瀬戸内海に面する今治市は、人口165000人を擁する松山市に継ぐ愛媛県第二の都市である。
瀬戸内海をまたぐ、しまなみ海道(西瀬戸自動車道)が開通し、姉妹都市広島県の尾道が身近になった思いがけず大きなまちだ。
と思ったのは、正しくバブルの時期、僕は新横浜を中心として沢山のオフィスビルの設計をしたが、収支のためのプログラムソフトを開発したのが今治の人で、何故四国の僻地でこんな素晴らしいソフトがつくれるのかと驚いたことを思い出したからだ。
無論僻地ではなかった!港町ではあるが、新しい建築が点在する四国では第五の人口を持つ、いわば大地方都市である。
初めて訪ねたのは昨年の4月、四国宇和島郡にあるA・レーモンドの設計した鬼北町庁舎(町役場)の保存活用のための委員会時に、委員会仲間の藤岡洋保東京工業大学教授と共に、傷み始めたまま放置されていて気になっている西条市の体育館(設計・坂倉準三)を見たあと、丹下健三の設計した庁舎や市民会館、公会堂を見るために訪ねたのだ。
藤岡さんは、丹下健三の代表作と言っていいのかと案内してくれながら気にしていたが、僕は市民会館のディテール(おさまり)に魅せられていた。
打ち放しコンクリートの梁や方立(格子のようなもの)のハメ殺し窓ガラスは、スチールによるシンプルな上下枠に組み込み、左右は工場でつくったPCコンクリートに溝を切って収めている。この施工では誤差が許されず、精度の高い仕事が要求される。だからこの建築がシャープなのだ。これに類する繊細な収まりが随所に見て取れる。
丹下はこの建築に命を懸けたと言いたくなった。
今治市は丹下健三の出身地で、名誉市民に推挙されている。丹下はそれに応えたのだ。
2度目に訪れたのは今年の3月4日、鬼北町の最終委員会の翌日に足を伸ばした。東日本大震災の起こる一週間前の、まだうっすらと雪の残る山街道をレンタカーで走った。
愛媛の建築家から、耐震診断をしたものの、市長が市民会館の建て替えをほのめかしていて、市民会館に続いて折版構造による公会堂も解体を目指しているのだと耳打ちしてくれたからだ。もう一度今治のまちと丹下の建築を見たい。
丹下健三は市庁舎と公会堂を53年前になる1958年につくり、1966年の市民会館による三つの建築群によって囲む外部空間を市民広場として位置づけ、港と駅を結ぶ大通りに延長上に配置した。1年前に訪れたのは日曜日で、その広々とした外部空間を感じ取ることが出来たが、2回目に訪れた3月時には車で埋まっていた。
駐車場にすることを丹下が望んだのだとは思えないが、再度確認したのは3棟の建築の高さを押さえた、このまちの景観の中の公共建築の正統な姿だ。
その後、同じ丹下事務所によって庁舎の裏手に高層による増築がなされたが、丹下の志したこの都市広場は残されていて、見事な調和が保たれている。
丹下は今治市の誇りだが、この一連の建築も市民にとって掛け替えのない誇りうる文化資産なのだと実感する。同時にこの建築は日本の建築界や社会に果たした丹下の存在や建築史、とりわけモダニズム建築としての存在を考えると、この建築群を失くしてはいけないのだと心が騒ぐ。
ハナエモリビルや赤坂プリンスという丹下の軌跡を考えるときに欠かせない、しかも超高層建築が日本で始めて解体されることを考えると、どこかで歯止めをかけなくてはいけないとあせる。
6月の市議会で市長は、中心市街地再生基本計画に基づいて、公会堂、市民会館改築の検討をすると、言い回しは微妙だが明言した。その裏には何があるのか、建築の存廃を単なる経済行為として考察する市長の思惑に危惧を覚える。
6月7日、建築学会四国支部とDOCOMOMO Japanは市長と市議会議長宛に保存要望書を提出した。新聞各社が大きく報道してくれた。
<写真 左が折版構造による公会堂、その右手の奥に建つ市民会館。この写真の右手に市庁舎が建てられている。絶妙な配置がなされているのだ>
戦後に建てられた建築の存続問題があちこちで大きな課題になっていますね。戦前のは大丈夫ということではないのですが・・・
原発問題の裏の問題に類似するような困った問題で、人の動向が目に見えるような地方都市の難しい状況も見て取れます。ですがどこかで価値の共有ができることを願うとともに、そういうメッセージを伝えたいものです。
こういう中で、高崎のレーモンドの設計した群馬音楽センターが(折板の代表的な建築ですね)会館50年を迎え記念シンポを行うのですが、前市長と新市長が保存活用を宣言して使い続けられるようになりました。いろいろと頑張っていると嬉しいこともありますね。
近じかここでも紹介します。