日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

青森へ(2)十三集落・冬になると詩人が来る

2008-09-13 17:32:52 | 建築・風景

津軽十三は、明大神代研究室が調査を行った1972年では、北津軽郡市浦村十三だった。今では五所川原市十三だが、五所川原市の中心地から40キロも離れていて、車でも1時間以上掛かる飛び地になっている.
十三は五所川原市になったが、周辺地域は住民の思惑があって、市町村合併がまとまらなかったようだ。でもそれがよかったと若山さんが云う。土地固有の風情・文化が残ったと言うのだ。

その若山さんの車で僕たちが連れていかれたのは小高い丘の中腹にある唐川城址。十三集落と十三湖を一望に見渡せる景勝地だ。僕たちが調査に来たと聞いて「全貌をみておけ!」とは云わないけれど集落の位置付けがわかるよ、と僕たちの好奇心を受け止めてくれたのだ。それはまた遊びに来たのではなさそうな僕たちへの若山さんの好奇心なのだ、と思う。

十三を支えているのは十三湖で獲れる蜆だ。
十三湖には山岳信仰の対象岩木山を源とする岩木川が注がれ蜆を育てる。その十三湖と日本海にはさまれた細長い土地に道路を挟んで十三集落がある。かつてはその入り江を通って北前船が十三湖、つまり十三湊に入ってきたのだろう。そのさまが見渡せるのだ。

神代先生が調査をした36年前にはまだ木造の跳ね上げ橋が掛かっていた。今はコンクリート橋。岩木川が運ぶ土砂によって水深が浅くなり、大きな船が入らなくなったからだ。十三湖は湊(港)でなくなり村が衰退していった。集落を見ながらしみじみと語る若山さんの話に打たれた。

コミセもかっちょ(囲い塀)も、過酷な冬の寒さと風から生活を守る知恵だった。「日本のコミュニティ」に掲載されたモノクロ写真はその様を見事に捉えていて心を揺さぶられる。
倒れないように低く這い蹲った板張りの家、かっちょの板は寄木(よりき)と言われる流木を使った。住民がうち(家)を守るために自分の手でつくったのだ。だから高さが凸凹。貧しかったのだ。僕は天草で過した小学生時代の竹屋根の家を思い出していた。でもここは更に厳しい厳寒の地。

雪と氷で人は道を歩けない。道路に面して下屋を作り、板で囲って人の行き来ができる通路にした。その連なるコミセは今はない。温暖化だ。厳寒の季節でも道を歩けるようになった。
安い建材が生産され、少しだけ裕福になり、少しだけ階高の高い2階建てが建てられるようになって街並みが変わった。昔の面影を宿す家屋はまだあるが、なんとまあ新建材街並みに変わっていく。

寄木の`かっちょ`があるかもしれないと若山さんは日本海側の対岸に車をむけた。一言。「ないなあ!」。改めて自分のまちを見て驚いている。あっても大半が大工が製材した板を使っている。
日本海との間の狭い陸地は背の低い暴風林になっているが、ひらめの養殖がなされている。集落の産業だ。
かつてあった丸太の火の見櫓はなく、すぐ傍に太い丸太でつくった大きな鳥居が道をまたいで建っている。神社の鳥居も丸太だ。ずしんと僕の心に響くものがある。神に支えられた自然との共存。少し様が替わったがお祭りは綿々と行われていて14日(8月)に終わった。これから冬を待つ。だから今は静かなのだ。

若山さんは昭和27年生まれ。父親は役場に頼まれて十三湖の対岸に渡る渡し船の船頭をやっていたそうだ。冬になると仕事がなくなる。村人全てがそうだったのだろう。出稼ぎに出るのだ。
それでは家族や子供がかわいそうだ。修業に出た。そして弘前で奥さんと出会った。十三集落の突端に民宿と食堂を開業した。昭和49年だ。
村人と共に蜆にトライした。「とぎょっこ」、蜆はきれいな水でないと育たない。そこからはじめた。村おこしだ。そして、若山さんは自分の店でいろいろと試した。残ったのは蜆ラーメンと蜆のバター炒めだけだったと笑う。

民宿和歌山の裏、十三湖側に蜆の競り場(市場)がある。見せてもらった。ランク付けされた蜆が網に入って2時から行われる競りを待っていた。
一日歩いただけで津軽十三が解ったとはいえない。でも若山さんに出会えたのはありがたい。
冬に来なければと思った。津軽に惹き込まれたのだ。
来る人はいる。絵描き、写真家、作家。そしてふと声を替えて「詩人」。その言い方と若山さんの笑顔に思わず僕たちは声をあげて笑った。

<写真 `かっちょ`と丸太の鳥居>