劇場に何を残すかを考えていたことは間違いないが、残念ながら事故があって記録として十分なものが残っていない。その意味から当時生中継された初日の録音を聞き直したが、それはそれほど悪くは無かった。しかし今回は全く違った。そしてあの時の事故と、そしてこの二年間の環境の変化を思う時、キリル・ペトレンコのあまりにも厳しく激しい棒に動揺した。未だ嘗てないほどの強い表現には、楽員が準備していて付いて来れることの確信と、やはりそこには明らかに彼自身の芸術的音楽的なアピールがあると感じたからである。

まさしく二幕の騒然と暴力は今ケムニッツなどで起きていることと無関係では全くない。二年前には抽象的な意味しか持ち得なかった事が現実化している。ソヴィエト崩壊で虐められる側にいたペトレンコがそのことに無関心でいる筈がない。そのように考えずにはいられないほどの激しさはまさしく不協和の痛みともなっていたり、そして以前以上に三幕のクライマックスのザックスの痛みのフォルテ表現が強くなっていて、現実には前へ前へと大きな波が準備されていくと同時にそのダイナミックス以上に指揮ぶりが強烈だった。そこで何が表現されているかと言えば、ベックメッサーの被害者側の痛みではなく、そのプロテスタンティズム的悔悟の厳しさである。ここまで楽匠の創作を理解していくと、この楽劇はナチの政治利用なんかとは全く相容れない。あのゲッベレス博士でも見当違いをしているのか、それほど楽譜を読み込んでいる指揮者が一人もいなかったという事だろうか。

コッホの演じたザックスは背後で唐突に自殺するベックメッサーに無関心である ― それは丁度AfDに対して沈黙をする善良なドイツ市民である。フォレのザックスはその全てを背負い込んで、ドイツ連邦共和国を体現していた。芸術心のある教養のあるミュンヘンの劇場に集う人たちがこれを感じない筈がない。そのような強い拍手があったと感じた。今回の記念週の合言葉「Geliebt, Gehasst」が楽匠のユダヤ人への想いであったような感じだ。(終わり)



参照:
贖罪のカタリシスヘ 2018-09-24 | 文学・思想
意地悪ラビと間抜けドイツ人 2017-07-27 | 文化一般
「ファウストュス博士」索引 2007-12-13 | 文学・思想
「聖なる朝の夢」の採点簿 2005-06-26 | 文化一般

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