ラサール神父に選定プレートを差し上げる前に、200人を超えた聴衆にDOCOMOMOの概要と聖クララ教会の選定経緯を伝えた。
聖クララ教会については、このブログの2005年11月9日(沖縄考:沖縄文化紀行Ⅰ)に書いたので重複を避けたいのだが、コンサートの始まる前のPM2:00から急遽、統廃合にゆれる久茂地小学校で行われた那覇市の久茂地公民館(旧沖縄少年会館)存続に向けてのシンポジウムに招かれて講話をしたことを伝え、改めて早朝に見に行った「那覇市民会館」や久茂地公民館との比較をしたときの面白さについて触れたことは伝えたい。
実は娘から、この建築の何処がいいのかということが伝わってこなかったと結構厳しい指摘を受けた。吾が子ではあるが妻君の子であることも実感させられるのはこういうときだ。ということでくどくなるが下記に再度まとめてみる(閑話休題)。
2002年JIA(日本建築家協会)の沖縄大会に理事として参加したときに、義務として理事会には出席したが、といっても財政的に厳しくなったJIAはこの年からこの会議を理事会ではなく理事懇談会として交通費支給をやめた。ということで自費訪沖、では好きなところへ!となるのが今に変わらぬ僕で我ながら苦笑してしまう。でもそれが楽しく、同行したクリスチャンでもある建築家藤本幸充さんに素晴らしい教会があるよと案内されて初めて訪ねたことから15分の講話をスタートした。そしてこう述べたのだ。
観た瞬間「これはDOCOMOMOだ!」と。
でも今にして思えば、バスによる基地内の建築ツアーに参加して観た、芝生の中の宿舎群のシンプルな姿(つまりアメリカ住宅・スラブヤー)とラップしたのだ。このときの情景は、民家と亀甲墓が当たり前のように共存している風景とともに何年経っても忘れ得ない。
さて改めて感じたこの建築の姿を書いてみる。
基地内の宿舎に範を取った単純なバタフライ形状のスラブ屋根(宿舎は広大な敷地内に軒樋もつけない何純な切妻の屋根形態に白い外壁で構成)に、陽の差さない北面は天井いっぱいに開口をとり、側面には穴あきブロックでアクセントをつける。
陽が溢れる芝生を張った中庭側は天井を下げて回廊をつくり、日差しに配慮するなどこの地の自然環境に見事に対応させ、この建物の何処にいてもシンプルで豊かな空間構成と、過酷で豊かな沖縄の自然環境への受容を感じることができる。建築の限りない可能性に建築家である僕の心をいつにも増して騒がせるのだ。
風土とモダンムーブネント(建築)、これからの建築界が検証すべきテーマだと考えるからでもある。
設計した京都出身でハワイに移民をしたといわれる建築家片岡献は基地の建築に通訳的な立場で携わっており、SOMなど基地の建築群の設計に関わったアメリカの建築家のサポートを得てつくったと伝えられている。
DOCOMOMOで選定した沖縄の建築は、この教会(+修道院)と、「那覇市民会館」である。
僕が講話で述べたのは、聖クララは新しい時代を告げるアメリカ文化の一側面を、市民と共有できる素朴なスタイルで具現化したことである。カトリック教会は尖塔を配してその存在を際だたせることが多いのだが、塔のないこの教会は、与那原のまちから見上げるその姿が威張っていないのだ。
斎場御嶽から58号線で那覇に向かうと、正面の丘の上にその姿が望める。ここは与那原(よなばる)。まちのランドマークとして街づくりの要になっているのだろう。
一方の那覇市民会館は、屏風(ひんぷん)を取り込むとともに、台風に立ち向かう様を力強い造形によって現わした。ここに沖縄ありと表現したその建築は、風土に即した沖縄のモダンムーブネント表現する二つの姿を僕たちに見事に伝えているのだ。
根路銘さんから、ラサール神父が私たちの活動の意味を僕の言葉を通して(更に深く)理解してくれたという趣旨のメールをもらった。80歳を超える神父はユーモアを感じ取れる口調で、教会はいつでも皆様に開いているので、気軽に尋ねてきてくださいと述べる。
根路銘さんたちとの島酒を飲みながらのやり取りで見えてきたことがある。
当初SOMに設計監理を委託しようと考えたが、日本語を解する設計者がいないし施工する建築業者は英語を解さない。そこで片岡献が担当することになった。経歴など詳細がつかめないが、沖縄のカトリック教会本部(安里教会)の資料室に埋もれている資料を紐解いていくと浮かび上がってくるものがありそうだという。
来春の魅力いっぱいのコンサート開催とともに、建築士会島尻支部の記録の発掘活動に期待したい。