鎌近と愛称される「神奈川県立近代美術館 鎌倉」の存続に向けて、耐震、改修のための事前調査費用1581万7千円を、県と鶴岡八幡宮(750万円の負担)でほぼ折半する事になったと、2月19日の神奈川新聞で報道された。
改めてここに書くことでもないが、この美術館は、ル・コルビュジエのもとで学んだ建築家坂倉準三の代表的な建築として世界に知られており、DOCOMOMO Japanでは日本を代表する建築として本館(1951年)を1999年に20選として選定、その後新館(1966年)を追選定し、本館と新館を一連の建築として選定した旨公表している。
鶴岡八幡宮と県との借地契約では、返還時には更地にして返すとなされているが、建築界をはじめとする様々な分野からこの建築を存続して欲しいとの要望がなされており、八幡宮も県もその意を受けてその仕組みの検討がなされてきた。
僕自身、多くの方々のサポートを得て高階修爾氏を代表とした「近美100年の会(略称)」をつくって宮司さんに何度かお会いしたし、前知事や現知事の側近の方や、DOCOMOMOのメンバーとともに県の担当部署の方にも会って継続して欲しい想いを伝えてきた。
この地の埋蔵文化財関係者の意向も聞いていて複雑な思いもなくはないものの、それを与した存続に向けての検討が具体化されてきたとの報道に感じるものが多々ある。
神奈川新聞の記事にホッとしたのは実感だが、ちょっと気になるのは掲載された写真が本館のみであることだ。更に翌日の朝日新聞記事では、「鎌倉館の建物は」として、1951年に完成、と記されていて、敢えて本館のみ、と受け留められる報道がなされたことだ。
これを書いた記者や、本文の担当部署の責任者はどう考えたのか、担当する県の生涯学習課等に確認がなされたのかを問いたい。
新館は、坂倉準三がお元気なときの建築で、僕は担当した室伏次郎から所内コンペをやった経緯などを聞いているし、同時にこの大きなガラスを組み込んで、本館のピロティとの融合性を望んだ当時の館長土方定一の思いも聞いている。
このブログ(2013・12・16を参照下さい)でも記したシンポジウムでの李 禹煥(リーウーハン)氏の本館のこの地の風土を想起されるピロティに触発されて喚起創造した作品のことと同時に、本館のピロティと池を望む新館の床面に陶板を敷き詰めて作品を展示した湯河原に工房を持つ陶芸家「小川待子」展(呼吸する気泡・2002年)が忘れられないと嘗て述べた。これもこの新館でなくては生み出せない作品だったと改めて思う。
更に敢えて言えば、新館に付属して建てられた収納庫・学芸員室も、八幡宮の森との絶妙な関連性を保ちながら存在していることにもここで触れておきたい。