日々・from an architect

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ぶらり歩きの京都(6) 訪ねた桂離宮

2010-07-05 13:06:58 | 建築・風景

桂離宮が、八条宮初代智仁親王によって宮家の別荘として創建されてから三百数十年の年月が経った。
いま僕たちが眼にするのは、昭和51(1976)年から57年までの6年をかけて行った昭和の大修理から28年経った(その後1991年まで順次部分的な修繕が行われたようだが)離宮である。
新装なった直後の姿は、新建築1982年7月の臨時増刊号に、修繕の経緯や実測図、それに建築だけでなく、襖や、引き手などの金物まで捉えた見事な写真によって見てとることができる。
時折見開くたびに眼に飛び込んでくるのは、松琴亭一の間の床の間の壁と襖の白と青の大胆な大柄の市松模様だ。

木造モダニズムに取り組んだ日本の建築家は、意識するとしないにもかかわらず、常に桂離宮の存在が心のどこかに宿っているのだといわれる。
ドイツの建築家ブルーノ・タウトが1933年、ナチの支配から逃れるために来日し、其の翌日招請した建築家上野伊三郎等によって桂離宮に案内され、賛嘆・激賞されたことからこの建築と庭園の素晴らしさが広く建築界や社会に知られることになったことはよく知られているエピソードだ。
タウトは来日するまで桂離宮の存在を知らなかったが、翌日に桂に案内する建築家のいたことが凄い。ちなみに上野伊三郎の設計した高津邸(1934)が2008年度DOCOMOMO選定建築として選定されている。鉄筋コンクリート造2階建てのモダニズム建築だ。

ところで、木造でなくても、札幌の、H型の耐候性鋼(コルテン鋼)を露出させて少し地面から持ち上げたフラットルーフによって建てた建築家上遠野徹(カトノテツ)自邸を観る僕たちは、一瞬ミースのファンズワース邸を思い浮かべる。だがご子息克さんは「オヤジは桂だといっている」と述べる。
鎌倉の県立近代美術館本館について設計した坂倉準三は、日本の建築を意識したことはないというが、池の中にI型鋼の柱を露出させて建ててピロティをつくったこの美術館を見る僕たちが、桂を連想してしまう。

では桂のどの建築に触発されたのだとなのだといわれるとちょっと困るが、高床式の書院群や、松琴亭の市松模様、あるいは月波楼の膳組という板間や畳などで囲まれた表に開放されている土間など、桂の自然と建築の関わり方が、日本人である僕たちの身についているからなのだと今回の見学で改めて感じた。

さて「ぶらり歩きの京都」は、宮内庁に申し込んだ「桂離宮」見学の日程によってスケジュールをきめた。
桂川沿いの一名`桂垣`といわれる笹垣を廻り、竹を組んだ穂垣に変わった添い道、表門の前を通り抜けて通用門に向う。僕は大磯の隣町二ノ宮に建っている吉田五十八邸の背の高い竹垣を思い出していた。

案内をしてくれる宮内庁の職員(だと思う)のユーモラスな(手馴れた)語り口に、時折参観者から笑い声が起こる。公開するのは困るが撮影もOK、室内に入れないが角度を変えて覗き込めることによって重なり合う奥深い日本建築の真髄を見て取れる。
僕は`笑意軒`の竹による樋の大胆な納まり(ディテール)に見入ったが、何度か訪れたことのある妻君は、桂川の水をひいてつくった池、庭園や建築群を一望できる峠の茶屋の趣向ともいえる小高い一角に建つ`賞花亭`に畳が敷いてあるのに驚いている。ふと気がついたのだ。雨が降りちょっとでも風があったら畳がびしょぬれになる。

松琴亭の市松模様の青が退色していて案内人が苦笑しながら解説している。つくりなおして20数年経ったのでと。
この市松模様は、創設者智仁親王の創意と考えられているそうだ。三百数十年前の宮家の建築文化が、現在(いま)と一体となっているのだ。

<写真 表門と穂垣>