比較的早い時間に走った。折り返し点で汗を掻いた。陽射しが充分だ。まだまだ本調子ではないのだが、前夜も煮豚のスープにニンニクとショウガをおろして、コラーゲンラーメンとしたので満腹度以上に効果があった。気管支の炎症も治まって来ていて、木曜日でのオペラ公演中の鼻水と咳は何とか抑えられるかもしれない。しかし、のど飴だけは忘れてはならない。
そのような塩梅で「ポッペアの戴冠」を水曜日中に最後まで通しておかなければいけない。天気が良く摂氏27度ほどまで上がりそうで、Tシャツの生活が始まった。まだ風が冷たいので半ズボンは必要が無いが、気持ちの良い季節になった。そのお陰で窓を開け放って仕事することになる。すると流石に市の役所前に住んでいるので町が騒がしい。週末にも反対側のシャンペン工場でお祭り騒ぎの喧しい音楽が流れていた。あれは音楽というよりもただのリズムボックスの野蛮なものでしかない。今回ノイズキャンセリングのイヤーフォーンを購入する心算なので、自宅でもワイン祭りの時にどれぐらい効果があるのかと旅行時以外の使用の可能性に気が付いた。あのリズムボックスと喧噪がどれぐらいキャンセルされるのだろう。キャンセルされて圧迫感があると生活にならないので適当に音楽を聞けるぐらいの感じが良い。高等な耳栓替わりである。
ネットで様々な音楽に関する話題が飛び交っている。エルブフィルハーモニーでのカーネギー公演への壮行演奏会のクリップが上がった。最初に上がった時には二時間もしないうちに消去された。どこが問題だったのかは調べると分かった。見出しのテロップの演奏会の期日が23日のところが24日と間違っていたのだった。その映像の鮮烈さと座付き管弦楽団らしくない分析的な響きが聞ける貴重なヴィデオである。会場が違い、管弦楽団の並び方も違い、楽員がお互いに目が効くので、全く違う指揮捌きと演奏が出来たと話題の演奏会であった。なるほどこの鳴り方は今までこの座付き管弦楽団が経験したことが無いアンサムブルとなったことが分かる響きである。一体地元のハムブルクの管弦楽団はどんな響きを奏でているのだろう?
Kirill Petrenko and the Bayerisches Staatsorchester: Tschaikowsky's Manfred Symphony (Clip)
日本の音楽評論家と名乗る教授がお話しにならない音楽会の感想を書いている。益々日本人の教養や学術的な程度が落ちてきているのを感じさせる。吉田秀和の文化勲章でさえ可成りスキャンダルなものだと思うが、まだ彼の場合は自身はただの物書きだと自己弁護していたので救いようがあったが、少なくとも学問をする者が非科学的な思考でなぐり書きをしているのが日本の文化で芸術の程度である。
しかし、フランスでもドイツでも音楽芸術特にオペラ上演に関してはあまりその程度は変わらない。フランス人でヴァンダラーと名乗る人の書いたもので分るのだが、特に注目したのは「バーデンバーデンの聴衆」について触れた部分だ。その聴衆の質で容易にザルツブルクと比較されているが、なるほど夏や復活祭の音楽祭とバーデンバーデンの都市圏の地元民とは大分違う。
しかしここにもう一つの問題が隠されていて、それは日本からの聴衆が経験したことと共通していて初日以降のこのフランス人の経験した聖金曜日と最終の復活の日曜の上演などは初日の地元の人たちは殆ど居らず、もしいるとすればバーデンバーデン周辺で地元の無関心層に捌いたようなティケットを安く購入した人が多かったと思われる。それは初日でも第一幕が終わってからザイテンバルコンのみならず正面のバルコンからも人が沢山消えた現象が物語っていた。経済的には成り立っているようだが、有効入場者数には幾らかの偽りがある感じさえするのである。
La question des productions de Baden-Baden se pose à plusieurs niveaux, aussi bien artistiques qu’économiques et sociologiques. Le public du Festival de Baden-Baden est moins habitué que celui de Salzbourg aux productions un peu décoiffantes.
もう一つの問題として、今シーズンで勇退するメーリッヒ・ツェブホイザー支配人の責任について触れているが、これはある意味正しいのだが、つまらない演出に金を掛けるぐらいならば適当にした方が良いだろうという言い訳も成り立つ。大問題はその芸術的コンセプトを描くことの出来るような人物ではなくて、なにはともあれ破産した劇場を今後の可能性を期待出来るほどまでに経済的に立て直した功労を語るべき人物である。
Enfin au niveau artistique, l’énormité du théâtre et du plateau déterminent des choix, mais le directeur artistique, Andreas Mölich-Zebhauser qui n’a jamais été trop intéressé par la question scénique. Baden-Baden est un Festival d ‘ « events » où les mises en scènes trop problématiques ou idéologiques ne semblent pas trop bienvenues.
その他のアコースティックやラトルのオペラ指揮に関しては態々触れるまでもないことだが、結局ヴァークナーの音楽劇場作品に関してはそもそも音楽劇場効果を期待していく人間の方に落ち度がある。本当にその効果を信じている人が居るのが不思議でたまらないのである。セリフ芝居を音楽劇場と比較すれば一目瞭然であるが、どうしてこうもヴァークナー愛好家はなんとも非理知的なのだろうと感じるだけだ。要するに音楽だけでなくて劇場空間もよく理解出来ていない人たちなのだ。
参照:
ツルツルピカピカに 2018-04-17 | 文化一般
「ポッペアの戴冠」再会 2018-04-15 | マスメディア批評
そのような塩梅で「ポッペアの戴冠」を水曜日中に最後まで通しておかなければいけない。天気が良く摂氏27度ほどまで上がりそうで、Tシャツの生活が始まった。まだ風が冷たいので半ズボンは必要が無いが、気持ちの良い季節になった。そのお陰で窓を開け放って仕事することになる。すると流石に市の役所前に住んでいるので町が騒がしい。週末にも反対側のシャンペン工場でお祭り騒ぎの喧しい音楽が流れていた。あれは音楽というよりもただのリズムボックスの野蛮なものでしかない。今回ノイズキャンセリングのイヤーフォーンを購入する心算なので、自宅でもワイン祭りの時にどれぐらい効果があるのかと旅行時以外の使用の可能性に気が付いた。あのリズムボックスと喧噪がどれぐらいキャンセルされるのだろう。キャンセルされて圧迫感があると生活にならないので適当に音楽を聞けるぐらいの感じが良い。高等な耳栓替わりである。
ネットで様々な音楽に関する話題が飛び交っている。エルブフィルハーモニーでのカーネギー公演への壮行演奏会のクリップが上がった。最初に上がった時には二時間もしないうちに消去された。どこが問題だったのかは調べると分かった。見出しのテロップの演奏会の期日が23日のところが24日と間違っていたのだった。その映像の鮮烈さと座付き管弦楽団らしくない分析的な響きが聞ける貴重なヴィデオである。会場が違い、管弦楽団の並び方も違い、楽員がお互いに目が効くので、全く違う指揮捌きと演奏が出来たと話題の演奏会であった。なるほどこの鳴り方は今までこの座付き管弦楽団が経験したことが無いアンサムブルとなったことが分かる響きである。一体地元のハムブルクの管弦楽団はどんな響きを奏でているのだろう?
Kirill Petrenko and the Bayerisches Staatsorchester: Tschaikowsky's Manfred Symphony (Clip)
日本の音楽評論家と名乗る教授がお話しにならない音楽会の感想を書いている。益々日本人の教養や学術的な程度が落ちてきているのを感じさせる。吉田秀和の文化勲章でさえ可成りスキャンダルなものだと思うが、まだ彼の場合は自身はただの物書きだと自己弁護していたので救いようがあったが、少なくとも学問をする者が非科学的な思考でなぐり書きをしているのが日本の文化で芸術の程度である。
しかし、フランスでもドイツでも音楽芸術特にオペラ上演に関してはあまりその程度は変わらない。フランス人でヴァンダラーと名乗る人の書いたもので分るのだが、特に注目したのは「バーデンバーデンの聴衆」について触れた部分だ。その聴衆の質で容易にザルツブルクと比較されているが、なるほど夏や復活祭の音楽祭とバーデンバーデンの都市圏の地元民とは大分違う。
しかしここにもう一つの問題が隠されていて、それは日本からの聴衆が経験したことと共通していて初日以降のこのフランス人の経験した聖金曜日と最終の復活の日曜の上演などは初日の地元の人たちは殆ど居らず、もしいるとすればバーデンバーデン周辺で地元の無関心層に捌いたようなティケットを安く購入した人が多かったと思われる。それは初日でも第一幕が終わってからザイテンバルコンのみならず正面のバルコンからも人が沢山消えた現象が物語っていた。経済的には成り立っているようだが、有効入場者数には幾らかの偽りがある感じさえするのである。
La question des productions de Baden-Baden se pose à plusieurs niveaux, aussi bien artistiques qu’économiques et sociologiques. Le public du Festival de Baden-Baden est moins habitué que celui de Salzbourg aux productions un peu décoiffantes.
もう一つの問題として、今シーズンで勇退するメーリッヒ・ツェブホイザー支配人の責任について触れているが、これはある意味正しいのだが、つまらない演出に金を掛けるぐらいならば適当にした方が良いだろうという言い訳も成り立つ。大問題はその芸術的コンセプトを描くことの出来るような人物ではなくて、なにはともあれ破産した劇場を今後の可能性を期待出来るほどまでに経済的に立て直した功労を語るべき人物である。
Enfin au niveau artistique, l’énormité du théâtre et du plateau déterminent des choix, mais le directeur artistique, Andreas Mölich-Zebhauser qui n’a jamais été trop intéressé par la question scénique. Baden-Baden est un Festival d ‘ « events » où les mises en scènes trop problématiques ou idéologiques ne semblent pas trop bienvenues.
その他のアコースティックやラトルのオペラ指揮に関しては態々触れるまでもないことだが、結局ヴァークナーの音楽劇場作品に関してはそもそも音楽劇場効果を期待していく人間の方に落ち度がある。本当にその効果を信じている人が居るのが不思議でたまらないのである。セリフ芝居を音楽劇場と比較すれば一目瞭然であるが、どうしてこうもヴァークナー愛好家はなんとも非理知的なのだろうと感じるだけだ。要するに音楽だけでなくて劇場空間もよく理解出来ていない人たちなのだ。
参照:
ツルツルピカピカに 2018-04-17 | 文化一般
「ポッペアの戴冠」再会 2018-04-15 | マスメディア批評
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