日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

村野藤吾と菊竹清訓(Ⅳ) WAの小寺泰と松ノ井覚治 (エピソード3)

2012-02-05 21:10:43 | 建築・風景

小寺泰という男がいた。
上背はなかったが痩身で細面、ちょび髭を蓄え、柔和な眼差しで微笑む紳士であった。
早稲田の卒業生でありながら毎日夕方になると新橋の会社から銀座の、慶応OBの集う交詢社に通い、会員や職員に慈しまれていたという。名門我孫子ゴルフ倶楽部でも車が着くと、いっしょにまわらせてとキャディが取り囲む名物会員として知られていた。

小寺泰は僕の伯父である。
小寺家の長男で、僕の母は20歳年のはなれた末っ子だった。赤紙で招集された父は昭和20年の6月ルソン島で戦没し、後年僕の一家はこの伯父に支えられて生活をした。 (僕のブログの「生きること」を参照していただけるとうれしい)。
村野藤吾と同級生だった伯父は、早稲田を卒業した後松村組に在籍の後、小寺工務店を設立する。

「WA100」の`早稲田建築100年の歩みのⅠ、1910-1930に、佐藤功一、佐藤武夫、そして今井兼次についで「松ノ井覚治」という建築家が2ページに渡って登場する。紹介された建築は「バンク・オブ・マンハッタン」である。
早稲田を出た後コロンビア大学に留学し、モレル・スミス建築設計事務所に勤務し、帰国後、ヴォーリズ事務所の東京出張所長を経て「松ノ井建築設計事務所」を開設する。
編者石堂さんの松ノ井の紹介文の後に、松ノ井の書いた、現在はチェイス・マンハッタン銀行と名を変えたこの銀行の設計・建築経緯の報告書の抜粋が記載されており、アメリカ建築界の一断面を伺える貴重な記録となっている。

その松ノ井の経歴欄に「1943年小寺工務店役員」と記されているのを発見、あっと思った。
石堂さんからは何故アメリカ帰りが建築会社にと思っていたが、同級生ならわかる、という一言をもらった。
村野と松ノ井、小寺泰は同級生だった。
小寺工務店は小さな建築会社だったが、それでも日立市に支店を持ち、日立多賀駅から日立駅に至る壮大な日立製作所の数多くの工場群の施工をした。日立製作所も創設されてからまだ日も浅かった時期である。

ジャーナリストを目指して明大の文学部に合格していた僕は、建築をやれという伯父からの一言で、明大建築学科の二部に入り、昼間は小寺の設計部で仕事をすると言う二重生活を味わったが、卒業後も10年間この伯父の会社に在籍した後、設計をやりたくて飛びだす。

伯父に同行して日立に行ったことがある。伯父は顔面神経痛で左の目をぴくつかせていたが、なあこうやって列車の窓を空けて寝込んでいたら風にやられてナア!なんてことを笑いながら話してくれた。この口調は明治男、伯父というよりは祖父だった。年の上でも!
そういう伯父の長女の旦那の弟は、あの、話の面白かった俳優丹波哲郎である。進駐軍通訳時代、疎開先の小寺の社宅にジープでアメリカの菓子を沢山僕たちに持ってきてくれた。
そういう一族を伯父は楽しんでいたような気がするが、終生自宅を持たず大崎の明電舎を望む丘陵地の小さな借家に住んでいた。
伯父の細君つまり伯母は下町育ち、沢村貞子のような早口で歯切れのいい物言いで明るく、僕たち一家は足繁く伯父の家を訪ねたものだ。

小寺工務店の下請け組織の会の主要メンバーはこの伯父を慕って自分のためではなく、伯父のために仕事をしているという風だった。設計部で仕事をしているとエスカイヤーという洋服の仕立て屋から電話があったり、寸法を取りにきたりした。ダンディなのだ。
今井兼次先生が狭い急な階段を上って来社されたことがある。設計部長は横浜国大のOBで某有名事務所の出だったが「兼松君、今井先生だよ!」と目を見開いた。村野とともに今井兼次は早稲田の巨星、一年後輩なのだ。

こうやって「WA100」を紐解きながら、数十年前のことを思い出していると考えることがある。
何かとても大切なことを僕は見失ってきたのではないか、僕でしかできない何かを。
小寺泰は寄り道して早稲田に入った村野より若かったが、先に亡くなった。葬儀に出席された同級生を亡くした村野藤吾の厳しい姿を僕は覚えている。
小寺工務店もなくなり、資料も消えた。小寺泰という男を知っている人がほとんどいなくなった。これからの僕のやらなくてはいけないこと、何よりも考える前にやる、やりながら考えればいいのではないかと示唆を与えてくれた[WA100]であった。

<写真・若き日の小寺泰>
(交詢社:慶応義塾の開祖福沢諭吉の提唱によってつくられた実業家の社交倶楽部)