日々・from an architect

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建築と写真のポストモダン(Ⅱ) 槇文彦のスパイラルと、写真家ホンマタカシの論考

2010-04-01 10:19:29 | 建築・風景

槇文彦は、私はモダニストですというが、メタボリにも関わったし今の時代をも率いている。MOROさんの気にする東京青山に建つ槇さんの代表作の一つ「スパイラル」は、さてポストモダンと位置付けするのか?

イヤ!と僕が思うのは、DOCOMOMOセミナーで槇さんが、スパイラルの2階に上る階段の踊り場につくったベンチにふれて、人は大勢の人の中で個を確認したくなるときがある、ここに腰掛けてまちなみをみながら個と(つまり人間と)社会のつながりや在り方を考える場をつくったと述べたことだ。建築家の公共の「場」をつくる重い役割をさり気なく伝えたのだが、スパイラルに行くと必ず人が座って思索しているのを見て、その試みは間違いではなかったとセミナーで述べたのだ。そこに僕は市民に目を向けたモダニズムの源流をみたのだ。

そうだ、でもこの槇さんの一言を伝えるために「楽しい写真」を取り上げたのではなかった。
ホンマタカシは明快にこう述べる。
『ブレッソンの水溜りを飛び越える男性を撮った一枚の写真「サン=ラザール駅裏」、つまり「決定的瞬間」、この写真が(この写真も収録した写真集のタイトルは「決定的瞬間」)モダニズムの写真の頂点だ』というのだ。

土門拳、木村伊兵衛の写業を思い起こす。この一瞬、この一枚だ。土門拳はライティングをして仏像を撮るときも、その一瞬があるという。
70年代に入ると「ニューカラー」(僕はこういういい方が写真界にあるのに気がつかなかった!)というジャンルの写真が現れる。
決定的瞬間なんてない、視点が分散し、時間は持続していていつ撮っても等価値という姿勢。そしてここまでが「モダニズム」だというのだ。へー!と思うが、でもこの論考はホンマタカシ流ではなく写真界では通説になっているようだ。

では何が「ポストモダン」なのか。「アート」に接近して行く。つまり「アート」から決別して決定的瞬間(ドキュメントの手法を考えると納得できる)という「モダニズム」へ向った写真が、新しい視点でアートへ向い(回帰か?)アートも写真に向う。つまり重なり合う。(90年に入って)この思潮の転換がポストモダン(ポストモダニズム)だというわけだ。

この経緯を建築の言語に置き換えると解ってくる。装飾をアートと置き換え、例えばジェンクスのジャンル分けの一部門歴史主義のオーダーなどを短絡的に装飾復活の「アート」といってしまうのだ。
時代的には建築の方が早い。産業形態など社会とのかかわりがより強いからからだろう。

写真を考える。「よいこのために・・」なんて言われていながらこの著作には心が揺さぶられる。
ホンマタカシはこんなことも言う。「写真って動きが無いから時間を撮れない、しかし時間しかないんだ」そしてホンマと対談した仏文学者の堀江敏幸氏はこういう。
「写真でもっとも恐ろしいのは、映された人がそこにいたという事実、過去がいきなりそこにあり、同時にその過去はそこに無い」。僕たちは写真に学ぶことが沢山ある。こんな言葉を目にするとそれが事実であるだけに、ある種愕然とする。

では建築はどうか。過去がある恐さとその事実の大切なことを僕たちは思わないか!