日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

書く人 宇賀田達雄さんを悼む

2012-06-02 20:48:39 | 文化考

板画家棟方志功は世界に知られているが、娘婿宇賀田達雄さんの名は「民藝」などその分野の人々にとっては格別の存在であったとしても、広く世に伝えられているとは言えないかもしれない。
だが東大生(当時は帝国大学)時代に国文学者久松潜一教授に師事し、息女石井頼子さんが「文字と文章の人」と述べるように、さまざまな事象を学術的に検証してその分野の嚆矢として頼りにされるが、書かれた明快な記述には深い味わいがあり、それは書く人の人柄そのものなのだと感銘を受けるのだ。
久松潜一は新潮国語辞典ー現代語・古語ーを監修されたが、僕はその昭和44年発行の第3刷版を手元に置いてこの一文を書いている。達雄さんは在学中に学徒出陣をされたとはいえ、師の教えに薫陶されたのではないかと思えてくる。
その達雄さんが逝った。

好きだったモーツアルトのレクエムの流れる中、本葬では日本民藝館の学芸部長杉山享司氏が弔辞を述べ、お通夜では東京民藝協会志賀直邦会長に続いて、僕は友人として哀悼の意を述べさせていただいた。喪主となった石井頼子さんの諾を得たのでその意を記させて頂く。
体調を崩されて入院された達雄さんは、数時間にわたって夢想の世界に漂い、旅している上海の様や、展覧会の展示作業に細かい指示を口に出し、ふと口調が改まるのは目上の方がいらしたのではないかとそのあまりにもリアルな様に頼子さんはある種の感銘を受けたとメールを頂いた。そしてその翌日から穏やかに眠り続けて旅立ったと頼子さん述べる。

ご遺族の直会までご一緒させていただいての帰り道、杉山さんとこんなことを語り合った。気骨のある達雄さんは管理社会のシステムに自己を貫いて必ずしも大組織に馴染まなかったことを考えると、大学に残って研究者になる人だったような気がする、でもねえ、そうだと「けよう子」さんに惚れる機会もなく棟方志功との出会いがなっかたもしれない!
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宇賀田達雄さんを悼む  <追悼の辞>

御遺体を前にして言葉がないのですが、一言哀悼の意をささげたいと存じます。
御息女石井頼子さんから達雄さんが体調を崩されて入院されたとの連絡をいただいた後、お亡くなりになりますまでのご様子などお聞きしておりますと、まさしく天寿を全うされたとの思いでいっぱいになりました。
達雄さんの生涯を考えますと、奥様けよう子さんとの出会いに尽きる様な気もしてまいりますが、それはとりもなおさず棟方志功とその奥様ちや夫人との出会いでもあったことになり、それは筑摩書房から刊行された「祈りの人 棟方志功」に込められております。
しかし`あとがき`を拝読すると、もう20年も前になるのかと考え込んでしまいますが、奥様けよう子さんを癌で亡くされ、呆然としていた時に何かしなくてはと思い直してこの本を生み出したとのことでした。

私はご縁があって棟方志功ご夫妻にお仲人をしていただいたのですが、私の弟は(残念ながら2年ほど前に亡くなりましたけれど)、達雄さん、けよう子さんご夫妻にお仲人をしていただくというご縁になりました。
達雄さんは東大生時代に学徒出陣をなさいましたが、卒業後編集者として朝日新聞に在籍されました。よくご夫妻にお誘いを受け、朝日新聞社の前にあった築地市場のテント小屋で、朝日の仲のいい同僚などと一緒にお酒を酌み交わし、文化論を楽しんだものです。その時のやり取りなどが今の私の支えになっているような気がします。

達雄さんは民藝協会や日本民藝館に関わられましたが、私が天寿を全うされたとおもいますのは、86歳の時に書かれたご自分の出自に関わる祖父「宇賀田次助のこと」を文芸社から出版され、さらには私家版による「私は見たーある学徒兵の記録」によって、戦争の裏面史のある一面を描ききって社会と時代を見据えたのが2年前でした。70歳どころか、80歳をこえても書けるということに私は力を得ます。達雄さんはやることをやって「けよう子さん」の元へ向かうのだと思います。
其のふっきりのいい文体と、事例検証を綿密になさった上での明快な趣旨による描き方は、ご息女石井頼子さんにきちんと受け継がれていると拝察し、これからの私たちの、人の生きて行くあり方に示唆を与えてくださったのだと、肝に銘記したいと思います。この私の思いを、奥様けよう子さんにお伝えくださいますように。
2012年5月31日                      
 


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