日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

愛しきもの(7)白州正子の「美は匠にあり」と、わが家の仁王窯の皿

2009-03-08 22:59:57 | 沖縄考

白州正子の「美は匠にあり」(平凡社ライブラリー)に引きずり込まれた。
この文庫本は`芸術新潮``古美術`や`太陽`など、様々な雑誌に書かれたものから「美は匠にあり」というテーマに沿って抜粋・収録したもので、白州正子の真髄を垣間見ることができる。
ことに冒頭の1984年に書かれた「木は生きている」の「値段のことなど考えていたら物とはつき合えない。ただ好きだから買う」という一節には、ついつい頷いてしまう。
『それだけのことで、物からもらうものが無限にあることを考えれば、そして殺伐とした現代生活を豊かにしてくれることを思えば、どんな値段でも(自分に買える程度なら)決して高くはないのである』。

妻君が眼を剥きそうな一節だ。だが「自分に買える程度なら」とあるのでそれなら、と苦笑されそうだ。それとて白州正子と僕では、一桁や二桁の違いではあるまい。でも物は値段ではない、と思ってしまう魔力のあるコトバだ。値段なのかも知れないのだが、そうではないだろうと、天国にいる白州正子に恐る恐る聞いてみたい。

炉ぶちを買ったときのエピソードが添えられている。
『足元を見られて法外な値をつけられたが、武士に二言はない、と変なところで意地をはり、ほかのものを手放して、ようやく自分のものになった。最初のうちは、人みしりをしているように見えたが、二、三年経つと部屋の中におさまってくれた。今では昔からそこにいたような顔をしている』。

白州正子は、「物」は物を言わないが使い込んでいくと「美しくなって嬉しそうな顔をする」という。そうなのだが、これは結構恐いコトバだ。「嬉しそうな顔をする」。見なれたものが、あるとき突然物が嬉しそうな顔をすることが僕にもある。でも同時に「僕は果たしてこの`もの`に、お前は私にふさわしいオトコか!」と問いかけられているような気がすることもあるのだ。

物を見ておのれを知る。物でなくてもよくて、「出会った人を見ておのれを知る」でもいいのだが、「物」であることに味わいがあり、物に僕がふさわしくなければ持つことがなんだかもったいないし、物が可哀相だ。
物は人がつくる。だから「美は匠にあり」なのだが、自分が物を持つにふさわしくないなど少しも思わないところが白州正子だと思うし(お能は女には舞えないと悔しがることは別にして)とうていかなわないなあと溜息が出る所以でもある。

この文庫本には、黒田辰秋のつくる木工の漆についての詳細なレポートがあって、もしかしたら貴重な技術のアーカイヴスなのではないかと驚嘆させられた。黒田辰秋が、漆を学び発見し、試行錯誤しながら自分のものにし、しかし漆に及ばないと畏怖するさまを、白州正子は見事に捉えた。志野を発見した荒川豊蔵との親交や、こんなことを書いていいのかと驚いた辛辣な魯山人評などが記載されていて、興味が尽きない。

僕にも物とのふれあいがある。沖縄の金城次郎や大嶺實清の茶碗であったり、野田哲也の版画であったりするのだが、そのどれもが手に入れるとき、僕なりにお金と相談して逡巡したものだ。でも買った。値段はともかく白州正子調だ。この一文を書きながら手に取り、掛けてある版画に見入ると、まあそんな理屈はどうでもよくなり、ただただ感じ入り、慈しむだけだ。
これからも時折書き綴りたい「愛しきもの」。まあそんなことだ。

ここに掲載する写真の赤絵の皿は、二十数年前に沖縄壷屋の小橋川仁王窯で沢山買ったものの一枚である。ことあるごとに使いこなし,今ではわが家の一員、`愛しき皿`だ。沖縄に行きたいという娘は、仁王窯に連れてってという。自分の皿が欲しいという。自分のお金で手に入れた皿を!