日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

記憶を留めておく 戦中派の夏の終わりに

2011-08-21 22:58:05 | 生きること

走り書きになっても、記憶として書き留めておきたいことがある。
NHKの朝ドラをチラッと見ていたら、終戦になった途端教師の態度が変わり、小学生が戸惑う様が映し出された。よく聞く話だがふと思ったのは、僕は戦後教育の「第一期生」だと言うことである。
昭和21年(1946年)4月、疎開先の千葉県柏小学校に入学した。そのあとすぐに、実家長崎の勝山小学校へ、そして天草の下田北小学校に転校したのが12月2日、下田国民学校だった。
一学年一クラスの小さな学校だが、先生も優しくて大人への不信感は生まれようもなかった。
よそ者なのに、近所の人たちにも母を含めて支えられていたし・・・・

熊本から赴任して東京を目指していた先生に可愛がられ、恐らく現在(いま)の僕のベースがここで築かれた。と同時に同級生の全ての子が同じように可愛がられたとも思っていた。
あるとき衝撃を受けることになる。`あの小学生時代の辛さを生涯思い出したくもない`と一番の仲良しになったY君から言われたのだ。意味もなくいつも先生にいじめられた。

そのY君は心臓を病み、熊本の大学病院の手術室台で心筋梗塞を起こし、取り囲んでいた先生たちの手で緊急手術によって一命を取り留めたのだという。手術をした先生が驚嘆した。一瞬遅れていたらと。奇跡だった。

今年の正月、年賀状が来ないので電話をしたら使われていないとのメッセージが流れてきてあせった。慌てて同級生のN君に電話をする。
Y君は店の電話をやめて自宅一本にしたじゃないという。そうだったなあと思いながら奥様のお悔やみを述べる。孫が六人、娘の家がすぐ下にあってその間に墓があるので、毎日花を取り替えて手を合わせている。昼と夜の食事は娘の「うち」で一緒にとのことだ。自分は幸せモノだとうるっときている様子が聞こえてきた。

Y君に叱られた。喪中の葉書を寄こしたではないかと!そうだった、弟を知っている人には出したのだった。
小学生時代の同級生は男が12人、女は22人、大学まで行ったのは多分僕を含めて二人。Y君は天草の水産学校に行ったが、N君は中学を卒業した後、山の中腹に住んで親父の跡をついで農業に邁進した。

「団塊の世代」という言い方がある。僕の数年後に生まれた世代だ。「戦中派」という言い方もある。「焼け野原」に繋がる言い方だ。ローリングロウを歌った作家野坂昭如や、夏の闇の開高健の世代。
中途半端な俺だ!と語したことがある。何言ってんだ俺たちは「戦中派」だと決め付けられた。
戦中派?どうもなじまないが、大人の変節を見なくて済んだ一欠けらの世代でもある。ふっと思うのは、終戦前に教師であった人間の苦悩だ。

TVで写真家江成常夫の「霊魂を撮る眼」を見ながら書き進めている夏の終わりの一人の男の呟きか?

<写真 天草下田:2007年5月撮影>